虚構の楽浪郡平壌説Q&Aとその真相
〜禁断の高句麗史と平壌城の秘密〜The truth behind the lies〜
暁 美焔(Xiao Meiyan) 社会学研究家, 2021.2.6 祝3.5版完成!
虚構の楽浪郡平壌説(前ページへ戻る)
「楽浪郡遼東説」は暁美焔さんが提唱した説ですか?
「楽浪郡遼東説」とは平壌説が定説化される前は一般的に主張されていた説で、佃收氏も「倭人のルーツと渤海沿岸」において主張しました。
山形明郷氏、ましてや私などが始めた説ではありません。
現在でもボク・キデ教授や安達弘志氏などが主張しています。
「虚構の楽浪郡平壌説」ではまず、中国古代史書での楽浪郡と帯方郡の記述を紹介する事により、遼東説が充分に根拠が有る仮説である事を説明しています。
次に楽浪郡が一時的に朝鮮半島を支配した可能性を示すと共に、最近の考古学調査結果を紹介し、考古学的確証が楽浪郡平壌説を立証するための絶対的な確証とは成り得ない事を説明しています。
そして、山形氏の死後発見された知見や、彼に欠落した観点を加えながら、一般には難しい山形氏の遼東説とは何かをできるだけわかりやすく紹介しています。
楽浪郡が滅亡した後、楽浪郡はどうなりましたか?
晋が八王の乱で衰退していくと、華北は鮮卑や匈奴などの北方民族が支配するようになりました。
そのような流れの中で高句麗の美川王は遼東に進出し、313年10月に楽浪郡が高句麗によって滅ぼされると、314年には帯方郡、315年には玄菟郡も次々に高句麗の手に落ちていきした。
高句麗は遼東郡も何度も攻めますが、
遼東郡だけは遼西から遼東に進出した鮮卑慕容部に支配され落とす事ができませんでした。
遼東郡太守の張統と楽浪郡太守の王遵は、鮮卑慕容部の慕容カイに保護されました。
その後、慕容カイは遼西に都市を建設させて楽浪郡とし、張統を楽浪郡太守としました。
楽浪郡はこのように、中国本土に移転せざるを得ませんでした。
しかし別の言葉で表現すれば、楽浪郡は遼西地域においてすぐに復活しました。
高句麗は鮮卑段部、鮮卑宇文部と同盟を組むと、慕容カイは棘(きょく)城(朝陽市の近く)を本拠地として立てこもります。
高句麗は同盟軍と遼西地域にあった棘城に侵攻しますが、失敗します(319年)。
その後、何度も高句麗は遼東郡を攻めますが、鮮卑慕容部から奪う事はできず、
逆に前燕という国家を建国した鮮卑慕容部の慕容コウに攻め込まれ、
集安付近にあったとされる高句麗王都は342年に陥落し、
美川王の墓は暴かれます。
高句麗の故国原王は遼東郡支配を諦め、「前燕」に服属して「楽浪公高句麗王」の称号をもらいました。
以上が歴史学者達が説明する楽浪郡滅亡後の情勢です。
しかし、この話も「玄菟郡は遼東、遼東郡は遼東半島、楽浪郡は朝鮮半島、帯方郡はソウル」という仮定で読むと、何か不可解です。
平壌から抜け出すのは難しいはずなのに、張統と王遵はそろって慕容カイに保護されたのは何故だろうか。
長白山脈を基盤とする高句麗は、どうして平原が基盤の鮮卑慕容部から隣接する千山山脈を奪う事ができなかったのか。
はるか遠方の楽浪郡(北朝鮮)、帯方郡(ソウル)、玄菟郡(遼東)を短期間で全て攻略し、
遼西さえも攻撃したというのに。
朝鮮半島に存在したはずの「楽浪郡」を、慕容カイはなぜ遼西地域に再建したのだろうか。
「楽浪郡」を支配し、342年に高句麗に勝利した前燕の慕容コウが高句麗と講和する時、
楽浪郡を平壌に復活させなかった理由は何故なのか。
資治通鑑晋紀の313年の記事を根拠とするのであれば、
日本の子供達が必ず覚えなければならないような大事件の記録がないのは何故か。
歴史学者達は「313年に高句麗によって朝鮮半島の楽浪郡が滅亡した」と教えていますが、最初から遼西にあった「楽浪郡」は滅亡などしていない可能性があります。
永嘉の乱で事実上滅亡した西晋の各地の刺史達は独立の道を選ぶか、或いはそれぞれの地方の有力者に支援を要請しました。
当時の華北は前趙の劉聡、
前趙将軍で後に後趙を建国する石勒、
西晋の并州刺史劉琨、
帝位を狙う幽州刺史王浚、
鮮卑拓跋部で後に代を建国する拓跋猗盧、
鮮卑段部の段疾陸眷などの群雄が割拠する騒乱状態でした。
そして問題の313年とは、
石勒の側につくか、
王浚の側につくかの選択を迫られる時期でした。
高句麗と長年困難な戦い続けてきた遼東郡太守の張統と楽浪郡太守の王遵にとっては、
独立は不可能であり、前趙や高句麗に保護を求める選択肢もなかったはずです。
幽州刺史の王浚に見切りをつけ、
その地方の有力者であった鮮卑慕容部の慕容カイへの帰順を表明したのではないでしょうか。
楽浪郡が朝鮮半島にあったとすれば、このような華北の情勢など全く気にする必要は無かったでしょう。
中学高校の世界史で教えられている「313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼした」という歴史は、
