邪馬台国論争の真相Q&A
〜ダチョウ社会の生成過程とその構成員〜
暁 美焔(Xiao Meiyan) 社会学研究家, 2021.2.6 祝3.5版完成!
1. 「邪馬台国論争の真相」の禁忌に関する質問
適当にインターネットで情報を集め、いい加減な主張をするのは社会悪ではありませんか?
いつの時代でも、良い情報とは「読者の知らない事が書いてある事」、そして「読者が読んだ後に、考え方が変わる事」だと考えています。
ここで提供されている情報は、意図的に秘密にされてきた情報が多く、多くの読者は知らないはずです。
従って社会に対して最高品質の情報を提供し、社会に貢献できたはずです。
間違った事が書いてあるかもしれませんが、その場合には何が間違っているのかを公共の場で議論すれば良いだけです。
この国には、言論の自由があるはずなのですから。
邪馬台国論争は歴史学の問題です。社会学を持ち出すべきではないのでは?
「ものごとを正しく見るには、たった一つのやり方しかない。物ごとの全体を見ることだ。」と述べたのは、
イギリスの評論家ジョン・ラスキンでした。
邪馬台国論争とは単に歴史問題であるだけでなく、社会問題でもあります。
この問題を解決するには、「邪馬台国論争」という社会現象の全体を見る必要があります。
主張は実名ですべきです。匿名の歴史コメンテーターの主張など無視すべきではないですか?
アイルランドの詩人オスカー・ワイルドは、
「素顔で語るとき人は最も本音から遠ざかるが、仮面を与えれば真実を語り出す。」と述べています。
実名を使用している人達はポリティカル・コレクトネスに注意を払う必要があり、
例え真実であったとしても社会的に問題が有りそうな内容を発言できません。
特に社会的に敏感な話題においては、実名の場において出される意見は本音ではない事を疑うべきです。
むしろ匿名者の主張の中にこそ、真実がある可能性を考えるべきです。
歴史学の手法を学んでいない者は歴史を語るべきではないのではありませんか?
ある手法を学んでそれを絶対視した場合、「専門偏向」や「知識の呪い」という認知バイアスに囚われてしまいます。
歴史学には幅広い観点からの検証が必要で、理性主義、経験主義、実証主義、科学的方法などに基づいた、実現可能性や合理性の論証が必要です。
歴史学者達が「専門偏向」や「知識の呪い」に囚われている現状においては、残念ながらそれは外部の者によってのみ可能です。
それに外部の人間は、歴史学者達とは異るアプローチから真実に至る道を見つけることができるのです。
「空はどこに行っても青いということを知るために、世界をまわって見る必要はない」と述べたのは、
文豪ゲーテでした。
「邪馬台国は日本列島には存在しなかった」というような自明な事を知るために、
歴史学の手法などをわざわざマスターする必要はありません。
素人がプロの学者達の成果を批判するのは「研究ごっこ」ではありませんか?
「無知をおそれてはいけない。偽りの知識を恐れよ。」と述べたのは、
ブレーズ・パスカルでした。
恐れるべきは楽浪郡平壌説のような偽りの知識であり、素人である事など恐れる必要はありません。
史料を総合的に解釈できないからと言って史料自体を否定するのは、
史料に立脚して歴史を考える歴史学の立場からすると学問自体の否定です。
しかし、日本の歴史学者達が崇拝しているのは史料よりも先学達の先行研究です。
研究成果が内藤湖南や白鳥庫吉の時代から既に間違っており、
代々間違いを大切に引き継いでいる事に気づかないのです。
「研究ごっこ」をしているのは日本の歴史学者達の方です。
「楽浪郡遼東説」とは平壌説が定説化される前には一般的に主張されていた説で、別に大それた主張をしているわけではありません。
それに大多数の学者達が主張する説だから間違い無いだろうというのは、専門家の信念や多数派意見という誤謬を犯しています。
「学問の父」とされる古代ギリシアのアリストテレスは「ある事を確信している場合、その前提となっている理由はその都度問われても良い」としました。
前提となっている理由は、矛盾が出る度に疑うべきだというのは、古代ギリシアの時代から学問の基本中の基本なのです。
残念ながら日本の歴史学にはその学問の基本が存在せず、独断主義に陥ってしまい、前提を疑う事がないのです。
日本の歴史学とは「結論ありきの歴史学」なのです。
歴史の解釈は専門家集団に任せるべきで、素人がいい加減な気持ちで語るべきではないのでは?
「邪馬台国が日本列島のどこかに存在した」という歴史仮説は歴史書の記述も考古学資料も、
総合的に何も説明していません。
学問とは幅広い分野から総合的に検証される必要であり、
専門家は他分野からの意見を積極的に受け入れなければなりません。
それに「不正の背景」と言われる「物言えぬ風土」に専門家集団が支配されてしまった場合、
不正を指摘できるのは外部の人間しかいません。
組織が内部批判を許容できなくなった場合、その組織はもう腐っているのです。
「分析は、はじめから総合を視野に入れ、かつ総合に役立つように配慮するのでなければ、総合に役立たない」と述べたのは、
フランスの歴史学者マルク・ブロックでした。
「邪馬台国は日本列島には存在しなかった」という歴史仮説は歴史書の記述も考古学資料も、
全て総合的に説明できるのです。
ネットしか情報源が無い素人が、専門家が気づかない真実をそんな簡単に知れるはずがないのでは?
「史料は太鼓のようなもので誰かが叩かなければ音はでない、すなわち、問題意識を持って史料に問いかけない限り答えてくれない」という名言を残したのは、
マルク・ブロックでした。
真実に至る情報は、ネット上にいくらでも転がっています。
しかし歴史学者達は独断主義に陥って結論が決まっていますので、
日本の歴史学者達はそれらの情報を無視するだけなのです。
素人が歴史を語り専門家を批判するのは歴史学への冒涜ではありませんか?
歴史学とは客観性と合理性を保ちながら研究すべきである、というのが歴史哲学における重要な考え方です。
もし専門家集団が合理的思考を失って歴史修正主義に陥ってしまった場合、それを批判できるのは部外者しかいません。
それに正しい歴史を語るのは歴史学への貢献です。
妄想歴史をドグマとして歴史学を冒涜しているのは、私ではなく日本の歴史学の方です。
「発見に至る最大の障害は無知ではない。それは知識による錯覚だ」という名言を残したのは、
アメリカの歴史学者ダニエル・J・ブーアスティンでした。
日本の歴史学者達は「歴史学の成果の蓄積」という知識による錯覚により、
袋小路に陥ったまま出る事ができないのです。
他分野の専門研究の成果は尊重すべきではありませんか?
「自説に固執し夢中になることは愚鈍さの最も確かな証拠である」と述べたのは、
フランスの哲学者ミシェル・ド・モンテーニュでした。
正しい研究成果であればもちろん尊重しなければなりません。
しかし、間違った研究成果に固執し夢中になっている愚鈍な者達を尊重すべき理由などありません。
むしろ「他分野の専門研究に干渉すべきでない」というルールこそが、不正研究が見逃されている原因でしょう。
これまでの歴史学の成果を否定するのは「歴史修正主義」ではありませんか?
学問としての歴史は常に見直しの可能性が開かれています。
何故ならば、絶対化された歴史はイデオロギーとして神聖化された物語であるからです。
歴史学における用法での「歴史修正主義」とは、自然科学における「パラダイムシフト」に相当する概念であり、学問の発展に寄与するもので倫理的にも問題はありません。
正しい成果は尊重しなければなりませんが、間違った成果を否定するのは学術的にも倫理的にも正しい行為です。
最初から「歴史修正主義者」によって修正されてしまった歴史は、真実の歴史に戻すべきです。
「子供たちを正直であることができるようにすることが、教育のはじめである」という名言を残したのは、
ジョン・ラスキンでした。
改竄歴史を事実のように子供たちに教える日本の歴史学とは「子供だましの歴史学」です。
ウソで騙して子供たちに正直であることができないようにする事は、
教育の基本を破壊しています。
歴史学者が嘘をついていると批判するのは倫理的に問題がありませんか?
ロシアの小説家アントン・チェーホフは、
「嘘をついても人は信じる。ただ権威をもって語れ。」と述べています。
権威のある者達が集団で嘘をつけば、人はそれを信じるのです。
まさか歴史学者達自体がそもそも誤りを見て見ぬフリをするダチョウの集団である、
などとは誰も考えたりしません。
だから人々はこれまで彼ら主張を疑った事はなかったのです。
それにアイルランドの文学者バーナード・ショーは、
「すべての偉大な真理は、最初は冒涜の言葉として出発する。」と述べています。
「倫理的に問題がある」ように見えるからこそ、それが真実であるという可能性を考えるべきです。
これまで血の滲むような努力をしてきた歴史学の先輩方を批判するのは失礼ではありませんか?
残念ながら歴史学者達は血の滲むような努力などしていません。
「歴史の真実を探求する」というプロとしての責任を全く果たしていません。
歴史学の専門家の学問研究の成果を参照しない与太話を信じるべき理由は何ですか?
日本の歴史学の成果の蓄積とは、間違った先行研究の土台の上に構築されたゴミの山です。
そのような成果を崇拝してきたから日本の歴史学は似非歴史学になってしまったのです。
真実を追求するのであれば、間違った研究成果を参照するべきではありません。
日本史とは歴史研究者による実証史学に基づいた研究成果ではないのですか?
史料批判の英語版においては、
史料の評価における最も一般的な方法とは、認識論である事が明記されています。
(Epistemological theories are the basic theories about how knowledge is obtained and thus the most general theories about how to evaluate information sources.)
しかし日本の歴史学では、史料を評価する際の最も一般的な方法であるはずの認識論に基いた科学的なチェックを全くしていません。
日本の歴史学とは、いわゆる「科学」ではないのです。
それ故に日本の歴史学には、邪馬台国が日本列島に存在しなかった事を理解できないのです。
日本の歴史学は実証史学に基づいてなどおらず、それは先行研究に基づいています。
先行研究を崇拝する余り先人達の過ちを大切に守り続け、
歴史書の記述を先行研究に合うように解釈してトンデモ歴史を創作し続けてきた疑似歴史学です。
何故、このように学者達を批判するのですか?
「概してすべての大きな失敗の奥底には、うぬぼれが潜んでいる。」と述べたのは、
ジョン・ラスキンでした。
日本の歴史学の奥底には、「歴史学の成果の蓄積」に対するうぬぼれが潜んでいます。
そして歴史学の大きな失敗を直視できなくなっています。
歴史学の手法とは客観的な根拠を示し、論理的な考察を行い、他者を納得させられる方法であるべきです。
特定の立場に都合よく利用する思想を排し、実証主義に基づいて科学的、客観的に歴史を把握せねばなりません。
歴史は都合の良い物語などではなく、歴史学は絶対に歴史を捏造してはなりません。
「虚像で構成されて世に与えられている歴史に対し、実像を組み立てるのが歴史家の仕事だ」と述べたのは、
日本の歴史学者和歌森太郎でした。
しかるに日本の歴史学者達は科学的な手法に基づいた検証を行わず、社会的影響によって多数派を構成し、
政治的影響力を用いて都合の良い物語を「真実」とし、虚像で構成された歴史を世に与えています。
日本人とは創造力に溢れた素晴らしい人々だと考えています。
しかし、数多くの日本人が歴史修正主義者達に騙されて無意味な論争に時間を費やし、何の成果を得る事もないまま時間を過ごしています。
この論争は単に無意味なだけでなく、我々から健全な思考能力を奪い、むしろ有害です。
擬似歴史学を広めて多くの人間の人生を台無しにしてきた学者達は、批判されて当然です。
このような論争は、我々の世代で終わりにすべきだと考えます。
このように学者達を批判する正当性の根拠は何ですか?
正当性の根拠は、「知的な責任(intellectual responsibility)」という概念にあります。
アメリカの哲学者ノーム・チョムスキーは、
「知識人は真実を追求し、嘘を暴く責任がある。」と述べています。
知識人は皆、「知的なノブレス・オブリージュ」を果たすべきです。
我々にはニセ歴史を放置すべきではない、という知的な責任があるのです。
本来ならば、これは学者達、マスメディアや評論家などがやるべき仕事だと考えます。
しかし残念ながら社会的責任のある者たちは皆、ダチョウになってしまったようです。
「おそらく人生で最も罪深いことは、正しいことだと知りつつそれをしないことだ」と述べたのは、
アメリカの牧師マーティン・ルーサー・キングでした。
そして「あなたが行動を起こす必要がある時、それは誰もがそれをしようとしない時と、
人々が”そんな事できるわけがない”と言っている時だ」と述べたのは、
アメリカの歴史家、ウィリアム・ダラントでした。
仕方がありませんので社会的責任の無いこの私が、
罪深いダチョウ達に代わって「知的な責任」を果たします。
偉大なるインドの指導者マハトマ・ガンディーは次のように述べています。
「たとえ一人になろうとも、全世界に立ち向かい給え!
世界から血走った眼で睨まれようとも、君は真っ向から世界を見すえるのだ。
恐れてはならない。
君の心に響く、小さな声を信じ給え!」
このように定説を批判するのは倫理的にも法律的にも問題がありませんか?