一体全体何が根拠なのでしょうか。
遼東郡、玄菟郡なども支配者が変わっただけで高句麗の故国壌王の時代まで存続しています。
それに北魏の太武帝が遼西地域の肥如において「朝鮮県」を再び置いたのは、
高句麗が平壌城に遷都した五年後の432年の事です。
即ちこの時代の「朝鮮」とは、遼西地域における名称だったのです。
さらに北魏は正光年間(520-525)に営州において「楽良郡」を置き、そこには「帯方県」まで含まれていたのでした。
魏書:樂良郡前漢武帝置,二漢、晉曰樂浪,後改,罷。正光末復...(中略)...永洛正光末置。有鳥山。帶方
「楽良」郡は前漢の武帝が置いた。二漢、晉は「楽浪」と呼んだ。その後改め、廃止されたが、正光の末、復活した。
「罷」とは「廃止する」とかの意味であり、「楽浪郡が高句麗に滅ぼされた」などという記述があるようには判断できません。
それに魏書の説明では、北魏が置いた「楽良郡」は前漢の武帝が置いた楽浪郡とあまり変わらない場所に置いたとしか判断できません。
それは果たして私が「歴史学の手法」や「中国史書の読み方」を正しく学んでいないからなのでしょうか。
20世紀の日本の歴史学者達が調査した平壌での考古学的知識とは、本当に絶対的な確証なのでしょうか。
6世紀の中国で歴史を研究していた魏書の編集者達が楽浪郡に関して持っていた知識よりも、それは本当に確実な証拠と言えるのでしょうか。
「魏書」のような同時代の史料は信頼できる「一級史料」ではないのでしょうか。
中国の正史である晋書の帯方郡の項目には楽浪郡を含む平州の歴史が記されており、
楽浪郡が高句麗に滅ぼされたなどという記述は存在しません。
永嘉の乱の後、
平州は鮮卑慕容部に支配されたと記述されています。
それに資治通鑑晋紀には313年の楽浪郡滅亡後にも、
338年に楽浪太守鞠彭の遼西地域での活躍
(慕容コウと石虎の棘城決戦)
が記述されています。
資治通鑑晋紀に記されている313年の楽浪郡太守の記述は、たったの2行だけです。
晋紀には313年に楽浪郡が滅亡したという記述も無ければ、
楽浪郡が移動した記述さえありません。
「楽浪郡が移動した」という根拠さえ、歴史書には存在しないのです。
歴史書の記述を見る限り、楽浪郡は最初から一貫して遼西地域にあったと考える方が妥当です。
そもそも313年の事件が正史である晋書には記述がありません。
このような瑣末な事件が、
日本の子供たちが必ず覚えないといけないような歴史的大事件であるはずがありません。
それにもしこの歴史事件を教えるのであれば、「313年に楽浪郡が滅ぼされた」でも「楽浪郡が移動された」でもなく、
「313年に高句麗と戦っていた遼東郡太守張統と楽浪郡太守王遵が謀って鮮卑慕容部に帰順し、
慕容カイが張統を楽浪郡の太守、王遵をその参軍事とした」と正確に教えるべきです。
「五胡十六国時代や南北朝時代には楽浪郡や朝鮮県、帯方県は遼西地域に存在した地名であった」という歴史的事実に対して疑問を持たないようにするためには楽浪郡を朝鮮半島から消去する必要があった。
そして少なくとも楽浪郡は338年より前に朝鮮半島から遼西地域に移動させておく必要があった。
もし313年に楽浪郡を朝鮮半島から消去しておかないと、
歴史書には楽浪郡を朝鮮半島から消去できるような口実となる歴史事件が存在しない。
すると「楽浪郡はいつの間に朝鮮半島から遼西に移動したのだろうか?」という答の用意できない疑問が出されてしまう。
そうなると「楽浪郡が朝鮮半島に設置された」という説明自体にも疑問が出されてしまう。
それを防ぐために歴史学者達が学校教育を利用して子供の頃から刷り込んだドグマが「313年に高句麗が平壌に存在した楽浪郡を滅ぼした」という教育項目なのかもしれません。
「平壌の楽浪郡を一旦滅亡させて遼西地域に楽浪郡を再度作り直す」事により、「楽浪郡滅亡後に何故か楽浪郡が遼西地域に存在した」というこの「楽浪郡の遼西移動の怪」に対して、歴史学の素人達が疑問を抱く事がないようにするために。
もちろん、「正確には楽浪郡は滅亡ではなく、遼西に移動しました」などというような余計な知識を子供たちに教えてはなりません。
「玄菟郡の遼東移動の怪」や「消えた万里の長城の怪」も無茶苦茶な改竄ですが、
この「楽浪郡の遼西移動の怪」はそれらをも遥かに越える程の組織的で文字通りの「子供騙しの改竄」です。
日本の歴史学者達とは、歴史書の記述を解釈して歴史を構築しているのではありません。
偉大なる先人達の先行研究の蓄積に沿うように歴史書の記述を適当に解釈し、
社会的影響力を用いてそれを史実としているとしか思えません。
このような改竄歴史を信じて時間を浪費している者達は、哀れとしか言いようがありません。
楽浪郡が滅亡した後、遼東はどうなりましたか?
高句麗は「前燕」に服属しましたが、その「前燕」は370年になると更に強大な「前秦」に滅ぼされます。
高句麗の故国原王はそのまま「前秦」に服属して、「前燕」から亡命した慕容評を「前秦」に送還しました。
その「前秦」は東晋を滅ぼして中国の統一を目指します。
しかし「前秦」が370年に淝水の戦いにおいて東晋に敗れると、華北は再び騒乱状態となり、遼東には「後燕」が建国されます。
そのような時代の流れに乗って後燕に勝利して遼東を支配したのが高句麗の広開土王です。
中国が北方民族の活躍によって南北朝に分裂している間、北朝は遼河を越えて高句麗に侵攻する余裕がありませんでした。
そのため遼東は隋唐の統一王朝の時代が来るまで高句麗によって支配されました。
遼西は後燕や、その後の北魏を初めとする北朝の勢力に支配されました。
隋書では「高麗之地,本孤竹國也」と記述されています。
孤竹国とは河北省にあった国です。
また、高句麗の別名は「高麗」です(正式名称とも言う)。
北朝が混乱し、隋が中国を統一した頃には高句麗は遼西までも支配していたようです。
即ち、遼東や遼西は高麗によって支配されました。
もっとも素人には理由がよくわからないのですが、歴史学者達の中には隋書の記述を疑い、高句麗が遼西を支配した事を信じない者がいます。
ちなみに、中国語のウィキペディアには、隋との戦争が始まった後、高句麗は遼河西部を放棄して遼河まで撤退したと記述されています。
高句麗は広開土王死後、好太王碑を作った長寿王の時代に更に強大となり、427年に王都を長白山脈の国内城から平壌城に移しました。
この「虚構の楽浪郡平壌説 Q&A」の影の主役は高句麗ですので、ここで説明させていただきました。
高麗とは高句麗の意味であり、後の「高麗」王朝とは高句麗にちなんで付けられた国名です。
まぎらわしいので、現代では「高句麗」と「高麗」は区別されていますが、歴史書を読む時にはどちらであるのかを考えないといけません。
高句麗の「平壌城」は現在の平壌ですか?
238年に公孫淵が魏によって滅ぼされると、共通の敵を失った魏と高句麗は対立するようになり、
242年には高句麗の東川王は遼東の西安平県を襲撃します。
244年には魏のカン丘倹が高句麗の王都「丸都城」を蹂躙しますが、東川王は南沃且へ逃れます。
魏軍は東川王を追って東沃沮まで到達し、そこより東には土地が無い事を初めて知ります。
これが「三国志魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条」(通称魏志倭人伝)の序文に誇らしげに書かれた有名な事件です。
東川王は高句麗に戻ると、245年に荒廃した丸都城の代わりに新たに「平壌城」を築いて遷都しました。
しかし、楽浪郡平壌説では東川王の時代に平壌に存在したのは魏の楽浪郡です。
魏に惨敗した東川王が魏の本拠地である楽浪郡の平壌を占領するのは不自然です。
従って楽浪郡平壌説が正しいと仮定すると「平壌城」は平壌には有り得ません。
ちなみに「魏書」には以下のように高句麗の説明があります。
遼東郡開國公、高句麗王。敖至其所居平壤城,訪其方事,云:遼東南一千餘里,東至柵城,南至小海,北至舊夫餘,
遼東郡開國公である高句麗王の居する所である「平壤城」の場所は定かではありませんが、少なくとも「小海」と呼ばれる場所よりも北にあったようです。
楽浪郡や衛氏朝鮮の「王険城」は現在の平壌ですか?
史記や後漢書には「王険城」の場所について次のように記されています。
史記律書第三:朝鮮(注:潮仙二音。高驪平壤城本漢樂浪郡王險城,即古朝鮮地,時朝鮮王滿據之也)
後漢書東沃沮伝:東沃沮在高句驪蓋馬大山之東(注:蓋馬,縣名,屬玄菟郡。其山在今平壤城西。平壤即王險城也)
素人がこれを読み下せば次のような文章となります。
朝鮮(注:潮仙の二音。高句麗の平壤城は元は漢の樂浪郡の王險城、即ち古朝鮮の地で朝鮮王衛滿がいた所)
東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東にある(注:蓋馬は県名。玄菟郡に属す。その山は今の平壤城の西にある。平壤は即ち王險城なり)
また、おおまかな位置関係は次のようになります。
(西)玄菟郡蓋馬県 蓋馬大山 高句麗の平壤城=衛氏朝鮮の王険城 漢代の東沃沮 日本海(東)
即ち、高句麗の「平壌城」と楽浪郡の「王険城」は同じ場所にありました。
「王険城」がどこにあったのかは定かではありませんが、楽浪郡平壌説が正しいと仮定すると「平壌城」と同じ場所にあった「王険城」も、やはり平壌には有り得ません。
衛氏朝鮮の首都「王険城」の跡地に楽浪郡が置かれ、
その「王険城」と高句麗の首都「平壌城」は同じ位置にあり、
そしてその「平壌城」は平壌には無かった。
しかし、楽浪郡は何故か平壌にあったというのが楽浪郡平壌説です。
楽浪郡平壌説では、
「東川王の平壌城」はいわゆる「高句麗の平壌城」ではなく集安近くの山の中にあった初期の平壌城であり、
後漢書や史記の注釈に記された「平壌城」とは後世の高句麗終焉の地である平壌の地だったので、
「王険城」が現在の平壌であったとしても問題無いそうです。
しかし後漢書の「平壌城」が平壌だったとすると、蓋馬大山や玄菟郡は現在の平壌のすぐ近くにあった事になってしまい矛盾するのですが、そういう地理的な問題に歴史学者達が回答する事はありません。
もしかしたら「満潘汗」と同じように、玄菟郡から平壌へと至る巨大な平壌城を仮定しているのかもしれません。
そうでなければ「平壌城」は同時に二種類が存在し、後漢書東沃沮伝注釈一つ目の「平壌城」とは集安の近くのどこかにあった「東川王の平壌城」を、注釈二つ目の「平壌」とは現在の平壌だったと仮定しているのかもしれません。
そうでなければ「平壌城」の場所には3つあり、中国史書の記述はその3つの平壌城を混同していると仮定しているのかもしれません。
「平壌城」の位置については非常に混乱しています。
しかし、この混乱の中にこそ「楽浪郡平壌説の真相」が隠されているのです。
「平壌城」の謎とその真相については後ほど詳しく述べる事にします。
異民族が玄菟郡や遼西郡を越えて侵入する事は珍しくありませんでした。夫余が玄菟郡、遼東郡、高句麗などを通り越して楽浪郡を攻撃しても珍しくないのではありませんか?