アルベルト・アインシュタインは量子力学をニセ科学だと批判しましたが、倫理的にも法律的にも責任を追求されるどころか、問題点を指摘する事により量子力学の発展に寄与しました。
学問の世界では立証責任が存在するのは説を主張する方であり、説を批判する方ではありません。
不満があれば反論すれば良いだけです。
批判するという行為自体が学問の発展に寄与する社会貢献です。
批判が正しかろうが、間違っていようが、批判側には倫理的にも法律的にも何の問題もありません。
それに不正行為(虚偽の科学メッセージ、研究過程を故意にゆがめる等)の告発は社会正義の一つであり、
民主主義社会においては倫理的にも法律的にも問題となる事があってはなりません。
「この世は危険なところだ。
悪いことをする人がいるためではなく、それを見ながら何もしない人がいるためだ」と述べたのは、
そのアインシュタインでした。
また「どこにおける不正であっても、あらゆるところの公正への脅威となる」と述べたのは、
キング牧師でした。
そして「不正の存在を前に沈黙する人は、まさしく不正の共犯者に他ならない」と述べたのは、
ジョン・ラスキンでした。
先人達が繰返し人々に警告してきたように、
倫理的に問題のある行為とは「不正の前に沈黙する事」なのです。
従って定説を批判する事に対して倫理的な問題など何一つありません。
歴史学者達が邪馬台国朝鮮半島説を無視する理由は何故ですか?
「いかなる虚偽も、そのためにさらに別の虚偽をねつ造することなくしては主張できない」と述べたのは、
ドイツの劇作家レッシングでした。
嘘を嘘で塗り固めていくと、そのうちに自分でも何が真実だったのかを忘れてしまいます。
残念ながら日本の歴史学者達とは、
間違った先行研究を守るために次々と新な間違いを犯し続け、
壮大な虚構の歴史体系を作り上げてしまったニセ歴史創作集団です。
「問題になっていることに沈黙するようになったとき、
我々の命は終わりに向かい始める」と述べたのは、
キング牧師でした。
歴史学者達は「論議の舞台に上げるだけでニセ歴史学を歴史学と対等の扱いにしてしまうから無視するのだ」などという口実を使います。
しかし実際には単に反論できないだけで、歴史学者達の命は既に終っています。
自らが既に死亡した存在である事を隱して生き続けるためには、
そのような仮説は存在しない事にして無視する以外に方法が無いからです。
「科学における不正行為」において、無視しなければならない理由が説明されていますので、紹介します。
捏造や改竄が露見すると、本人のみならず科学界全体の信用を著しく損ねるため、不正行為を働いた者がそのまま研究者として科学界に留まることはもはや不可能である。
科学者生命が終わるとともに、社会全般での信用も失い、以降の発言力も著しく低下する。
また、懲戒解雇などで地位を失い、社会的な状況も相当に厳しくなる。
さらに、不正行為を働いた研究者を管理すべき立場の人間もその責任を追及されることがある。
これら行為は人々の科学への信頼を揺るがし、科学の発展を妨げ冒涜するものであり、不正行為は科学そのものに対する背信行為とみなされる。
文部科学省のガイドラインでは、不正行為への対処は一義的には、まずは研究者自らの規律、ならびに研究者コミュニティ、大学・研究機関の自律に基づく自浄作用としてなされるべきであるとする。
懸賞論文や競争的研究資金の公金が支出されているものについて不正が発覚した場合は、真偽が判明するまでは一時的に資金支出が停止され、不正と認定された場合には悪質性や重大性の程度により全部または一部が返還請求される。
一方で不正は行われなかったと認定された場合は、研究費支出の停止や採択の保留等の措置を解除し、名誉回復措置等を講じるものとしている。
捏造した結果や改竄を元に公的な助成金などを申請し受けていた場合は、補助金適正化法違反に該当し、研究者本人や所属する大学は研究費の不正使用として返還・罰則の対象となる。また国の補助金以外の場合には詐欺(刑法246条)に問われる可能性がある。
マスメディアが邪馬台国朝鮮半島説を無視する理由は何故ですか?
マスメディアの報道は、「歴史学の資料検証方法は正しい」、「歴史学者の権威は信用できる」という二つの前提に基づいています。
そして、これは古代史だけでなく、現代史においての報道も同じです。
邪馬台国が朝鮮半島に存在した場合にはその二つの前提が崩れ去り、
マスメディアが調査報道を行わず、
発表報道を繰り返してきた報道の在り方が問題となります。
マスメディアには真実を追求する能力が無い事が証明され、
偏向報道を行ってきた報道の在り方も問題となります。
そして虚偽報道を繰り返す事で、国民を誤った方向に導いた報道の在り方も問題となります。
「嘘をついたジャーナリストには徹底的に攻撃を加え、制裁を加える必要がある」と述べたのは、
とある日本の政治学者です。
「報道におけるタブー」において、マスメディアが無視しなければならない理由が説明されていますので、紹介します。
テレビ報道や新聞各紙、即ちマスメディアそのものの在り方などを批判するようなことはタブーである。
これは自分自身を否定してしまうことに繋がるため、マスメディア自身が電波を通して公式の見解として発表することは勿論、視聴者である国民が一意見として投稿したものを大々的に認めることは有り得ない。
つまり、テレビや新聞等のメディアに、メディアそのものの是非を求めても無意味であり、たとえ機会があったとしても当たり障りのない議論しかなされない。
その為、国民はマスメディアに対する批判をBPOに寄せたり、インターネットを使って世間に発信することになる。
誰も邪馬台国朝鮮半島説を批判しない理由は何故ですか?
日本社会では論理的な討論がされる事はなく、人格攻撃しかされないからです。
そして人々は匿名で主張する者の人格を攻撃する事の効果よりも、
邪馬台国朝鮮半島説が話題にされる事の方をより恐れるからです。
話題にする事ができませんので、批判する事が誰もできないのです。
誰も邪馬台国朝鮮半島説を話題にしない理由は何故ですか?
「邪馬台国が朝鮮半島に存在した」と主張する行為とは、
結局のところ「日本の歴史学者達とはニセ歴史創作集団である」と主張する行為と同じなのです。
即ち朝鮮半島説が「歴史学者達のコンセンサスを疑ってはならない」という社会規範から完全に逸脱しているからです。
朝鮮半島説が引き起こす認知的不協和のマグニチュードがあまりにも巨大であるために、
朝鮮半島説を議論する行為が社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているためだとも言えます。
それに、邪馬台国日本国内説を守ろうとする勢力はあまりにも強力です。
歴史学者やマスコミだけでなく、左翼、右翼、歴史愛好者など、活動的な人達ばかりです。
彼らは論理的な議論ではなく、社会的な圧力を用いて邪馬台国日本国内説を守ろうとします。
そのため「集団思考」に陥っており、
集団思考の結果として「自己検閲」という現象が現れている、と言う事もできます。
それは波風を立てるような仮説は話題にしてはならないために、
社会において「沈黙の密約」が生成されているからだとも言えます。
これらの現象をもっと分かりやすい表現で説明すれば、
邪馬台国朝鮮半島説は「パンドラの箱に封印されている」のです。
別の言葉で表現すれば、日本社会とは誰もがダチョウである事に安住する「ダチョウ社会」なのです。
「歴史学者達のコンセンサスを疑ってはならない」理由は何故ですか?
イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーは、
「どの時代の歴史を扱う場合でも、感情をまじえず、偏見を持たないことは、歴史家にとってつねに不可能なことだと思う」と述べています。
そしてイギリスの歴史哲学者C.ベーハン・マッキュラーは「歴史記述を最終的に証明する方法は存在しない。ただ正当化するのみである。」と述べています。
即ち、歴史学者が偏見を持つ事なく歴史に向き合う事ができるというのは幻想に過ぎませんし、
絶対的な史実なるものを歴史学的に確定する方法も存在しません。
「神でも過去を変えることはできないが、歴史家ならできる」と述べたのは、
19世紀のイギリスの小説家サミュエル・バトラーでした。
「史実の確定」とはそもそも歴史学者に任せるべき案件などではないのです。
「史実」とは歴史学会で査読付きの論文を発表し、
歴史学者のコンセンサスによって認定されるような概念などでは決してありません。
実際にドイツの歴史学者フリードリヒ・マイネッケは、
「歴史家はただ事物の経過を書き留めて評価せねばならないだけであり、 みずから事物の決定に参与してはいけない」と述べています。
歴史学者の仕事とは、歴史仮説が正当である理由を説明したり、歴史の経過を説明したりするだけです。
政治的な決断を促すような絶対的な「歴史学的に確定した史実」など、
現代の歴史学の世界においてはそもそも存在しない概念です。
ですから本来は、歴史学者の主張を疑っても社会的に問題となるような事はありません。
歴史学における基本的なテキストであるE・H・カーの「歴史とは何か」においては、
「歴史家は裁判官ではない」と記述されています。
「歴史学は道徳ではない。歴史家の役割は賞賛や断罪ではなく説明する事である。」というのが歴史学が到達した結論なのです。
しかしながら日本社会においては史実を「歴史学的に確定」し、
それ信じる事を道徳とする以下の4つの社会規範が存在します。
- 史実とは歴史学者達のコンセンサスによって確定されるべきである
- 歴史学者の権威は信頼すべきである
- 歴史学者には歴史仮説の正当性を説明する立証責任はない
- 各専門分野の権威を尊重すべきで、部外者は干渉すべきでない
要するにこれらの「歴史学者達のコンセンサスを疑ってはならず、無条件に信じなさい」という社会規範が日本社会において成立しているために、
日本人は歴史学者の主張を疑ってはならないのです。
「歴史学は道徳ではない」という世界の歴史学における常識を日本人は理解しておらず、
「歴史家の役割は説明する事ではなく賞賛や断罪する事だ」と誤解しているのです。
「歴史学者達のコンセンサスを疑ってはならない」というのは世界共通の社会規範ではないのですか?
「何も考えずに権威を敬うことは、真実に対する最大の敵である」と述べたのは、
アルベルト・アインシュタインでした。
通常の社会においては、歴史学者の権威など特別に敬う必要などありません。
これらの社会規範は世界共通の規範などではなく、日本社会においてのみ成立している規範です。
世界における歴史学の常識とは、このようなものでは決してありません。
歴史学者の権威など信頼する必要もありませんし、
歴史学者には歴史仮説の正当性を説明する立証責任があります。
それに歴史学が明らかにするのは「史実」などではなく「最適の説明」に過ぎません。
そして歴史仮説は公の場で様々な分野の視点から検証されねばなりません。
歴史学者達は、他の分野からの批判を無視したりしてはいけません。
それに対して日本の歴史学者達は史実をコンセンサスで決めてしまえば良いだけで、
立証責任もなければ他分野の視点から検証される事もありません。
それなのに何故か絶対的に信頼され、その主張が疑われる事はありません。
そして他の分野からの批判を無視しても批判されません。
日本の歴史学が世界の歴史学に比べてレベルが低いのは、
このような社会規範が日本社会に成立しているのが原因です。
立証責任が無い上に誰からも批判されないのですから、
日本の歴史学者達は「井の中の蛙」です。
異る視点からの検証がされる事がないので、レベルが低くなるのは当然です。
楽浪郡平壌説のような怪しい仮説をコンセンサスで「定説」にしてしまい、
日本の歴史学を「歴史修正主義の歴史学」にしてしまったのも、
このような社会規範が成立しているのが原因です。
邪馬台国論争が解けない問題になってしまった原因の根源も、
これらの社会規範が存在するためです。
日本社会に呪いをかけてしまったのは、これらの社会規範が元凶なのです。
歴史学者達のコンセンサスが間違いであれば、マスメディアは真実を伝えるべきではないのですか?
マスメディアの本来の社会的役割とは、「国民の知る権利の代行」です。
即ち、マスメディアには社会的役割を果して国民に真実を伝える責任があります。
それこそがマスメディアが国民に対して果すべき責任です。
従って歴史学者達のコンセンサスが間違いであれば、マスメディアは真実を伝えるべきです。
マスメディアは真実を伝え、その社会的役割を果すべきです。
マスメディアの報道倫理として最も重要とされている項目とは、
「真実の報道」なのですから。
歴史学者達のコンセンサスが間違っていても、マスメディアが真実を伝えない理由は何故ですか?
日本のマスメディアには「国民に真実を伝える」という社会的役割を果すよりも、
もっと重要な基本方針があります。
それは「国民に歴史学者達のコンセンサスを疑わせない事」です。
戦前のマスコミが国民に真実を伝えず、軍部の発表を疑わせないようにしていたのと同じです。
マスメディアの報道の信憑性の根拠が軍部から歴史学者に変っただけなのですから。
日本のマスメディアには「情報を十分に提供する」という責任が存在せず、
「報道しない自由」があるのです。
「報道の自由」の概念が単なる政府の干渉からの自由ではなく、
社会への責任と義務を伴った自由であるという「社会的責任理論」を理解していません。
要するに「ノブレス・オブリージュ」の概念を理解していないのです。
マスメディアが歴史学者達のコンセンサスを疑わせない理由は何故ですか?