馬で素早く駆け抜ける事ができる平原と違って、見えない敵と戦いながら山岳地帯を越えて攻撃するのは容易ではありません。
しかも高句麗の首都である集安の近くを通って軍隊を進めるのは、現実的ではありません。
平原の郡を通り越した例を当てはめて問題視しないのは早まった一般化という誤謬を犯しています。
群雄割拠の中国を統一して突厥をも下し、中国史上最強の軍事国家を実現した唐帝国。
その10万(一説では100万)の精鋭部隊を率いて太宗自らが親征した唐の第一次高句麗遠征。
しかしその唐軍をもってしても、遼東半島の安市城で敗退し鴨緑江を越えられませんでした。
強大な軍事力を誇った高句麗は特別な存在かもしれません。
いずれにしろ千山山脈や長白山脈は遼東と朝鮮半島の歴史を断絶する壁であり、簡単に越えられるものではありません。
夫余王が8千人程度を率いて、ちょっと玄菟郡、遼東郡を越え、更に鴨緑江も越えて楽浪郡を攻めるなど有り得ません。
高句麗の太祖大王も、遼東郡の西安平県を攻めたついでに平壌にも軍を派遣して楽浪郡を攻めて太守の家族を誘拐したばかりでなく、さらに大同江を越えてソウルまで行って帯方令を殺して帰ってくるなど、有り得ません。
平壌から楽浪郡太守の封泥が発見されました。楽浪郡は平壌にあったのではありませんか?
楽浪郡太守の封泥の発見は、楽浪郡太守との政治交流が平壌において存在した事の証明にしかなりません。
元の国書の封印が太宰府で発見されたからと言って、太宰府が元の支配下にあったと主張する者はいません。
平壌では鉄が大量に産出し、鉄は武器や車輪を作るための重要な素材でした。
戦乱の絶えない中国王朝が平壌と政治的、経済的に盛んに交流していたのは自然の成行です。
平壌から楽浪郡の瓦が発見されました。楽浪郡は平壌にあったのではありませんか?
楽浪郡の瓦は、平壌が楽浪郡と経済的交流があった事の証明にしかなりません。
奈良県で唐の仏像が発見されたからと言って、奈良県が唐に支配されていたと主張する者はいません。
それに「楽浪富貴」などと銘打っていますが、
漢代では氵(さんずい)を漢委奴国王印や滇王之印のように、
「水」という文字のイメージである五本の線で書き記していました。
実際に「樂浪前尉丞印」では、これらの印鑑と同じく五本の線で氵が書かれています。
瓦の画像を見てみれば、
これは「浪」という文字ではなく「宝石」を意味する「琅」という文字である事くらい、
歴史学者なら理解しているはずです。
その家に福が招かれるように「富貴琅樂」という縁起の良い字を並べて刻んでいるだけで、
楽浪郡とは何の関係も無い瓦です。
同様に「楽浪禮官」とされる瓦もまた、「浪」という文字かどうか定かではありません(見えなくもないですが)。
いずれにしろこのような瓦が出土した事を根拠にして平壌に楽浪郡が存在した事の動かぬ証拠とするのは、
正に子供騙しと言えるでしょう。
平壌の楽浪王光墓から「楽浪太守掾王光之印」が発見されました。楽浪郡は平壌にあったのではありませんか?
「掾」とは地方政府内の組織の長官です。
それに木印ですのであまり位の高い人物ではありません。
楽浪郡から派遣された人物が平壌で死亡したのではないでしょうか。
朝鮮半島から帯方郡太守の墓が発見されました。帯方郡は朝鮮半島にあったのではありませんか?
墓は死亡地、生前のゆかりの地、故郷、遺族の居場所などに作られますので、必ずしも決め手にはなりません。
高麗若光の墓が埼玉県で発見されたからと言って、埼玉県が高句麗に支配されていたと主張する者はいません。
現在の多くの中国人がそうであるように、故郷には戻りたくなくなったのかもしれません。
イ・ドギル氏の疑問によれば、
この帯方太守の墓の出土物が示す永和4年(348)とは楽浪郡が滅びたとされる35年後であり、
亡命者だったのではないでしょうか。
そもそも「帯方太守の墓」などと主張していますが、
これが本当に「帯方太守」と書いてあるのかは、疑わしいと言わざるを得ません。
「方太守」の三文字だと主張する部分は、何か別の一文字のように見えますし、
その上の文字も本当に「帯」なのか定かではありません。
いずれにしろこのような出土物では、帯方郡が朝鮮半島に存在した事の実証にはならないでしょう。
平壌から楽浪郡の戸口簿の木簡が発見されました。楽浪郡は平壌にあったのではありませんか?
戸口簿の木簡の発見は、楽浪郡の内部情報を取得した者が平壌に存在した事の証明にしかなりません。
では、考古学的に何が出土すれば楽浪郡が朝鮮半島に存在した証明になりますか?
楽浪郡遂城県を起点として作られた万里の長城が朝鮮半島から発見されれば、楽浪郡が朝鮮半島にあったという動かぬ証拠となるでしょう。
広範囲な建造物なので、後世の者達が全てを完全に破壊した可能性は無く、楽浪郡が存在したのであれば痕跡が必ず見つかるはずです。
しかし、そのような物は発見されていないばかりか、存在したという伝承すらありません。
420年も支配したのであれば、長城以外にも楽浪郡に関連する様々な遺跡や遺物が見つかるはずです。
残念ながら平壌から発掘されたのは、中国人の墓と持ち運び可能な小物ばかりです。
これでは、中国系の人々が住んでいた事と、楽浪郡との交流が盛んだった事の証明にしかなりません。
この程度の考古学的確証では、楽浪郡が平壌に存在した「可能性がある」程度の確証にしかならず、絶対的な実証にはなり得ません。
調査したところ、楽浪郡の近くにあったはずのXXXXは朝鮮半島にあったと説明されていました。そうすると楽浪郡は朝鮮半島にあったのではありませんか?
これまでの歴史学の成果は全て楽浪郡平壌説を前提として場所が比定されています。
従って、これまでの研究結果による地名などの比定地を理由に楽浪郡遼東説を否定する事は循環論法という誤謬を犯しています。
地名、郡名、国名などの国の位置についてこれまでの歴史学の成果を調べ、それによって楽浪郡の場所を証明しようとしても、それは何の証明にもなりません。
楽浪郡遼東説とは、これまでの歴史学の成果を全て否定する説なのです。
では「楽浪郡遼東説」を否定するには、どうすれば良いですか?
「楽浪郡遼東説」の本質とは「衛氏朝鮮や箕子朝鮮は遼東・遼西に存在した国家である」という「古朝鮮遼東説」です。
その説が正しければ、衛氏朝鮮の跡地に設置された楽浪郡、玄菟郡、真番郡、臨屯郡、そして後代に設置された帯方郡も全て遼東、遼西に存在した郡である事が必然的に導かれるのです。
従ってその根拠とされている理由とは古朝鮮の位置であるため、「古朝鮮遼東説」を否定すれば良いです。
或いは楽浪郡だけでなく古朝鮮の一部である玄菟郡、真番郡、臨屯郡、或いは帯方郡のいずれかが、
楽浪郡平壌説を前提としない方法で朝鮮半島にあった事を証明できれば良いです。
では「古朝鮮遼東説」を否定するには、どうすれば良いですか?
旧唐書には「遼東之地,周為箕子之國,漢家之玄菟郡」と箕子朝鮮の位置が「漢の時代に玄菟郡があった遼東の地」に存在した事が具体的に明記されています。
文献史学によってこの記述を覆すつもりであれば、旧唐書よりも古い古代史書を引用して古朝鮮の場所を調査し、「古朝鮮遼東説」を否定すれば良いです。
「古朝鮮遼東説」を否定するような記述が中国古代史書に見つかりませんでした。「古朝鮮遼東説」を否定するには、一体全体どうすれば良いですか?
そうすると「古朝鮮遼東説」を否定するための方法は、衛氏朝鮮の時代には版図が朝鮮半島に拡大或いは移動していたと仮定し、衛氏朝鮮の中心地であった「列水」や「浿水」などの河川や「王険城」などの都市が朝鮮半島に存在した事を証明するのが最も説得力のある証明となります。
「列水」は西へ海に入ったとあります。遼東の河川は全て南へ海に入りますが、これは「列水」が遼東には無かった事の証明になりますか?
確かに現在の遼東の河川は遼河に合流した後で南に海に入っています。
しかし、この推論には「古代の河川の位置は現在と大きく変わらないだろう」という証明されていない「隠された前提」が使用されています。
現在と違って古代の河川にはコンクリートの堤防は存在しませんでした。
一般的に古代の河川は土砂が体積するに連れて流れが変わり、河口デルタの範囲内で流れは時間と共に移動しました。
そしてこれは遼東の河川の特殊事情なのですが、遼東は黄砂が大量に降り積もる場所であり、通常の河川よりも陸地造成能力が格段に強く、河口デルタも広大です。
従って、古代の遼河の河口は現在よりもかなり北方に存在し、流れ方も現在とは異なっていたはずです。
当時の河口はどこにあり、流れがどうだったかはわかりませんが、南へと流れる下流部分がごっそり無かった可能性を疑った方が良いと思われます。
即ち、太子河などの遼東の河川は西に向かって海に入っていた可能性は充分有るのです。
従って、デルタ地帯における現在の河川の状況から証明する事はできません。
「列水」は西へ海に入っていたので、朝鮮半島の漢江ではありませんか?