日本社会においてこれらの社会規範を作り出し、
「歴史学の権威」を全面に押し出して史実を確定してきたのは、
日本のマスメディアです。
マスコミがこのような社会規範を作り出した理由については、
とても一言では説明できない程複雑な事情があります。
これには詳しい説明が必要であり、
それについては「楽園仮説」において説明していますので参照して下さい。
いずれにしろマスコミはこれらの社会規範を守り続ける必要があり、
規範を崩壊させるつもりはありません。
また、このような規範を作り出した理由を説明するつもりもありません。
マスメディアは例え正当性が説明されていない歴史仮説であったとしても、
社会的影響力を利用して歴史学者達に「ポリコレ棒」を用いて圧力をかけ、
コンセンサスを作り出して「史実」を確定させてきました。
そしてそれを「歴史学的に証明された客観的な事実である」として、
それに対しての疑問を持つ行為を社会的規範からの「逸脱」であると認定してきたのです。
マスメディアは自分達に都合の良い「史実」を確定するために、
日本社会に都合の良い社会規範を作り出してモラルを全面に打ち出し、
国民には歴史学者達のコンセンサスに対して絶対に疑問を持たせないように指導してきました。
マスメディアが歴史学者達のコンセンサスを疑わせない理由とは、
マスメディアがこれまで国民を騙してきた事を隱し通すためです。
邪馬台国論争が解決できない問題となってしまった原因は単に歴史学者の無能だけではなく、
このような社会規範を作り出したマスコミにこそ最大の責任があります。
このような規範を作り出してしまったからこそ、
日本の歴史学の学術レベルが低下してしまいニセ歴史学に転落してしまったのですから。
日本人が歴史学者達のコンセンサスを疑うようになると、何が起きますか?
マスメディアが主張してきた「正しい歴史」とは完全に「歴史学の権威」なるものに依存しています。
そして自分達が作り上げた社会規範に基いた「俺様歴史学」の成果が、
まるで「正当な歴史学の成果に基く客観的事実」であるかのように報道して国民を騙しています。
「歴史学の権威」が崩れる時、それは同時にマスメディアの報道への信頼が失われる時なのです。
これがマスメディアが「歴史学の権威」を守り続けなくてはならない理由です。
もしも「邪馬台国朝鮮半島説」などを報道した途端、
歴史学者達のコンセンサスの間違いが疑われ、
マスメディアが作り上げたこれらの社会規範は全て崩壊してしまいます。
即ち、マスメディアがいい加減な社会規範を作って国民を騙してきた事がバレてしまうのです。
もちろん、それが引き起す混乱は歴史学者やマスメディアだけの問題として収束する事はありません。
日本社会全体に混乱を引き起すだけでなく、国際問題に発展する事は間違いありません。
邪馬台国の場所とは「古代史ロマン」どころか、
社会全体に災厄をもたらす「恐怖の大王」のようなものです。
だからそれは「百年かけても解決できない古代史ロマン」などではなく、
「パンドラの箱に封印された恐怖の大王」です。
マスメディアは歴史学者達のコンセンサスを疑わせないために何をしていますか?
歴史学者達は神ではありませんので、現実世界では間違いがあるのは当然です。
むしろ間違いがある方が正常であり、学問とは間違いを修正しながら発展していくものです。
学問の世界では間違った学説を主張しても別に恥しい行為でも何でもありません。
本来の歴史学とは歴史仮説を公の場で様々な観点から議論し、
どのような仮説が最適の説明を与えるかを客観的に判断し、
史実に一歩一歩近付いていくものです。
しかし日本の歴史学では「史実」をコンセンサスで確定してしまうと、
もう修正する事が許されないのです。
楽浪郡平壌説を前提とした先行研究の数が余りにも多過ぎ、
「歴史学の成果の蓄積は正しい」という前提が崩れる事を恐れているからです。
日本のマスメディアと歴史学者達とは、
「歴史学の成果の蓄積は正しい」という前提にすがりついて生きている人達です。
「歴史学者達のコンセンサスには間違いは無い」という前提を「ドグマ」とし、
「無敵の権威に訴える論証」をしています。
彼らは築き上げた虚構の世界を守り抜くために、自らの間違いを認める事は決してありません。
都合の悪い現実から目を背け、空想の世界に生きています。
歴史の真実を追求するよりも、「歴史学の成果の蓄積」を崇拝する事の方が大切なのです。
日本の歴史学とは、妄想の世界を狂信する「妄想歴史学」であり、
日本のマスメディアとは、妄想の世界を現実だと報道する「妄想マスコミ」です。
マスメディアはただ単に歴史学者達の妄想を垂れ流しているだけではありません。
社会的影響力を最大限に使い、歴史学者達の妄想の世界を維持する事に努力を惜しむ事はありません。
歴史学者達のコンセンサスに反するような事実がある場合には、
それが国民には知られないように報道規制しています。
「邪馬台国が日本国内にあったはずがない理由」や、
「楽浪郡が朝鮮半島にあったはずがない理由」などは、
実はいくらでも存在します。
しかしそれらが報道される事が全くないため、誰も知らないのがその証拠です。
歴史学者に都合の悪い情報には、「報道しない自由」があるのですから。
そしてもし歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いてしまった者が存在した場合、
社会的影響を用いて公の場でそれを発言しないように黙らせてきました。
これがマスメディアが「他の専門分野の成果を尊重せよ」という社会規範を導入した理由です。
この社会規範を適用する事により歴史学者以外の「道徳的にまともな者達」は、
歴史学者達のコンセンサスを批判する事が社会的に許されなくなりました。
そしてもし公の場で歴史学者達のコンセンサスの間違いを指摘するような「道徳的にまともではない者」が存在した場合には、
そのような「道徳的に問題がある者」の主張には耳を傾けないように世論を指導してきました。
もし「道徳的に問題がある者」の中に社会的地位の高い者が存在した場合には、
社会的影響を用いてありとあらゆる方法を用いて人格批判を行い、
その者の社会的権威を貶めてきたのです。
マスメディアと歴史学者は運命共同体であり、
彼らが「国民に真実を伝える」という社会的責任を果すつもりなど全くありません。
マスメディアが国民に対して行っている行動とは、
日本人が歴史学者達のコンセンサスを疑わないように沈黙させる事です。
「沈黙を守っている知恵、あるいは発言する力なき知恵は無益なり。」
と述べたのは、
古代ローマの哲学者キケロでした。
また「沈黙は愚者たちの美徳である。」と述べたのは、
イギリスの哲学者フランシス・ベーコンです。
即ち、マスメディアが行っているのは「沈黙を美徳とし知恵を無益にする」ような「日本人の愚民化」です。
マスメディアは歴史学者達と運命を共にする事を既に決意し、
共に破滅するまで妄想の世界を維持し続けるつもりです。
だからマスメディアは邪馬台国が朝鮮半島国家であった事は、隱し続けるつもりなのです。
マスメディアは本当に日本人を愚民化しているのですか?
邪馬台国論争を観察すればそれが理解できるはずです。
九州説も畿内説も語呂合せでルートを決めたり、
証拠にもならないような確証を示しているだけです。
仮説を正当化できるような根拠を示す者は誰もいません。
そして相手の説への非難合戦ばかりです。
根拠が無いにも関わらず社会的な方法で結論を導こうとしているのですから不毛論争になるのは当然です。
こんな方法で邪馬台国の場所を立証できるはずがない事をマスメディアは指摘すべきです。
しかし下手に知恵を授けると国民が九州説も畿内説も邪馬台国の位置への解答とは成り得ない事を理解してしまうかもしれません。
そうすると邪馬台国論争が「擬似問題」である事に気付いてしまうかもしれないのです。
「邪馬台国がどこにあったか」などという問題は、
歴史学者にとってもマスコミにとっても全くどうでも良い問題です。
それどころか、それは絶対に解決してはいけない問題です。
だから歴史学者もマスメディアも邪馬台国論争を終結させる意思など全くありません。
そして日本社会では歴史学者とマスメディアが無視する仮説が社会で正当性を持つ事はありません。
だから邪馬台国論争が終結する事はないのです。
愚民は愚民のままでいるべきです。
歴史学者達もマスメディアも真実を伝えるつもりなど無く、
国民を騙してきた事を墓場まで持って行くつもりです。
彼らがこの擬似問題を放置しているのはこのためです。
国民は歴史学者に対して決して疑問を持つことなく、
「卑弥呼は日本のどこかにいた」などという「古代史ポルノ」で興奮していれば良いのです。
だから邪馬台国に関するマスコミの記事は、考古学的確証の調査結果の提灯記事を発表報道し、
読者が喜びそうな信憑性のないコメントを加えるだけです。
このような「子供だましのマスメディア」に導かれ、
日本人は論理的思考も疑問を持つ事もできなくなり、
邪馬台国を夢想して現実を直視する事ができなくなりました。
マスメディアが日本社会に育て上げたのは、
「歴史の真実に至る議論」をする事なく社会的方法で歴史を確定しようとする「誹謗中傷民族」です。
都合の悪い歴史仮説を主張する者達を社会から排除し、
都合の良い歴史仮説を社会的方法で「通説」にしてしまおうとする人達を育てるために、
次のような世論操作を行ってきたのです。
-
仮説と史実の区別を曖昧にする
-
歴史学者達の説明を鵜呑みにさせる
-
歴史学者達の説明に不都合な事実は報道しない
-
歴史学者達の説明を鵜呑みにしない者には主張の機会を与えない
-
歴史学者達の説明を鵜呑みにしない者にはレッテルを貼る
邪馬台国の女王卑弥呼など、歴史学者とマスコミによる国民の愚民化の道具の一つに過ぎません。
マスメディアの愚民化が日本社会に生み出したのは、
都合の悪い事実から目を背け、政治的社会的に都合の良い歴史仮説「ポリコレ歴史」を史実する事に夢中な「ポリコレ歴史修正主義者」の集団です。
このように歴史修正主義者化された日本人が歴史問題を解決する日など、永遠に來る事はないでしょう。
マスメディアにとっては、歴史問題など別に解決しなくても構わないのですから。
日本人が歴史学者達のコンセンサスさえ疑わなければ。
マスメディアが日本人を愚民化する理由は何故ですか?
「ジャーナリストは、真実でないと自ら心得ている事柄を語る。
しかも、それをしゃべり続けているうちに、真実になるかもしれないと願っている。」と述べたのは、
イギリスの小説家アーノルド・ベネットです。
マスメディアは「邪馬台国」という愛国ロマンをしゃべり続けているうちに、
「歴史学の権威は信頼できる」という暗黙の仮定が真実になるのだと思い込んでいるのです。
マスメディアは「歴史学の権威」なるものを口実にしてこれまでに信憑性のない報道を繰返し、
とっくの昔に「戻れない一線」を越えてしまいました。
もはや戻る事ができなくなった日本のマスメディアには、
その姿勢を維持する事以外の選択肢はありません。
戦前のマスメディアが軍部と運命を共にして大本営発表を繰り返したように、
国民を騙し続ける以外に道はありません。
国民が真相に気付いたりしないように、愚民化しなくてはならないのです。
「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じる事で、
それ以外のものは広報にすぎない。」とは、
イギリスの作家ジョージ・オーウェルが述べた言葉だと言われていますが、
マスメディアが国民を騙し続けるためには、
歴史学者達の広報機関になり下がるしかないのです。
何故マスメディアが真相に気付かれないようにしないといけないかについては、
詳しい説明が必要です。
これもやはり「楽園仮説」において説明していますので、
それを参照して下さい。
いずれにしても100年以上に渡って国民を騙し続けてきたのですから、
バレた途端に顧客達が憤怒に狂う事は当然でしょう。
騙し続けない限り彼らは顧客を全て失ってしまうのです。
歴史学者達もマスメディアも、生きて行くためにはウソの世界を守り続ける以外に選択の余地はありません。
マスメディアは日本人を愚民化し、どのような社会を目指してきたのですか?
マスメディアの主張は歴史学者達のコンセンサスに基いています。
即ち、マスメディアが目指している社会とは「誰もが歴史学者達のコンセンサスを疑わない社会」です。
それは「歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張」に対して日本人が思考を拒絶する社会であり、
即ち敵対する主張を耳にした時に、日本人がダチョウ化するような社会です。
マスメディアが目指してきた社会とは、
歴史学者達の主張を鵜呑みにする思考停止した「ダチョウ社会」です。
マスメディアが理想とする「愚民」とは、どのような人達を意味しますか?
人類の歴史における「愚民」とは一体どのような人達なのかについては、
過去の偉人達が愚者について語った言葉が参考になるでしょう。
「賢者は考えを変えるが、愚者は変えない。」ことわざ(「君子豹変」)
「愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かな事を知っている」イギリスの劇作家シェイクスピア
「阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている」日本の小説家芥川龍之介
「愚者が賢者から学ぶことよりも、賢者が愚者から学ぶことのほうが多い。」フランスの哲学者モンテーニュ
「最大の愚者は、最大の賢者が答えうる以上の質問をする。」イギリスの作家コルトン
「非難は愚者でもできる、理解は賢者しかできない。」アメリカの教師デール・カーネギー
「どんな愚者でも批判し、非難し、文句を言うことはできる。そして、多くの愚者がそうする。」アメリカの教師デール・カーネギー
これらの偉人達の言葉から導かれる「愚民」とは、
「自分を賢いと考え、他者を愚かであると決めつけ、他者の主張を理解しようとせずに非難ばかりする人達」を意味すると考えて良いでしょう。
マスメディアに愚民化されると、日本人はどうなるのですか?
「なにを読もうと、なにを聞かされようと、自分自身の理性でもって同意したこと以外にはなにも信じるな。」と述べたのは、
古代インドのゴータマ・シッダールタでした。
しかしマスメディアに愚民化された者達は、自分自身の理性でもって同意する事はありません。
愚民達には歴史仮説が正しいかどうかについての絶対的な判断基準があります。
それは、「歴史学者達のコンセンサスに沿っているかどうか」です。
「人は少ししか知らない場合にのみ、知っているなどと言えるのです。
多く知るにつれ、次第に疑いが生じてくるものです」と述べたのは、
文豪ゲーテでした。
しかし愚民達は偉大なる歴史学者達が誰よりも多くの知識を持っていると信じ、
彼らのコンセンサスを疑問を持つという事は絶対にありません。
愚民達は歴史学者達のコンセンサスを鵜呑みにする自分達の方が絶対に賢いと考え、
論敵達の方が絶対的な愚か者であると決めつけています。
愚民達が喜ぶ事は、「歴史学者達のコンセンサスに沿った主張を聞く事」です。
その主張を行う人のコメントには必ず「いいね」をクリックしたりします。
愚民達が一番嫌がる事は、「歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張を聞く事」です。
そのような主張を行う「モラルの低い人達」に対し、その人格を誹謗中傷します。
愚民達がその次に嫌がる事は、「歴史学者達のコンセンサスに沿った主張への疑問を出される事」です。
だから何事に対して疑問を持つような懐疑的な人達に対しても、
同様にその人格を誹謗中傷します。
愚民達はまだ愚民化されていない者を見ると嫌悪感を覚え、
自分達と同じように愚民化しようとします。
そして一人でも愚民が増えると幸せな気分になります。
愚民達は敵対する者や疑問を持つ者達を「異端者」と認定し、集団で同調圧力をかけるようになります。
マスメディアに愚民化された日本人とは即ち、「ダチョウ化実行部隊」です。
もっと具体的に説明すると、「愚民化」とはマスメディアが捏造歴史を流布するために作り上げた前述の社会規範を「内面化」する事です。
そして「愚民」とは、それらの規範を守る事に喜びを感じる「自薦の用心棒」であり、
騙されている事に気付かないまま悪事に加担している「役に立つ馬鹿」です。
「自分の意見と違う意見に腹を立てず、そういう意見が出た理由を理解しようとする術を学ぶことが大事である。」、
「われわれにとって最も不愉快な人種は、相手を見境なく分類して、分かり切ったレッテルを貼る人々である。」などと述べたのは、
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルです。
しかしマスメディアに愚民化されてしまった人達は、
自分の意見と違う意見に腹を立て、相手を見境なく分類して分かり切ったレッテルを貼るようになります。
愚者はどのように説得しても延々と持論を展開し、議論が終結する事はありません。
文豪ゲーテも、
「愚者と議論すると、賢者も愚におちいる」と述べています。
愚民化された者達は自分達が道徳的に絶対的に正しいと信じ、
自分達の行動がどのような結果を招くかについて考える事はありません。
文豪ゲーテは、
「何をやっているか知らないことほど恐ろしいことはない。」、
「活動的なバカより恐しいものはない」などと述べています。
キング牧師は、
「この世で本当の無知と良心的な愚かさほど危険なものはない。」と述べています。
マスメディアに愚民化されている事に日本人はどうして気付かないのですか?
愚民化されている事に気付くためには「その主張は本当に正しいのだろうか?」という疑問を持つ必要があります。
しかしマスメディアによる愚民化が成功したため、日本人はそのような疑問を持つ事はなくなりました。
疑問を持たない人達が愚民化されている事に、気付く事はありません。
それだけでなく、日本人はマスメディアによって「一億総ダチョウ化」されてしまいました。
数少ない疑問を持った人でさえも、それを公の場で口にする事はありません。
ほとんどの者達は疑問を持つ事はなく、疑問を持った人もそれを口にする事はない社会。
そのような「ダチョウ社会」で育った日本人が、愚民化されている事に気付く事はありません。
だから日本人は戦前と同じようにいつのまにか愚民化されてしまったのです。
だから愚民化された日本人は、
歴史学者達に騙されている事には気付かないのです。
「もしも愚者が自ら愚であると考えれば、すなわち賢者である」と述べたのは、
古代インドのゴータマ・シッダールタでした。
自分達が愚民化されている事に気付かないから、日本人は愚民化されているのです。
マスメディアはどのような方法で日本人をダチョウ化してきたのですか?
「ダチョウ化」とは問題があまりにも大き過ぎる時に発生する現象です。
ある話題の認知的不協和のマグニチュードがあまりにも巨大な時などに発生します。
人々が問題を話題にしない現象が発生するのは、
それが社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されてしまった時です。
従って「歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張」を聞いた時に日本人をダチョウ化するためには、
「歴史学者達のコンセンサスを無条件に信じるべきだ」という規範が、
社会においてモラルとして確立できるかが鍵となります。
そこでマスメディアがダチョウ社会を実現するための考え出した「ダチョウ化の基本方針」とは以下の通りです。
- 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、
モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、
例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、
モラルに違反する話題をする事ができないため、
ダチョウ化させる事ができます。
何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。
そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきたダチョウ社会実現のための戦略とは、
以下の原則を守る事です。
- 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「ダチョウ化基本3原則」と呼ぶ事にします。
これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。
マスメディアはこの3原則を社会的な方法で徹底させる事で、
歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。
そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、
歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。
このようにして愚民達に正義感を植え付ける事により、
「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、
それは正義を実現するために正当化されると信じさせる事ができます。
このようにして愚民達を凶暴化させる事により、
マスメディアは自らの手を汚す事なくダチョウ社会が実現できます。
このダチョウ化基本3原則を厳守する事により、
マスメディアは単にダチョウ社会が実現できるだけではありません。
例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、
それを隠し通す事ができるのです。
話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。
後は歴史学者達に圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。
そしてマスメディアの保護がなければ、
ニセ歴史学者達には生きて行く事などできるはずがありません。
歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。
マスメディアはこのような方法で都合の良い歴史仮説を社会的影響力を行使し、
「歴史学的に確定した史実」としてきたのです。
「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、
イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。
マスメディアは基本3原則を守る事により、
ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。
そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」
と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。
マスメディアは人間の品性と幸福にとって永久的な本質であるこの「自由な精神」を奪う事に成功し、
日本人を歴史学者の主張を鵜呑みにするダチョウの集団にしてしまったのです。
マスメディアが理想とするダチョウ社会とは、どのような人達で構成された社会ですか?
一般的なダチョウ社会とは、
分かり易く説明すれば以下のような7つのグループの構成員に分類できます。
- 御神体のゾウ(the Holy Elephant)
ダチョウ社会で真実とされている「ウーズル」の裏に隠されている社会の禁忌で、
「ウーズル神社(Shrine of the Woozle)」の神殿の奥の隱された部屋に鎮座している。
その正体が何なのかは分らないが、ダチョウ社会の中心に必ず存在する。
何故ならばダチョウ社会とは、
「御神体のゾウ」の存在を隱そうとするために生成される社会なのだから。
その正体は個人や団体が抱える禁忌なのかもしれないし、
「隠された真実」や「正しくないのに事実とされている主張」なのかもしれない。
或いは「提案してはならない仮説の存在」かもしれないし、
「従う事が正しいとされている、間違った社会規範」なのかもしれない。
- 孵化する前のダチョウ(Unhatched Ostrich)
問題について何も知らず、ゾウの存在を知らない人達。
「孵化する前のダチョウ」の特徴とは、
「騙されている事に気付いていない」事である。
完成されたダチョウ社会においては「ウーズル」が社会において真実(ファクトイド)となる。
そしてほとんどの人達はこの「孵化する前のダチョウ」の状態のままで、
真実を知る事のないまま一生を終わる。
- 狛犬(Guardian Dog of the Woozle)
「ウーズル神社」の境内に入ってきた者の中で、
ゾウが鎮座している部屋に近づこうとする者達を見つけると、
大声で吠え立てて退散させる守護聖獣がこの「狛犬(こまいぬ)」である。
「狛犬」とは「御神体のゾウ」の正体を見てしまった時点において、
既に「戻れない一線」を越えていた者達である。
「戻れない一線」を越えてしまう条件にはいろいろある。
例えばゾウの存在を知らない状態であまりにも長い時間「ウーズル神社」で活動してしまうと越えてしまう。
何故ならば仮説を否定する事は社会的、経済的な地位を失うだけでなく、
人生も人格も全てが否定される事になってしまうからだ。
「ウーズル神社」の教えを信じて同調しない者に対しては軽蔑するのが当然であると考え、
同調しない者達を卑劣な手段を用いて攻撃してきた者達は、
一発で「戻れない一線」を越えてしまう。
今更「間違いだった、ゴメンね」では済まされないからだ。
このように「戻れない一線」を越えた者達がゾウの姿を見てしまった場合、
もはや「ただのダチョウ」としてひっそりと暮す事はできない。
「御神体のゾウ」を守護する事に全霊をかけるこの「狛犬」となるしか生きていく道は残されてないのだ。
彼等こそがダチョウ社会を持続させ続けている、
「ダョウ社会の黒幕」ある。
「狛犬」の特徴とは、「生きていくためにウソをつく」事である。
「御神体のゾウ」を生み出した上に100年間それを隠蔽してきた歴史学者達と、
そのようなニセ歴史学の成果を崇拝する事を国民に強要させてきたマスメディアは、
とっくの昔に「戻れない一線」を越えてしまった人達である。
彼らにはもはやこの「狛犬」となって「御神体のゾウ」を隠蔽する事に全霊をかける以外に生きていく道はない。
「狛犬」達は誰にもゾウが見つけられないようにするために、
以下のようにモラルを全面に押し出した疑似科学の手法を用いて社会的に異説を封印する。
- 「御神体のゾウ」の存在がわからないようにするために、
ゾウにつながる情報が人の目に触れたりしないように情報を管理する。
- 「歴史学者達のコンセンサスを疑う」事自体がモラルに反する行為とする社会規範を作り、
「御神体のゾウ」が存在するのではないかと疑問を持たせないように啓蒙する。
- 「歴史学の手法に沿っていない仮説を提案する」事自体がモラルに反する行為とする社会規範を作り、
「御神体のゾウ」の存在に近付くような仮説の提案をさせないように啓蒙する。
- 「歴史学の手法に沿っていない者の主張を無視する」事が正しい行為とする社会規範を作り、
「御神体のゾウ」に近付いた者の仮説の検証をさせないように啓蒙する。
- 「歴史学の手法に沿っていない者を人格攻撃する」事が正しい行為とする社会規範を作り、
「御神体のゾウ」に近付いた者にレッテルを貼って人格を攻撃させる。
「狛犬」達の行動理由は一般人にはなかなか理解できないが、
実はその行動原理は極めて単純である。
それは「御神体のゾウを守るために作り上げた社会規範を死守する」事である。
それ故に異説に対しては「提案させず、議論させず、人格を攻撃する」を貫く。
「狛犬」達はモラルを全面に押し出して異説を主張する者達を卑劣な方法で人格攻撃するが、
ウソをついている事を知っているので自らに対してはモラルのカケラもない。
だから歴史学者達は、何の根拠もないニセ歴史で子供達を洗脳していても「見て見ぬフリ」をする。
マスコミに「歴史の真実を国民に報道すべきだ」という責任感が存在しないのも、
彼らの行動原理から考えれば当然の帰結である。
公開して提出した歴史の疑問に歴史学者達が回答するのを待っている者達は、
彼らの行動原理を全く理解していない。
議論などしてしまったらウーズル神社が聖典としている「史料批判」や「歴史学の手法」自体が、
「認識論」に基いていない「まやかしの手法」である事がバレてしまう。
そうすると「歴史学の権威」が崩されて社会規範全体が破壊され、
ゾウの存在がバレてしまうのだから。
- キリン(Giraffe)
「狛犬」達が作り出した社会規範を守ろうとしない「逸脱者」達。
どれだけ多勢でうるさく攻撃されても全く気にする事はなく、
背高く歩く(walk tall)。
「キリン」の特徴とは、
「自分が正しい事を確信している」、
「ウソをつく者達を許さない」、
そして「問題に巻き込まれても気にしない」事である。
即ち「知識人の公正さ」を追求し、
「知的な責任(intellectual responsibility)」を果たそうとする者達である。
「キリン」とは、社会的圧力に負けずに「真実」を追求する孤高の存在である。
例えこの「キリン」達が「御神体のゾウ」に近付いていなくても、
「狛犬」達は「キリン」達が非常に危険な存在である事を知っている。
何故ならば「キリン」には日本の歴史学の研究手法が、