列水の河口である列口は朝鮮王の右渠が王倹城によって漢水軍を敗走させた場所です。
しかし、漢が水軍を派遣できたのは大同江までです。
と言うのは、長山串が海の難所であり、
そこを越えた先の海域は暗礁の多いリアス式海岸である上、潮流が激しいためです。
甕津半島では潮差が7mもあります。
古代では状況が異なったのではないかと思われるかもしれませんが、潮差を生み出す主な原因は潮の干満と黄海暖流の不定期な流入です。
潮の干満は月の軌道が原因であり、黄海暖流は北太平洋還流の一環である黒潮の支流であり、即ち地球が自転する事によって発生しています。
どちらも地球という天体の物理現象が原因であり、古代も現在とあまり変わらない事が証明されています。
即ち古代においても潮流の状況は現在と同じであり、長山串や甕津半島が海の難所であったと推測するのは科学的な根拠があります。
遠方である上に、そのような危険な海域に水軍を送って1年に渡って持久作戦をするのは自殺行為と思われます。
従って、列水を漢江に比定するのは実現可能性が無いと思われます。
「列水」は大同江、「浿水」は清川江、「王険城」は平壌だったのではありませんか?
史記の「朝鮮列伝」によると漢は「浿水」からの陸軍、「列水」からの水軍の二方面作戦で「王険城」を攻略しました。
この仮定が正しいかどうかの検証は、歴史上の他の作戦と比較する事が良いでしょう。
それは隋の第二次高句麗遠征で、30万の陸軍で清川江から平壌を、20万の水軍で大同江から平壌を攻略する作戦でした。
元寇の弘安の役も、文禄・慶長の役の規模もそれぞれ15万程度ですから、日本史には存在しないような驚くべき規模の作戦です。
我々は歴史から学ぶ姿勢を決して忘れてはなりません。
中国語版ウィキペディアから抜粋したこの戦記を紹介します。
そして朝鮮列伝と比べてみましょう。
612年1月2日煬帝は遼東出兵の詔勅を発布。
113万の陸軍で遼東を攻撃した。
高句麗は遼河一帯まで撤退した。
煬帝軍は多大な犠牲を出しながらも遼河を渡り、
遼東城(現在の遼陽市付近)を包囲した。
しかし5ヶ月が過ぎたが遼東城は一向に落ちなかった。
煬帝は事態を打開するため、高句麗の首都である平壌を30万の陸軍と20万の海軍で攻撃する新作戦を開始した。
隋の水軍は大同江に到着すると高句麗軍と交戦しこれを敗走させ、
撤退する高句麗軍を追って上陸した。
隋軍では当時、略奪行為は禁止されていた。
しかし、待ち構えていた高句麗の防衛軍を制圧すると隋軍に油断が生まれた。
全ては高句麗の罠だった。
隋軍が略奪の限りを尽くしている間に高句麗軍に攻撃され、10万近くを失った。
水軍は陸軍の到着を待つ事にした。
陸軍の方は更なる悲劇が待っていた。
山岳森林地帯に潜伏した高句麗の部隊は、軍隊よりも補給部隊に狙いを集中して攻撃をしかけた。
有効な対策を見出せなかった隋軍は、各部隊に補給物資を持たせた。
しかし、あまりの重荷に耐えられなくなった各部隊は食料を捨ててしまった。
鴨緑江に到着した時には既に物資が欠乏していた。
隋軍が鴨緑江を渡る前に乙支文徳(いつしぶんとく)が率いる高句麗軍は降伏を申し出た。
物資が欠乏していた隋軍は意見が分かれたが、煬帝からの指令は鴨緑江を越えて攻めろというものだった。
しかし、降伏交渉の過程でやせ細った隋軍を見た乙支文徳は隋軍の窮状を把握した。
乙支文徳は撤退を繰り返し、高句麗軍との交戦は戦勝に戦勝を重ねた。
隋軍は清川江を簡単に渡河したのであるが、これは乙支文徳の罠だった。
乙支文徳は上流で水をせき止めて簡単に渡れるようにしていたのだ。
平壌を目前にした隋軍に乙支文徳は再度、降伏を申し出た。
隋軍にはもはや戦闘を継続できる程の物資が存在しなかったので、その降伏の申し出を受け入れる事にした。
隋軍が撤退のために清川江を渡ろうとすると、乙支文徳はせき止めていた水を放ち、隋軍は退路を経たれた。
高句麗軍の総攻撃により隋軍は壊滅し、遼東城に戻ったのは2700人だけだった。
数十万の損害を出して隋が得たのは、遼河西部の限られた土地だけだった。
当時の中国の人口が4600万人程度であった事を考えれば、
その政治的なインパクトは計りしれない。
「高句麗が箕子の故地を支配しているのはけしからん。」
煬帝が高句麗遠征を始めたのはそれだけの理由だった。
煬帝はその後も高句麗遠征を続けたが、やはり勝つ事ができなかった。
民心を失った隋帝国は混乱に陥りやがて滅亡し、煬帝も殺害された。
陸海から平壌を攻撃したもう一つの作戦である、唐の第二次高句麗遠征の戦記も紹介しましょう(参考文献1)。
10万の大軍で太宗が親征した第一次高句麗遠征に失敗した唐は、高句麗の打倒が簡単ではない事を認識した。
そして打倒するために朝鮮半島南部からの支援の必要性を痛感した。
高句麗の南部を勢力圏とするために、まずは新羅と同盟を組んで水陸13万の大軍を派遣し、新羅軍5万と共に百済を滅ぼした。
そして究極の目標である宿敵高句麗を今度こそ倒すため、661年4月、陸海合計30万というやはり驚くべき規模の兵員を用意し、満を持して平壌を攻撃した。
黄海を越えて水軍の大軍を送り込んで直接大同江を攻撃し、平壌に上陸して包囲した。
しかし新羅からの補給の援軍は容易ではなかった。
高句麗軍だけでなく、百済復興軍が唐、新羅連合軍の補給を邪魔していたからだ。
新羅軍も長年の宿敵である高句麗を倒すため、必死で戦い補給を続けた。
しかし、平壌を守る高句麗兵の士気は高く平壌は落ちなかった。
水軍は陸軍の到着を待ちわびていた。