世界の歴史哲学が重視している「認識論」に基いていない、
まやかしの研究手法である事を見抜く能力があるからだ。
どれだけ集中して人格攻撃されても「御神体のゾウ」に辿り着く能力を持っている上に、
ゾウを見てもダチョウとして孵化しない存在であるからだ。
そこでこの「キリン」対策として「狛犬」達が導入したルールこそが、
「自己の専門研究が及ぶ範囲を自覚」という規則である。
これを単なる社会規範ではなく大学の正式な規則とする事によって、
「学問の権威があるキリン」達が「ウーズル神社」そのものに近付かせないようにしてきただけでなく、
「学問の権威があるキリン」自体も「ノーマルダチョウ」へと変化させてきたのだ。
このような手法で「学問の権威があるキリン」を社会的方法で無力化する事を成功した事により、
「狛犬」達に残された脅威は「学問の権威がないキリン」だけとなった。
「キリン」とは危険な存在であるが、
ダチョウと違って背が高くて目立つので誰がキリンであるかはすぐに判断できる。
だから「ウーズル神社」に近付いていようがいまいが監視対象として認定され、
「御神体のゾウ」には絶対に近付かないように攻撃される。
また、彼らの主張には絶対に人々が耳を貸さないように悪印象が生成される。
在野の歴史研究者や「認識論」を批判の根拠とする疑似科学批判者などは、
この「学問の権威がないキリン」である。
彼らには「学問の権威がない」という弱点が利用され、
ひたすら「歴史学の権威」を全面に押し出して人格批判される。
一言でも間違った言説を述べようものなら、
それを根拠に悪印象が拡散される。
ニセ科学批判者などは「認識論」を啓蒙している時点で、
狛犬達にとっては既に「ダチョウ社会の敵」であり、
理由など存在しなくとも批判される。
もし大学教授などの「学問の権威があるキリン」が存在する場合には、
ウーズル神社に近付いていなくとも集中的に監視され、
批判され続ける。
- 使えるダチョウ(Useful Ostrich)
前述の「ダチョウ化実行部隊」で、
「孵化する前のダチョウ」の一種。
歴史上では「役に立つバカ」、
「活動的なバカ」などの様々な名称で呼ばれてきた「自薦の用心棒」である。
「ウーズル神社」が教義とする社会規範を守り続ける敬虔な信者達である。
しかし自分達がまさか「狛犬」達に利用されているのだとは夢にも思っていない。
ウーズル神社の教えを守る自分達が「道徳的に高い位置」にある事を疑う事はなく、
社会規範を守らない者達のモラルを社会問題化して一斉に攻撃する。
問題を大きくすればするほど喜びも大きくなるが、
作り出してしまった問題がどのような恐しい結果を招くかについて考える事はない。
「使えるダチョウ」の特徴とは、
「同調しない者を問題に巻き込む事が正義であると考える」事である。
中でもリーダー格のダチョウ達は「モラル事業家」と呼ばれ、
「使えるダチョウ」達の数を増やして元気づけさせるために、次のような活動を行う。
- 「使えるダチョウ」達に、自分達が正義である事を確信するように精神的な啓蒙を行う。
- 「使えるダチョウ」達に、攻撃すべき目標が一体誰であるかを教える。
- 「使えるダチョウ」達に、目標をどのように攻撃すべきかを指導する。
- 「使えるダチョウ」達に、攻撃目標に対して卑劣な手段を取る事が正しい行為である事を確信させる。
このようにリーダーとして活動してきた者達は既に「戻れない一線」を越えてしまっている。
将来は「狛犬」に変化するか、或いはもう既に「狛犬」である。
- ノーマルダチョウ(Normal Ostrich)
ゾウの姿を見てしまい、見て見ぬふりをするただのノーマルダチョウ達。
この「ノーマルダチョウ」を例え一億羽集めたところで、
問題が進捗する事は一切ない。
「ノーマルダチョウ」の特徴とは、
「問題に巻き込まれたくないためにウソをつく」事である。
ウーズル神社に近付きたがらず、できるだけ避けている。
「孵化する前のダチョウ」がゾウの姿を見てしまった場合、
ほとんどがこの「ノーマルダチョウ」になる。
「使えるダチョウ」達がゾウの姿を見てしまった場合でも、
「戻れない一線」を越えていない場合にはこの「ノーマルダチョウ」へと孵化する。
そして過去の自分が行った卑劣な行為については、沈黙する。
- 使えないダチョウ(Useless Ostrich)
「キリン」のように背高く歩く事はできないが、
それでも「狛犬」達が作り出した社会規範を守ろうとしない者達の事を「使えないダチョウ」と言う。
ウーズル神社の教えに疑問を持っているため、
神社の境内によく現れて中の様子を嗅ぎ回っている。
「使えないダチョウ」の特徴とは、
ウーズル神社の信者達によって「「モラルが低い者」のレッテルを貼られて非難される」事である。
「ネトウヨ」と呼ばれている者達の正体はほとんどがこの「使えないダチョウ」であり、
残りのわずかな者達が「キリン」である。
「キリン」との違いは「真実」を追求しているわけではなく、
都合の良い仮説を真実にする事に夢中である事だ。
だから「御神体のゾウ」の正体が自分の仮説に都合の悪い物である事を知った時、
「ノーマルダチョウ」へと孵化してしまう。
それ故に「狛犬」達にとっては彼らはそれほど大きな脅威ではない。
しかし「使えないダチョウ」とは、
「認識論」を学習して真実に至る方法を身に付けてしまうと、
背高く歩く存在へと変化してしまう可能性がある「キリン予備軍」でもある。
それに「使えないダチョウ」の数があまりにも増えてしまうと、
社会において「コンセンサスによる真実」が成立し、
「御神体のゾウを守護するための社会規範」が崩壊してしまう危険性がある。
結果としてゾウの存在がバレてしまう可能性があるので、
やはり「狛犬」達にとって「使えないダチョウ」達の存在は脅威である。
放置しておくと「使えないダチョウ」が増えていく一方なので、
「使えるダチョウ」達を鼓舞して執拗に激しく攻撃させる。
以上が一般的なダチョウ社会の構成員です。
そして「マスメディアが理想とするダチョウ社会」とは、
歴史学の手法を聖典として崇めるように説教する「生きていくためにウソをつく人達」と、
真相を知っても見て見ぬフリをする「問題に巻き込まれたくないためにウソをつく人達」と、
そして歴史学者の主張を鵜呑みにして「ウソに騙された人達」だけで構成された「斉一性の原理」が成立した社会です。
それは「ウソをつく者達を許さない」と考えるような「キリン」も、
「ウソではないか?」と疑問を持つ「使えないダチョウ」も絶滅した、
「疑問を持つ者」が存在しない社会です。
科学的思考が停止した、
「疑似科学の手法に支配された社会」だとも言えます。
「ニセ科学批判者」とは「知識人の公正さ」を追求し、
「知的な責任(intellectual responsibility)」を果たそうとする「キリン」そのものです。
疑似科学の手法の使い手である「狛犬」達からニセ科学批判者が「ダチョウ社会の敵」として認定されるのは、
当然の結果なのです。
日本人にはどうして邪馬台国が見つけられないのでしょうか?
それは日本人が決して科学的思考をしないように、
「歴史学の権威」を全面に押し出したマスメディアによって「一億総歴史修正主義者化」されているからなのです。
「邪馬台国の場所」など、マスメディアにとっては全く取るに足らない問題です。
それはマスメディアが隠蔽している「御神体のゾウ」が隠れている部屋を守護している「守護ゾウ」に過ぎません。
マスメディアにとって国民は「歴史の真相」など誰も知らない方が良いのですから。
国民は歴史学者の主張を疑う事なく「ウーズル」を信じていればよいのです。
「邪馬台国は朝鮮半島に存在した!」などと叫ぶ者さえこの社会に存在しなければ、
マスメディアは「歴史学の権威」を守り続ける事ができるのです。
そして「歴史学の権威」を守り続ける事によってマスメディアは、
自分達が社会に作り出した「ウーズル」を守り続ける事ができるのです。
マスメディアによるダチョウ化はどのようにして進行してきたのですか?
「現代社会の中には犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。すなわち抑圧的な正義です。」と述べたのは、
フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユでした。
マスメディアによるダチョウ化とはシモーヌが嫌悪したこの「抑圧的な正義」を用いて行われます。
活動的なダチョウ化実行部隊によって異端者にモラルを用いた同調圧力がかけられるようになると、
愚民化されていなかった人々でさえも次第に「疑問を持つ」事ができなくなり、
思考する事を停止するようになります。
即ち、問題を見て見ぬフリをするダチョウになるのです。
「多数というものより気に障るものはない。なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力な先導者のほかには、大勢に順応するならず者と、同化される弱者と、自分の欲することすらわからずに従ってくる民衆とであるからだ」と述べたのは、
文豪ゲーテでした。
「少数の有力な先導者」であるダチョウ化実行部隊が活躍すると、
人々は次第に「沈黙の螺旋」に落ちていき、
民衆のダチョウ化は進行していきます。
「何ゆえに人は多数に従うか。彼らがいっそう多くの道理を持っているからか。否、いっそう多くの力を持っているからである。」と述べたのは、
ブレーズ・パスカルでした。
ダチョウの数が更に増えて社会において多数派を構成するようになると、
「バンドワゴン効果」が現れるようになり、ダチョウ化は加速度的に進行していきます。
そして大多数を構成するようになると「斉一性の原理」が成立し、
社会全体が疑問を持つ事のないダチョウの集団となります。
このようにして日本社会には、マスメディアの意図した通りのダチョウ社会が実現されました。
マスメディアは日本人をダチョウ化するために、どのような報道をしてきたのですか?
日本のマスメディアが行ってきた報道とは、ダチョウ社会を実現するための「ダチョウ化支援報道」です。
それは「ダチョウ化実行部隊」の数を増やし、彼らを元気づけるような報道です。
マスメディアにとって報道における一番重要な問題とは、その内容が「愚民達が喜ぶ話かどうか」です。
愚民達が元気を失ったり、愚民の数を減らしたりするような内容については、
マスメディアが決して報道しないのも当然です。
だからマスコミ報道ばかり読んでいると思考力が低下して馬鹿になるのです。
日本のマスメディアが報道する際に「根拠があるかどうか」を重視しないのも同じ理由です。
何しろ愚民達にとって問題なのは「歴史学者のコンセンサスがあるかどうか」だけなのです。
報道に「確かな根拠があるかどうか」など、愚民達が問題にする事などありません。
それでも「根拠が無いのではないか?」という批判する者達が増えてきた場合には、
社会的影響力を行使して歴史学者達にそのコンセンサスを声明として発表させれば良いだけです。
それでダチョウ化実行部隊は元気を取り戻し、批判者達を黙らせてきたのですから。
このようにして愚民化された日本人はマスコミ報道に疑問を持つ事なく、
歴史学者を信じる事が道徳的に正しい事だと思い込んできたのです。
ダチョウ社会を実現するための「ダチョウ化支援報道」とは、どのような報道ですか?
日本人をダチョウ化するための「ダチョウ化支援報道」の本質とは、
「ダチョウ化実行部隊」を鼓舞して「同調圧力」をかけさせる事です。
それは「ダチョウ化実行部隊」が罪悪感を感じる事なく、
非道な方法で同調圧力をかけられるように仕向けるような報道です。
即ちそれは「ダチョウ化実行部隊」が「モラルの高い位置」にいる事を確信させ、
モラルの低い者達に対して集団で「モラルハラスメント」行い、
吊し上げて同調させる事ができるように精神的な自信を植え付けるような報道です。
マスメディアが行ってきた「ダチョウ化支援報道」とは、具体的には次のような報道です。
- 歴史学者達のコンセンサスを信じない者に対し、危害を加えても構わないように仕向ける
- 歴史学者達のコンセンサスに逆らうことに、恥の意識を持たせるように仕向ける
- ネガティブ・キャンペーンを行って歴史学者達のコンセンサスを信じない者が一部の変わり者(サブカルチャー)であるとの印象操作をする
- 「歴史学者達のコンセンサスを信じない一部の者が全体に迷惑をかける」と主張する
- 歴史学者達のコンセンサスを信じない事のデメリットを必要以上に誇張する
- 歴史学者達のコンセンサスを信じない者に対して社会的排除を行うように仕向ける
マスメディアとは本来、このような同調圧力の技法を社会から排除すべき責任があるべき存在です。
しかし日本のマスメディアは国民を愚民化するために、
自ら積極的にこれらの技法を使用してきたのです。
これらの方法は、
戦前のマスコミが軍国主義に疑問を持たせないように国民をダチョウ化した時の方法と同じです。
報道の信憑性の根拠が軍部から歴史学者に変っただけに過ぎません。
「ダチョウ化支援報道」とは具体的にはどのような報道ですか?
マスコミが推進する社会規範を受け入れようとしない者達に例えば「非国民」のようなレッテルを貼って、
一般人がそのようなモラルの低い者達の主張には決して耳を傾ける事がないように、
「井戸に毒を入れる方法」を使って警告するのが基本です。
「ネトウヨ」、
「歴史修正主義者」、
「反知性主義」
などの様々なレッテルが使われていますが、
これらの言葉は全て「バズワード」であり、
明確な意味など存在しません。
そしてその意味はマスコミが主張するような、
「歴史の真実を都合の良いように改竄しようとする者」というようなものではありません。
これらの者達とは結局のところ、
全て「マスコミが推進する社会規範を受け入れようとしない者達」へのレッテルです。
そして各種のスピン技術を駆使し、
前述のような方法を用いてこれらの逸脱者達が「ロクでもない人達である」と印象操作するような報道をします。
例えば「私もかつてはネトウヨだった」などと具体的な根拠を示さないまま「ネトウヨ」が悪の存在であると決め付けたりします。
また匿名ソースを伝聞証拠にし、
自作自演したりします。
そして、「イニュエンドウ」と呼ばれる「間接的な否定」のスピン技術を使用したりします。
これは批評や疑問などの形を取り、言語上では批判していないのですが、
意味的には誹謗中傷を暗示するスピンの技術の一種です。
そして自作自演した内容と組み合わせ、
例えば「××人の彼氏ができたのですが、父がネトウヨになってしまったので言い出せなくて悩んでいます」などとして「ネトウヨ」が如何に困った人達であるかを印象操作します。
マスコミ報道に対して疑問を持たない人達は、
残念ながらこのようなスピン技術に簡単に騙されてしまいます。
そしてマスコミの思惑通りに、
「例えどのような手段を使ったとしても異論を封じる事が正義である」と信じるようになってしまいます。
「どうしてネット上ではネトウヨが増殖するのだろうか?」などの疑問がよく出されます。
しかし「ネトウヨ」とはそもそも「社会的圧力をかけてもマスコミの主導する社会規範を受け入れようとしない人達」へのレッテルなのです。
社会的圧力をかけにくいインターネットの言論空間においては、
マスメディアがあの手この手で社会的圧力をどれだけかけようとも、
ネトウヨがうようよ増殖してしまうのは必然の結果なのです。
インターネットの匿名性に守られて異説を平気で主張する人達とは、
ダチョウ化実行部隊にとってはきっとゴキブリのように、
全く見たくもないのに次々と湧いて出てくる吐き気がするような忌しい存在でしょう。
マスメディアは本当に「ダチョウ化支援報道」をして日本人をダチョウ化してきたのですか?
前述の「ダチョウ化支援報道」とは、
集団思考における「同調圧力」のテクニックとして知られている方法ばかりです。
もし疑うようであればアメリカの心裡学者アーヴィング・ジャニスが提唱した以下の「集団思考の兆候」が、
マスメディアと歴史学者達に起きていないかをチェックしてみて下さい。
- 失敗しても集団は不死身という幻影
- 強い「われわれ感情」(部外者ないし反対側を敵とみなす)
- 合理化(責任を他の人に転嫁しようとする)
- モラルの幻影(集団で意図しているモラル上の意味を,当然のことであるとして,それを注意深く検討する気を起こさせないようにする)
- 個々のメンバーが自己検閲をするようになる傾向(波風を立てないようにとの願望から生じる)
- 不一致の兆候を示す人たちへの直接的圧力の適用(集団のリーダーが集団の統一を維持しようとして干渉するときに行われる)
- 心の警備(異議が入ってくるのを防いで集団を保護する)。
- 満場一致の幻影(集団メンバーの沈黙を同意と解する)
もし集団思考が起きていなければ、「邪馬台国朝鮮半島説」など単なる仮説の一つにすぎません。
数ある邪馬台国の仮説の一つと同じ扱いにされるはずです。
しかしマスメディアは「歴史学者達のコンセンサスを信じる事」を当然の事であるとして、
それを注意深く検討する気を起こさせないようにしています(モラルの幻影)。
歴史学者達のコンセンサスを信じない者達には「歴史修正主義者」というレッテルが貼られ、
敵とみなされます(強いわれわれ感情)。
また、「他の専門分野の専門家を尊重せよ」という社会規範を適用する事により、
歴史学者達のコンセンサスを信じない学術関係者には直接的な圧力を適用します。
そして異議が入ってくるのを防いで集団を保護していますので、
「邪馬台国朝鮮半島説」の存在が話題にされる事は絶対にありません(心の警備)。
更に異説に対しては「自己検閲」するように国民をダチョウ化した上、
集団メンバーの沈黙を同意として解釈し、コンセンサスによって「史実」を決めています。
マスメディアはよく「そのような主張をする者は、歴史学者の中には一人もいない」と主張しますが、
それは「満場一致の幻影」に過ぎません。
同調圧力をかけて黙らせているだけです。
マスメディアはこのように同調圧力のテクニックを駆使する事で「歴史学的に確定した史実」を決定してきました。
マスメディアは国民を愚民化してきただけでなく、
歴史学者達にも同調圧力をかけて捏造歴史を流布してきました。
マスメディアはこのように日本人の思考を停止させ、
日本人は歴史学者のコンセンサスを鵜呑みにするように愚民化されたのです。
マスメディアは当然ながら、集団思考における同調圧力のテクニックとは何かを知っています。
本来であれば健全な社会を実現するために、
社会からこのような同調圧力を排除すべき責任のある立場の者達です。
しかし、日本のマスメディアには健全な社会の実現など関心が有りません。
マスメディアはこれらの社会的テクニックを日本人の愚民化のために利用しているのです。
日本のマスメディアとは国民の言論の自由を守る集団などではありません。
それは言論の自由を抑圧する集団なのです。
マスメディアによるダチョウ化を放置しておくと、日本はどうなりますか?
ダチョウ達は問題に直面しても思考が停止しているので議論ができず、
重要な問題に対処できません。
あまりにも大きな問題に直面すると「傍観者精神」に支配され、
「先延ばし」や「現実逃避」をするようになります。
このような「議論が許されない社会」においては政治的決定は「場の空気」に支配されるようになります。
場の空気によって決定が行われるようになると、
「アビリーンのパラドックス」に陥って誰も望まない方向へと向かう危険性があります。
この現象は「リスキーシフト」と呼ばれており、
「衆愚政治」と呼ばれる愚民達による愚かな政治決断の一種です。
「社会はひとつの船のようなものだ。誰もが舵をとる準備をせねばならない」と述べたのは、
ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンでした。
しかしダチョウ社会においては誰も舵をとる者が現れず、
船は流れに任せて漂流するだけです。
即ち、日本は再び破滅に向かって一直線となる可能性があります。
そのような愚かな結末を避けるためにも、
日本人を早急にマスメディアによるダチョウ化から解放する必要があるでしょう。
しかも今の日本には聖断を下す事のできる者が、
もはや存在しないのですから。
マスメディアによるダチョウ化から日本人を解放するにはどうすれば良いですか?
日本人をマスメディアによるダチョウ化から解放するという事は即ち、
マスメディアのダチョウ化基本3原則から解放する事です。
具体的には、次の行動ができるようにする事です。
- 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持つ
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説を提案する
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説を検証する
日本人にとって、これらの行動を実行できるようにするのは非常に難しい問題でしょう。
何故ならば、日本人は既に精神的に深いレベルでダチョウ化されてしまったからです。
しかし、この困難なミッションを完璧に実現できる簡単で確実な方法が存在します。
それは、「邪馬台国論争を終結させる」事です。
邪馬台国論争が解決しないのは、
日本人がマスメディアによって「一億総ダチョウ化」されているのが根本原因なのですから。
邪馬台国論争を解決する事により、
マスメディアによって日本人にかけられた「ダチョウ化の呪い」は完全に払拭できるでしょう。
邪馬台国論争を解決する事により隠蔽されてきた日本の過去への扉が開かれると同時に、
失われた日本の未来への扉も開かれるのです。
アルベルト・アインシュタインは次のように述べています。
「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。」
邪馬台国論争は終結するのですか?
「どうせ露見する事なのに、
一日でも一刻でも永く平和を持続させたくて、
人を驚愕させるのが何としても恐ろしくて、
私は懸命に其の場かぎりの嘘をつくのである。」
これは太宰治が『東京八景』において述べた言葉です。
歴史学者とマスメディアの社会的影響力がどれだけ巨大であろうと、
ウソを永遠に隱し続ける事などできるはずがありません。
それがいつになるかはわかりませんが、太宰の言うように真実が露見する日は必ずやってきます。
フランスの小説家エミール・ゾラも、
「真実を大地に埋葬しても、真実はやがて芽を吹き、あらゆるものを吹き飛ばす。」と述べています。
邪馬台国論争が終結するとどうなりますか?
「誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる」と述べたのは、
ドイツの哲学者ショーペンハウアーでした。
邪馬台国論争が終結する日とは、
歴史学者達とマスメディアを始めとするこの社会を築いてきた多くの者達にとって、
守り続けて來た虚構の世界が崩壊する「無条件降伏の日」となるはずです。
それは日本社会が守り続けてきた社会規範が一瞬で崩壊する日でもあります。
歴史学者達のコンセンサスが示す世界を自分自身の視野の限界として設定してきた愚民達にとっては、
それは信じていた世界全体が崩壊する「急性アノミー(信念体系の崩壊)」の日となるでしょう。
邪馬台国論争が終結しないのは誰の責任ですか?
「日本人は議論が苦手だ」とよく言われます。
確かに日本人は相手の人格を批判するばかりで、「真実に至る議論」など誰もする事はありません。
でもそれは日本人の民族性が理由などではなく、
マスメディアによって日本人が愚民化され「誹謗中傷民族」になってしまったからです。
「歴史問題は解決しない」とよく言われますが、
解決しないのは日本人が誹謗中傷ばかりしてきただけで、
歴史の真実を明らかにして來なかったからです。
日本において歴史問題が解決しない根本的な理由とは、
日本人が歴史の真実と向き合う事ができないからです。
しかし歴史問題など日本人が「真実に至る議論」をして真実に向き合う事さえできれば、
本当はこの邪馬台国論争のように一瞬で解決する問題ばかりです。
歴史問題を作り出し、歴史問題をこじらせ、歴史問題の解決を阻んでいるのは一体誰なのか?
その真犯人とは「ダチョウ社会の黒幕」であり、
「真実に至る議論」を日本人にさせないように指導してきた日本の歴史学者達とマスメディアです。
邪馬台国論争は終結させるべきですか?
マスメディアは「歴史を忘れるな」などと国民に偉そうに説教しています。
しかし同調圧力をかけ続けて国民から思考能力を奪って「一億総ダチョウ化」し、
無責任な報道を繰り返して開戦への「場の空気」を作り出し、
敗戦が確実になっても大本営発表を繰り返して戦禍を増大させ、
国家を無条件降伏に導いた愚かな歴史を忘れてしまったのはマスメディアの方です。
このように過去の失敗を反省する事無く、愚かな過ちを繰り返す者達に歴史問題を任せておくと、
ロクな結果にならないのは明白です。
このような問題は時間をかければかける程、騙されて無意味な人生を送る人の数が増えていきます。
速やかに嘘を暴く事こそが、被害を最小限に食い止めるための最善の選択でしょう。
日本人はこのままマスメディアに飼い馴らされたダチョウとして安住し、
目先の幸福だけを追求していくべきなのでしょうか?
キング牧師は、
「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である」と述べています。
「歴史を忘れた民族に未来は無い」という言葉がありますが、
我々は祖先達が経験した恐しい惨劇から学習しなければなりません。
ダチョウ社会に待ち受けている未来とは、破滅への道です。
日本人が未来を切り開くためには、
「ダチョウ化の呪い」を解除して「ダチョウからの覚醒」をする事が必要なのです。
「自由は決して圧制者の方から自発的に与えられることはない。
しいたげられている者が要求しなくてはならないのだ。」と述べたのは、
キング牧師でした。
そして「自由であろうと望んだ瞬間に、人は自由となる。」と述べたのは、
フランスの哲学者ヴォルテールです。
我々はダチョウである状態から共に目覚め、閉された扉を開けようではありませんか。
自由であろうと望んだその瞬間に我々は自由となり、
日本の未来は開かれるのです。
これまで多くの偉人達の言葉を参照してきましたが、ほとんど欧米人の言葉ばかりでした。
日本人は欧米人のように真実に辿り着く思考ができないからです。
でもそれは決して日本文化の伝統的な原因などではありません。
それはマスメディアによって日本人がダチョウ化され、
真実に辿り着く思考ができなくなってしまったからです。
最後にオーストリアの経営学者ピーター・ドラッカーの未来を切り開くための言葉を紹介します。
「未来を語る前に、今の現実を知らなければならない。現実からしかスタートできないからである。」
「最も重要なことから始めよ。」
「できることから始めるのではなく、正しいことから始めるのです。」
日本人が「ダチョウからの覚醒」をするためには、具体的にはどのようにすれば良いのですか?
たったの一言を大声で叫ぶだけで良いのです。
「王様は裸だ!」と。
それは即ち、「ウソつきの王様が着ている衣装には何の価値も無い」事を明らかにする事です。
具体的には「邪馬台国の場所はここだ!」と大声で叫ぶだけで良いのです。
たったのそれだけで偉そうにサギ師の話を人々に信じさせている「裸の王様」を倒す事ができるのですから。
3. 著者に関する質問
匿名で批判する理由は何故ですか?
批判の目的が、売名のためや金銭の獲得のためではないからです。
次の世代の青少年が、疑似科学の手法や偽歴史の呪縛に囚われることなく、健全な日本社会を実現できるようにするためです。
暁美焔さんを簡単に自己紹介して下さい
暁美焔(Xiao Meiyan):歴史研究家、社会学研究家及び科学哲学研究家。
学生時代に古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」に出会い、邪馬台国論争の世界に入る。
その後長い空白期間を経た後、山形明郷氏の著作に出会い衝撃を受ける。
山形氏の説の真偽を確かめるために倭人伝以外の古代史書を読み始め、やがて魏志東沃沮伝を目にする。
そして古代中国人が日本列島を認識していなかった事に衝撃を受け、山形説の正しさを確信すると同時に邪馬台国の位置に関する数学的証明を思いついた。
理系的な感覚では反論のしようがない程の完璧な証明に思われたので、興奮して学界関係者数人にその証明を打診する。
しかしその全員から何の反論も無いまま「我々は文献だけでは物を言いません」とか「中国史料の翻訳が正しくないので翻訳し直しなさい」などと門前払いされる。
その時山形氏の心境を理解すると共に、邪馬台国論争が解けない真の理由は学問的な理由とは別の所に存在する事に気付く。
それは例えどのような混乱が発生したとしても日本人が自ら向き合い、日本人の手でいずれ解決しなければならない問題だ。
知らないまま永遠に放置して良い問題でもなければ、棚上げして不幸の再生産を繰り返して良い問題でもない。
そしてすぐに「邪馬台国論争の真相」の執筆を始め、現在に至る。
なお、山形明郷氏の著作は論争仲間の友人に貸し出したところ、立腹した上に返してもくれなかったので彼の著作は一度読んだのみである。
「暁美焔」という名前に、何か意味がありますか?
「暁美焔」には、「孤独な歴史修正主義者」という意味があります。
但し、ここで言う歴史修正主義とは、「通俗的な用法」による意味ではありません。
「歴史学における用法」による意味であり即ち、「新しく発見された史料や、既存情報の再解釈により、歴史を叙述し直すこと」を意味します。
再解釈の方法とは「科学的思考の導入」です。
現在の歴史学における「科学的」とは「確証を提示すること」だけです。
しかし確証に過度に依存すると事例証拠の誤用、観測選択効果、確証バイアス、ウーズル効果、組織的強化などによって先入観が補強され、思い込みが強まる傾向があり、独断主義に陥る可能性があります。
日本の歴史学は、「確証の提示」よりも「正当化の論証ができるかどうか」によって真理を確定するように、パラダイムシフトする事が必要だと考えています。
「邪馬台国論争の真相」を書き始めた動機は何ですか?