高句麗の淵男生らは鴨緑江を防衛ラインとして鉄壁の守りを固めていた。
陸軍はどうしても鴨緑江を渡ることができず、時間だけが過ぎて行った。
冬になって鴨緑江が凍ってから、ようやく高句麗の防衛ラインを突破して鴨緑江を渡る事ができた。
急いで平壌を目指してその目前まで到達した唐軍であるが、高句麗の淵蓋蘇文は大同江の支流である合掌江に最終防衛ラインを引いていた。
唐軍はどうしても合掌江を渡る事ができず、次第に冬は厳しさを増していった。
2月になってついに唐軍は合掌江の強硬突破を試みた。
しかし高句麗軍の士気が衰える事は無く惨敗した。
幾多の著名な辺境戦争を戦い抜き、
百済をも滅ぼした歴戦の英雄である龐孝泰将軍は、
その13人の息子達と共にここで戦死した。
厳冬の平壌で、奥深い敵地からの撤退が絶望的な行為である事を唐軍は十分承知していた。
しかしもうこれ以上の持久戦を続ける事ができなかった。
唐軍は涙を飲んで撤退を決断した。
悪諡を贈って軽蔑した煬帝とは同じ間違いをしないように新羅と同盟を組み、
先に百済を滅ぼし、
莫大な戦力を用意し、
満を持して始めたはずの唐の第二次高句麗遠征は、壊滅的な惨敗に終わった。
これらの戦記を読んだ後で、「浿水」を清川江、「列水」を大同江、「王険城」を平壌と仮定して「朝鮮列伝」を読めばいろいろな疑問が沸いてくるはずです。
- 陸軍、水軍共に補給に対しての問題が全く記述されていないのは何故か?
- 山岳地帯を行軍した記述が無いのは何故か
- 清川江を渡った陸軍は何事も無く平壌に現れるが、そんなに簡単だろうか。
- 水軍が少ない事を知った衛氏朝鮮軍はすぐに城を出て反撃し、水軍を敗走させた。平壌は河口から70km以上離れているが、そのような判断ができるのだろうか(朝鮮新報より)。
- 隋唐の水軍は陸軍と連絡を取るのが困難であり、陸軍の到着を待ちわびていた。
しかし漢の陸軍と水軍は互いの状況を把握し、仲が悪かった。
朝鮮半島で、両軍は状況を互いに簡単に把握できるだろうか。
互いに戦況に悲壮感が無いのは何故か?
- 1年に渡って平壌を包囲し、衛氏朝鮮を内部崩壊させて勝利したが、数万程度の軍勢でそのような作戦は実現可能だろうか?
- 戦後、仲が悪く功績の無かった陸軍、水軍のどちらの将軍にも功績が与えられなかった。
「勝利して当たり前の戦争なのに、将軍達の無能により時間をかけてしまった」という評価であるが、何故このような評価がされたのか?
果たして、この戦いは平壌での戦いとして「実現可能性」があるでしょうか。
こんな戦いが、平壌攻防戦であるはずがないではありませんか。
もしこれでも納得できないようでしたら、契丹の高麗侵攻も読んでみて下さい。
朝鮮半島での戦闘は、補給の問題を解決し、森林地帯に潜んだ伏兵の奇襲に苦しみ、中国には無い大雨に悩みながら、冬は厳冬に悩みながらできるだけ短期間で決着を着けなければならない。
最強と言われた唐軍ですら新羅の援助を失った途端、弱体な新羅に攻撃されますが、懲罰する事なく大同江以南を放棄します。
朝鮮列伝が記すような、補給を断って自滅させるような持久戦は朝鮮半島における戦闘として実現可能性が無いのです。
そのような持久戦ができたのは、みな殺しのモンゴル軍の侵攻だけでした。
単に持久戦が実現不可能なだけではありません。
契丹やモンゴルの侵攻だけでなく、紅巾の乱の時も丁卯胡乱の時も、朝鮮側は平壌を死守して滅亡するような道を選ばず、南部や江華島に逃げ込んでいます。
消耗戦に持ち込んだ方が戦況が有利になるためでしょう。
平壌において朝鮮側を滅亡させるには、南に逃亡できないようにするために半島南部の勢力との共同作戦が不可欠ですが、朝鮮列伝にはそのような同盟があったという記述はありません。
それに「其秋遣樓船將軍楊仆從齊浮渤海」と記述されていうように、齊の水軍は渤海に浮かべたとはっきりと記述されているのです。
「列水」を大同江とするのは朝鮮半島や遼東半島の地理的条件も考慮せず、その後の歴史や経済的、技術的、戦術的条件その他も全く考慮していない上に歴史書の記述も完全に無視しています。
科学的検証をする事もなければ、歴史書に対する敬意すら持たない暴論です。
仮に平壌を占領したとしても、唐軍、契丹軍、モンゴル軍、紅巾軍、女真軍の例を見ればわかるように、
それだけで朝鮮半島支配を確立する事にはならない事はその後の歴史が示しています。
漢が平壌を陥落させた後に歴代中国王朝が赤眉の乱、黄巾の乱、三国時代という中国史上の未曾有の混乱をも乗り越えて、モンゴルの朝鮮支配の5倍に当たる420年間も一貫して朝鮮半島を支配したという仮説は、常識のカケラすら存在しない愚説です。
この仮説を定説化した者たちは、4万程度の軍隊で遼東で勝利すれば、朝鮮半島も自動的に支配できると考えたのでしょうか。
朝鮮半島とは、数百年間も争いが起きる事の無い桃花源(桃源郷)のような場所だとでも考えたのでしょうか。
楽浪郡平壌説とは、朝鮮半島の歴史も地理も知らない桃源郷の住人が、単に地図上で朝鮮半島の上に適当に漢四郡を配置して、適当に万里の長城を描いただけです。
高句麗を滅亡させた唐でさえ、新羅の反乱だけでなく高句麗支配下に居住していた靺鞨の独立も抑えきれず、渤海の建国も黙認するしかなかったのです。
地図上で適当に漢四郡を配置して420年も支配した事にするなど、正に「机上の空論」です。
自分達に都合の良い歴史を政治的影響力を用いて「真理」として確定してしまう行為は、世間では「歴史修正主義者」と呼んで非難されています。
では、「列水」は清川江か鴨緑江だったのではありませんか?