山形明郷先生と約束しました。
「絶対にあなたが正しいのだと、証明してみせる。何度繰り返す事になっても、必ず証明してみせる。」と。
この時はまだ、
自分が「奇跡を願ったのだ」という事を理解していませんでした。
「邪馬台国論争の真相」に到達した時、何を考えましたか?
「伝えなきゃ。みんなアイツらに騙されている!」と考えました。
「邪馬台国論争の真相」を発表した後、何を考えましたか?
「誰も過去を信じない。
誰も過去を受け止められない。
私たちはそんな救いようのない世界の中で生きているのだ。」
と考えました。
「邪馬台国論争の真相」はどんな事を考えて書いたのですか?
「もう誰にも頼らない。
誰にわかってもらう必要もない。
全ての謎は私一人で片付ける。
そして今渡こそ、アイツらを、この手で!」
と考え続けました。
「邪馬台国論争の真相」を読んだ人に伝えたい事とは何ですか?
「今度こそ理解できたわね?
あなたが憧れていた邪馬台国の正体がどういうものか。」
「邪馬台国論争の真相」を書き終える事ができた理由は何故ですか?
山形明郷先生と交わした約束を忘れないようにしました。
すると壊れた世界で彷徨っているうちに、引き寄せられるように辿り着きました。
挫けそうな時に元気を与えてくれる、お勧めの曲はこちら。
この歌を聞くと、青空を見る度に元気が出てきます。
そして「奇跡」が起こせるような希望を与えてくれます。
「邪馬台国論争の真相」を書き終えた時の心境はどうでしたか?
「どうして?どうしてなの?何をやっても、アイツらに勝てない!私のやってきたこと、結局。。。」と考えました。
「邪馬台国論争の真相」に到達した人は、歴史に名前が残りますか?
擬似問題を解決して歴史に名前を残した人の話を知りません。
問題に含まれる誤った仮定がハッキリした時点で、「擬似問題だった」としてそれ以上追求されることなく問題自体が消去されるだけです。
誰のためでもない。
自分自身の「祈り」のために戦い続けるのです。
誰にも気付かれなくても、忘れ去られても、それは仕方のない事です。
今まで自分がいったいどれだけ人の心を踏みにじってきたのかを覚えています。
今なら山形明郷先生の気持がよく分ります。
誰かの救いを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない。
「奇跡を願う」とは、そういう仕組みだったのです。
「邪馬台国論争の真相」に到達した人は、
誰も知らない所で絶望に支配され、
「呪いの結界」を築き上げて「破滅の時」を迎えるだけです。
それが「奇跡を願った者」の逃れられない運命。
センメルヴェイス・イグナーツの人生がその末路を暗示しています。
4.1. 「邪馬台国論争の真相」の経緯
最初は中国史書の解析など、自分のような理系人間がすべきような研究内容ではないと考えた。
それにネット時代の今日では、考証の大枠さえ示しておけば、
その方面の得意な人達が後に続くはずで、この問題はすぐに解決されるだろうと考えていた。
しかし原案を発表したにも関わらず、現実には何故かそのような現象が現れる事なかった。
理解できない状況に戸惑いながら、苦手な中国史書の解析を自分で続けるしかなかった。
だが次第に中国史書の解析とは、理系的観点からも検証が必要な研究分野であり、
しかもそのような検証はこれまで誰も手をつけた事がないのだと考えるようになっていった。
執筆を始めるまではあまり興味の無かった韓国であるが、気がつくと歴史、地理、文化、考古学、言語などあらゆる面で朝鮮半島の事ばかり勉強してきた。
そして歴史書の漢文と奮闘し、歴史書の原文には楽浪郡が朝鮮半島に存在したという記述が無い事を自分の目で確認した。
朝鮮半島の歴史と中国史書を調査してからしばらくすると、
楽浪郡の位置に関してある程度説得力のある説明が完成する。
理系的感覚からすると、この仮説は社会に必ず騒ぎを起こすに違いないと考えていた。
だが現実の社会とは、理系的感覚などでは全く理解できない世界だったのだ。
蓋を開けてみると、そのような現象が起きる様子は全くなかったのである。
理論的に正しいはずなのに、一体どうして誰もこの仮説を話題にしようとしないのだろうか?
理系感覚では理解できない現象に困惑し、その社会現象を解明する研究にも着手した。
仮説が無視される現象はどのような仕組みで起きるのだろうか?
この調査にはかつて「中国史料の翻訳が正しくない」という、
問題の本質とは何の関係も無い人格批判をされた経験がヒントになった。
いろいろと調査しているうちに、
「疑似科学」のウィキペディア英語版の記述に辿り着いた。
そのページに記述されている現象こそ、
正に邪馬台国論争を巡る社会現象そのものであり、
疑似科学の研究に夢中になっていった。
「疑似科学」のウィキペディアを読んでいた時に、
その英語版と日本語版の記述内容が全く異なる事に気づく。
日本語版には何故か、重要な記述が全くされていないのだ。
この時、「疑似科学の英語版の記述こそが、日本社会の禁忌の核心なのだ」という直感を抱く。
「疑似科学」とはどういう概念か知らなかったのであるが、
日本社会ではそれは「トンデモ」とほぼ同じ意味だったのである。
即ち「疑似科学ではないか?」という疑問を出す事は「それはトンデモ話だ」と侮蔑するのと同じ行為だ。
それ故にトンデモ話である事がバレないように、
「疑似科学」という概念自体が社会においてパンドラの箱の中に封印されていたのだ。
疑似科学の英語版を詳しく読んでみると、
確かに見慣れない概念がいろいろと使用されていた。
中でも「burden of proof(立証責任)」、
「justify(正当化)」、
「Woozle effect(ウーズル効果)」の3つの概念は邪馬台国論争を巡る社会現象を説明するために重要であるように感じた。
直感で「これらが社会で禁忌とされている核心となる概念に違いない」と確信し、
「JTB定式」や「科学的方法」などの科学哲学の理論を調査しはじめた。
何故か満足いくような説明をしている日本語のウェブページが存在しなかったが、
それによってこれらの概念こそが日本社会の禁忌の核心であるとの確信を強めた。
そして「認識論」という学問が文化系の学問における「仮説が現実世界と対応している事を確信するための検証」を行う理論であり、
その認識論は日本の歴史学においては重点教育されていない事を把握する。
また、「歴史学の手法」のウィキペディア英語版には「認識論」についての記述が存在するのに、
日本語版には存在しない事も発見する。
そこで日本の歴史学が「正当化」に基いた検証を全くしていないのではないかと疑問を持ち始める。
調べてみると、やはり日本の歴史学は史料批判において「正当化」に基いた検証などしておらず、
仮説が現実世界と対応しているかの検証など全くしていない事を発見する。
邪馬台国論争が解決されないのは、
日本の歴史学が歴史仮説と現実世界との対応をチェックするための「正当化」による論証をしていないからだと確信した。
学問において、このような重要な問題が放置されているのは何故だろうか?
もしかしてこれは歴史学だけの問題ではなく、
「日本社会全体が仮説と現実世界との対応など全く検証していない」のではないだろうか、
という疑問を持ち始める。
この邪馬台国の位置に関する仮説が社会において話題にされないのは、
それが単に古代史の禁忌に触れているだけではなく、
自分が想像したよりもはるかに巨大な日本社会の禁忌に触れているからではなかろうか。
そう考えていくと、歴史の正しい姿を記述しただけでは邪馬台国論争は終結しない事を痛感する。
そして邪馬台国論争を解けなくしている社会現象を解明するために、社会学を研究しはじめる。
社会学を勉強しはじめると、やはり日本の社会学が歴史学と同様に、
世界水準からは程遠い低レベルにある事を発見する。
学問の基本である「認識論に基いた検証」という概念が歴史学と同様に存在しない。
その上、歴史学と同様に自ら規定する研究手法によって参入障壁を作りだし、
誰からも批判される事のない「井の中の蛙」になってしまったのだから、それも当然だろう。
彼らの中に「ウーズル狩り」をする研究者がいないのが残念である。
実は日本の社会学者達にとって、そもそも「ウーズル狩り」をする事など社会的に許されないのだ。
何故ならば「ウーズル狩り」をするという行為はマスコミ報道を疑う事を意味し、
そしてそのマスコミ報道は歴史学者達の主張に基いているからだ。
即ち、「ウーズル狩り」をするとは「歴史学者達の主張を疑う」という事を意味するのであるが、
それは社会学者達の崇拝している「他分野の研究成果には敬意を払うべきだ」という社会規範に抵触するからである。
「常識」や「自明性」を疑うというのは社会学の基本である。
しかし「ウーズル狩り」をしようとしない社会学者達とは、
まさに「常識」や「自明性」を疑わない人達である。
そのような疑問を持たない者達に社会現象の本質に辿り着く事など、永遠にできるはずがないのだ。
日本の社会科学のレベルが国際的水準から程遠いのも当然の結果である。
そこで社会的役割を果たす意思も能力もない、
存在価値の無い日本の社会学者達の代わって「ウーズル狩り」を実行する事にした。
もし世の中に自分以外に誰にも真実に辿り着けないような問題が存在するのであれば、
自分は自分に課せられた「知的責任」を果たすべきである、
と考えたからだ。
実際に「ウーズル狩り」を始めてみると、「ウーズル」は意外にも見つけやすかった。
まず、「ミリュー制御」がされている場所の背後には、
「ウーズル」がある事を疑うべきである。
誰も話題にしようとせず、人々が黙ってしまうような話題の背後にも「ウーズル」が潜んでいる可能性が高い。
次に、ウーズルがありそうな分野において説教をたれる指導的な立場の存在(モラル事業家)が誰かを把握する。
そして彼らの発言に注意を払う。
一見誤謬でしかないように見える彼らの説教の中に、
「実は証明されていないにも関わらず、正しいとされている前提や規範」がある可能性があり、
それがウーズルである可能性が高いのだ。
彼らの怒りが大きければ大きい程、禁忌に近づいていると見て良い。
慣れてくれば、ツイッターの議論を読んでいるだけでウーズルを見つけられるだろう。
これらの「ウーズル狩り」の手法を用いてネット上で飛び交う人格批判とタブーを解析してウーズル狩りを実践すると共に、
人格批判の具体例の解析結果をまとめたレポートである「論理的思考入門」を作成した。
これらの質問は一見するとあまり重要な内容には見えないが、
社会現象の本質を理解するのに非常に役立つ思考のトレーニングとなった。
社会科学も間違いなく科学の一種であり、
疑問を出してその回答を考える事により問題への理解が深まるからだ。
また、この社会現象の本質を理解するために「認知バイアス一覧」及び「誤謬一覧」なども作成した。
これらは知っておくだけで人生に役に立つ知識となろう。
これらのファイルの作成作業は一見すると重要には見えないが、
実際にはこれが必要不可欠な作業である事に気付くまでには長い時間が必要であった。
以上の様な方法を用いて「ウーズル狩り」を行うと共に、ウーズルかどうかを判定するための社会学的観点から判断する基準である、「トンデモ歴史検出キット(愛称ニセシホイホイ)」を提唱した。
これは特に自分で独自に考えたような内容は無く、疑似科学の英語版を基本とする判断基準である。
その基準に歴史修正主義を判定するために特化したチェック項目を、再確認のために追加した。
次にウーズルが生成される仕組みを社会学的観点から説明する仮説である、「ダチョウ仮説」も提唱した。
これは邪馬台国論争の真相を子供にもわかるように説明するために作り上げた仮説であり、
子供達に疑問を持つ事の大切さを教え、子供達を偽歴史から解放する事を目的としている。
更にウーズルが生成される根本原因を社会学的観点から説明する仮説である、
「楽園仮説」も提唱した。
これは日本社会が「一億総ダチョウ化」された「ダチョウの楽園」である事の根本的な理由を説明する仮説であり、
邪馬台国論争が100年に渡って終わる事のなかった理由をも説明するものである。
これらは本来、社会学者達が行うべき研究内容である。
しかし日本の社会学者達が社会現象の本質に辿り着く事は永遠に無さそうなので、
彼らに代って仕方無く自分が「知的責任」を果す事にした。
邪馬台国論争を解けなくしている社会現象だけでなく、
古代史そのものに関する研究も続ける。
もはや自分の人生など放棄し、この研究に没頭すると共に現代中国語を学習してほぼ読めるようにした。
これにより、中国史書を読む事にはあまり抵抗が無くなった。
古代史書はともかく遼史や元史などの中世以降の中国史書は、
現代中国語がわかれば大部分が理解できるだろう。
そして楽浪郡滅亡後の遼東の歴史を研究しはじめる。
そこで何と、楽浪郡は313年に高句麗によって滅亡していなかった事を発見する。
歴史学者達は学校教育を通じてニセ歴史を子供達に刷り込んでいるのだ。
調べれば調べるほど、楽浪郡が平壌にあったなどという説は妄想に過ぎない事を確信した。
具体例を用いて楽浪郡が平壌に存在しなかった事をわかりやすく説明するために、
実際に平壌に王都を置いた「高句麗」と「隋」の戦争の記録について調べ始めた。
高句麗と隋帝国との戦争は、割といろいろな所に記述されていた。
しかし調べていくと高句麗は隋帝国だけでなく、
唐帝国とも平壌で決戦し、結果として唐が惨敗した歴史事件があった事を知る。
高句麗と唐の戦争は両国が国力の全てを費して正面から激突した歴史的大事件であったにもかかわらず、
それに関する記述は何故だか容易には手に入らないのだ。
それは日本人が知ってはいけない戦争なのだろうか。
次第に「高句麗史」自体が、パンドラの箱に封印されており、
「高句麗史」の中にも何かウーズルがあるかもしれないと考えるようになった。
そこで高句麗史の禁忌を探して高句麗の歴史とその王都「平壌城」に関する研究を始めた。
そして遂に朝鮮の歴史書である「三国史記」の中に、
古代史最大のウーズルを暴く秘密が隱されていた事を発見する。
そこで群盲象を評すだけの「シープル(Sheeple)」に過ぎない日本の歴史学者達の代わりに楽浪郡平壌説の真相を説明する「平壌王都説」を提唱すると共に、
新羅建国以前の空白の朝鮮半島の歴史を説明する、
「百済倭国説」、「日本府巨済島説」、「金印亡命説」、「慰礼城金州説」、「金城平壌説」などの数多くの歴史仮説も提唱した。
これらは本来、歴史学者達が行うべき研究内容である。
しかし日本の歴史学者達が歴史の真実に辿り着く事は永遠に無さそうなので、
彼らに代って仕方無く自分が「知的責任」を果す事にした。
この「邪馬台国論争の真相」を完成したところで、
私にとっては金銭的な報酬も無ければ社会的な栄誉が得られる事も無い。
しかし、「邪馬台国論争の真相」をついに完成する事ができ、私は感無量である。
何故ならば自分に課せられた「知的責任」を果す事ができたからだ。
これによって私は胸を張ってあの世へと旅立てるだろう。
後は学術界、教育界、マスメディアの方々が、
子供たちに「知識人の公正さ」を示す日が早く来る事を祈るのみである。
ちなみに「知的責任」とは普遍的で規範的な概念なのだが、
これは正に日本社会において禁忌とされている「正当化」の概念と共に説明される概念である。
即ちこれもまた日本社会では封印された概念であり、
この「知的責任」が人々に理解される事が無いのが残念である。
逆に言えば、
日本社会には「知的責任」の概念が存在しないために、
邪馬台国論争は終結しないのだとも言えるかもしれない。
4.2 おわりに
草葉の陰から常に無言の激励を送り続け、
ついに「邪馬台国論争の真相」へと導いて下さった故山形明郷氏に感謝します。
そして尊敬するジョルダーノ・ブルーノ氏の墓前に、
この「邪馬台国論争の真相」を捧げます。
ブルーノ氏とは中世ボヘミアの宗教思想家ヤン・フス氏と同様に、
かつて「知的責任」を果たそうとしたために、
ウソを教えて来た事を認められなかったカトリック教会によって火刑にされた中世イタリアの哲学者です。
ニセ歴史を子供たちに教え続ける学術界、教育界、マスコミのダチョウ達に、
この偉大なるブルーノ氏の「辞世の句」を故山形明郷氏の代理としてお伝えする事で、
この「邪馬台国論争の真相」の結びの言葉とさせていただきます。
「私よりも死刑の宣告を申し渡したあなたたちの方が、真理の前に恐怖に震えているじゃないか」
4.3 「邪馬台国論争の真相」の年表
2012.12.22)「原案」作成(「邪馬台国論争の真相」作成)邪馬台国の位置に関する数学的証明
2013.7.19)「虚構の楽浪郡平壌説」作成(邪馬台国論争の核心部)数学的証明を信じて
2014.3.25)「大人たちの知らない日本人の起源」作成(子供たちをニセ歴史から救え)
2014.10.27)「虚構の楽浪郡平壌説版」完成(東アジア古代史の真相の解明)
2015.3.7) 「正当化概念版」完成(日本社会には「正当化」の概念が無い事を発見)
2015.10.24)「社会学入門版」完成(「ニュース事例による疑似科学入門」を作成し、擬似科学の評定方法「トンデモ歴史検出キット(ニセシホイホイ)」を考案)
2015.11.22)「虚構の楽浪郡平壌説Q&Aとその真相〜禁断の高句麗史と平壌城の秘密〜」作成(「虚構の楽浪郡平壌説」への疑問に回答)
2015.12.22)「ニセ科学批判批判具体例による疑似科学Q&A」作成(疑似科学批判の方々の活躍で閉ざされた扉が開けられる事を期待)
2015.12.24)「邪馬台国論争の真相Q&A」作成(邪馬台国エジプト説の意義を説明)
2016.1.10)「社会科自由研究歴史テーマに面白い「現代社会の裸の王様」」作成(真相を中学生にもわかるように説明)
2016.4.19)「認知バイアス一覧で社会心理学入門」作成(疑似科学批判に役立つ知識の提供)
2016.5.2) 「誤謬一覧で科学哲学入門」作成(疑似科学批判に役立つ知識の提供)
2016.5.13) 「社会学的視点から歴史修正主義を検証する歴史学との統合理論」作成(疑似科学批判に未来を託して)
2016.5.25) 「正当化論証の理論」など、各種英語版ウィキペディアの翻訳を作成(疑似科学批判に役立つ知識の提供)
2016.6.24) 「駝鳥仮説版」完成(「ダチョウ仮説」を提唱し、日本人に論理的思考ができない理由を解明)
2017.3.23) 「楽浪郡平壌説の真相版」完成(「最終章 楽浪郡平壌説の真相」完成)
2018.1.4) 「楽園仮説版」完成(「楽浪郡平壌説の本当の真相」を追加して「ダチョウの法則」を発見すると共に、
「社会科学入門レポート具体例」において「ダチョウ化のサイクル」の概念及び「ダチョウの楽園仮説」を提唱した)
2018.2.1) 「祝1.0版(楽園仮説版)完成!」(このページにおいて「邪馬台国論争の真相の歴史」を作成)
2018.3.25) 「祝1.1版完成!」(「現代社会の裸の王様」にソクラテスの逸話を追加し、「ダチョウ化しないと殺される理由」を説明)
2018.4.27) 「祝1.2版完成!」(「社会科学入門レポート具体例」において「守護ゾウ」の概念を提唱すると共に、「歴史の真実に至る議論の方法入門」作成)
2018.6.3) 「祝1.3版完成!」(「社会科学入門レポート具体例」において「一億総ダチョウ化」の概念を提唱)
2018.7.5) 「祝1.4版完成!」(このページにおいて「ダチョウ化の基本方針」及び「ダチョウ化基本3原則」の概念を提唱)
2018.7.25) 「祝1.5版完成!」(このページにおいて「ダチョウ化実行部隊」、「ダチョウ化支援報道」等の概念を提唱すると共に、「マスメディアによる愚民化」の概念を社会学的に定義)
2018.8.26) 「祝1.6版完成!」(このページにおいて、「ダチョウ化の呪い」及び「ダチョウからの覚醒」の概念を提唱)
2018.9.5) 「祝2.0版(楽園理論版)完成!」(「歴史学との統合理論」において「ダチョウの楽園理論」を提唱)
2018.10.12) 「祝2.1版完成!」(「邪馬台国論争を巡る社会の禁忌」において、「ネトウヨ」の概念を社会学的に定義すると共に、疑似科学批判者がネトウヨ認定される理由を解明)
2018.11.28) 「祝2.2版完成!」(このページにおいて、「ダチョウ社会の生成過程」の章を作成)
2019.2.13) 「祝2.3版完成!」(このページにおいて、「ネトウヨ」だけでなく「歴史修正主義者」の意味も説明)
2019.3.26) 「祝2.4版完成!」(「歴史修正主義研究入門」において「ダチョウ歴史学」の概念を提唱)
2019.4.19) 「祝2.5版完成!」(このページにおいて「ダチョウ社会の構成員」の概念を提唱し、
ダチョウを「ノーマルダチョウ」、「使えるダチョウ」、「使えないダチョウ」の3種類に分類すると共に、「ウーズル神社」、「狛犬」、「キリン」、「ダチョウ社会の黒幕」等の概念も提唱した。また、
「ウーズル神社の愉快な仲間たち」を作成した)
2019.8.4) 「祝3.0版(裸の王様版)完成!」(「ウーズル神社の愉快な仲間たち」において、「馬鹿」、「馬鹿には見えない服」、「王様は裸」等の意味を説明すると共に、「王様の倒し方」も説明)
2019.12.18) 「祝3.1版完成!」(「社会科学入門レポート具体例」において「嘘つきの王様」とは誰かを説明)
2020.2.2) 「祝3.2版完成!」(絶望の果てに魔女化して「呪いの結界」を構築すると共に、魔女名「歴史学なめ子」を獲得)
2020.4.7) 「祝3.3版完成!」このページの最後に「新型コロナウィルス」についての記述を追加
2020.12.16) 「祝3.4版完成!」「邪馬台国論争を巡る社会の真相」において「ポリコレ歴史」の概念を提唱すると共に、日本の歴史学が「ポリコレ歴史創作集団」であり日本のマスコミが「ポリコレ歴史洗脳集団」である事を説明
2021.2.6) 「祝3.5版完成!」「邪馬台国論争を巡る社会の禁忌」において「ポリコレ歴史修正主義者」の概念を提唱すると共に、日本人がポリコレ歴史修正主義者になった理由を説明
4.4 新型コロナウィルス
新型コロナウィルスの特徴は以下のように報道されています。
- ウィルスは主に喉から拡散する
- ウィルスは体外においてもしばらく生存し続ける
- ウィルスは主に口や鼻から流入する
- 他のウィルスと違って感染してもほとんどの人々は健康者と同じように行動する
- 他のウィルスと違って潜伏期間が長く、感染している事にはなかなか気付かない
これらの特徴から導かれる感染の最も危険な場所はビュッフェスタイルのレストランです。
食物を介した感染は報告されていないそうですが、
会食した者達が集団感染している以上、食物による感染を疑うべきでしょう。
健康なウィルス保有者が盛んに会話をする事によりウィルスはテーブル上の食べ物やトングに付着してしまう。
そして不特定多数の人々が食物やトングから感染してしまう。
マスメディアはまるでクルーズ船が危険な場所であるかのように報道しましたが、
本当に危険だった場所はクルーズ船のビュッフェだったのではないでしょうか。
他人が会話している空間で食事をするのは危険な行為なのでしょう。
クルーズ船では人々が毎日繰返し同じビュッフェに食べに來るため、
感染者は目に見える形で短期間に指数関数的に増えてしまった現象も説明できます。
そして潜伏期間が長いため、気が付いた時には常識では考えられない程の多数の人達が感染していた事も説明できます。
同様の指数関数的な感染は地上におけるビュッフェでも発生する事が推測されます。
しかし、結果は目に見える形では現れる事はありません。
何故ならば人々はクルーズ船と違って次の日には別の場所で食事をするからです。
そして気がついた頃には既にウィルスが広範囲に蔓延してしまった現象も説明できます。
感染の理由を追跡しようとしても、もはやどこから感染したのか原因が理解できない理由も説明できます。
そして得体の知れないウィルスの突然の蔓延状況に人々がパニックに陥った理由も説明できるのです。
本来ならばマスメディアにはダイアンモンドプリンセス号の悲劇を研究し、
感染の理由が何であるかを報道する責任がありました。
しかし「嘘つきの王様」の愚民化活動によって反日メディアと化した欧米メディアは、
このダイアンモンドプリンセス号の悲劇を人事のように考えて真剣に原因を追求しようとはせず、
ただ反日記事のネタにするだけでした。
この報道では本質的ではない問題で完璧を求めて日本政府を悪魔化した事により、
欧米メディアは「戻れない一線」を越えてしまい、
日本政府の解決策に追随する事は欧米メディアには不可能な選択となりました。
それだけでなくパンデミックの原因は日本政府の無能であるとした事により、
人々からダイアンモンドプリンセス号のパンデミックの理由について考える事をやめさせてしまいました。
日本政府が早い段階でビュッフェの禁止を提案したのは賢明な判断でした。
また、早い段階で西浦教授らの意見を取り入れて「3つの密」を避ける対策を行ったのも懸命な判断でした。
だから日本の感染者数は諸外国と比べて抑えられ、最悪の事態を回避できた現象も説明できます。
それに対し、愚民化された反日メディアによって支配された欧米諸国は、
ビュッフェを禁止する事も日本政府が行った対策にも追随する事もしないまま、
爆発的な感染拡大を防止できる可能性のあった重要な時間を浪費してしまいました。
反日記事の代償としてはあまりにも巨大な代償を支払う事になってしまった理由も説明できるのです。
「教科書に載るような検疫の悪い例」との海外メディア報道は、
「教科書に載るような報道の悪い例」の間違いでしょう。
あの時に欧米メディアが反日報道などせずに日本政府と協力してダイアモンドプリンセス号の集団感染の原因を追求していれば、
世界は今日のような悲劇にはならなかったはずです。
菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、
日本が世界に誇るべき偉業でしょう。
単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、
飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。
それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、
クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。
感染原因を真剣に検証する事を忘れてダイアモンドプリンセス号を反日記事のネタにして日本批判を先導し、
アメリカ人が感染爆発という災難への準備をする事を妨げたニューヨークの反日マスコミは、
ニューヨークが感染爆発の爆心地となる事を防げなかった自らの無能を反省すべきでしょう。
本ウェブページ内容の複製、引用、リンク、再配布は自由です。