残念ながら、「列水」を清川江や鴨緑江と比定するのも歴史書の記述と合いません。
それにこれらの河川は平壌に比べると防衛の上で脆弱であり、首都を置くのに相応しい場所ではありません。
歴史上でこれらの河川に首都を置いた政権は小西行長や黒田長政らが平壌を占領した時の臨時政府くらいのものでしょう。
他にめぼしい河川が見つかりませんでした。「楽浪郡遼東説」を否定するには、一体全体どうすれば良いですか?
アポリアに陥った事を自覚して、平壌説が本当に正しいのかどうかをもう一度検証してみる事を勧めます。
それができないなら楽浪郡平壌説を守るために生み出されたアドホックな仮説である「列水は大同江」という愚説を「疑問の余地がない」ドグマとし、擬似解決の方法を探す事です。
即ち不十分な考古学的確証に安住して思考を停止し、「楽浪郡遼東説」を主張する者達の知識、能力、資格、動機、人格、危険性などを批判し、「楽浪郡遼東説」などという説は存在しない事にしてしまえば良いでしょう。
そもそも古朝鮮の場所など、その旧王都とされる「險瀆」で検索すればどのあたりにあったのかすぐに分るはずなのですが。
もしかして歴史学者達は歴史資料の調べ方など知らないのでしょうか。
「朝鮮半島は遼東の一部」ではないのですか?
楽浪郡平壌説は「玄菟郡遼東移動説」及び「列水大同江説」を東西両横綱とする様々なアドホックな仮説を生み出しました。
「朝鮮半島は遼東の一部」という説も歴史書に「楽浪郡が遼東にある」と明記されているため、楽浪郡平壌説を守るために作り出された大関クラスのアドホックな仮説の一つです。
遼河と平壌の間には、中国との歴史を断絶してきた千山及び長白の山脈、そして重要な防衛ラインである鴨緑江や清川江などの重要河川が存在します。
それに遼東と違って朝鮮半島は山脈であり降水量も多く、気候も風土も全く違います。
遼河など朝鮮半島の人には聞いたこともない遠い世界でしょう。
そもそも朝鮮半島はどちらかと言うと遼河の南方に位置しており、遼東と呼べる位置にはありません。
朝鮮半島を支配する者にとっては、朝鮮半島と遼東との違いは明白です。
公孫淵が遼東で燕王を自称すると、楽浪郡と帯方郡までもが何故か魏に反旗をひるがえし、そのまま燕に属しました。
また、遼隧の戦いで公孫氏が滅亡すると、楽浪郡と帯方郡までもが当たり前のように、そのまま魏の支配下に戻ります。
その後、遼東が西晋によって支配されると、何故か楽浪郡と帯方郡までもが当たり前のように、西晋の支配下に入りました。
このように遼東の歴史と楽浪郡の歴史は幾多の混乱を経ても420年もの長きに渡って完全に連動しています。
三国時代のような混乱期に遼東の勢力はどうして朝鮮半島を直接支配できたのでしょうか?
「隋」、「唐」、「遼」などの歴代の遼東の勢力を阻んできた長白山脈は、「魏」の時代には壁として機能しなかったのでしょうか。
このような疑問は素人には決して抱かせてはなりません。
「楽浪郡が遼東に存在したために、遼東の歴史と楽浪郡の歴史が連動していたのではないか」と疑問に思うかもしれないのです。
そのために歴史学者達が考え出したアドホックな仮説が、「朝鮮半島は遼東の一部」という説です。
こう説明する事で「遼東を支配すれば、朝鮮半島も連動して支配できる」事に対して、素人は疑問を抱く事がないのです。
何しろ、朝鮮半島は遼東の一部なんですから。
この奇説の真相も説明しましょう。
中国古代史書には「遼東」の他にこの当たりの地域名を示す単語は実は「大海中の山島」しかないのです。
ところが日本の歴史学者達は「大海中の山島」を日本列島に移してしまったために、
「朝鮮半島」を示す地域名が歴史書に存在しなくなってしまったのです。
それに「楽浪郡は遼東に存在した」と多くの歴史書に記述されているので、
平壌は「遼東」の内部に存在しないと説明ができません。
そこで「遼東」には「朝鮮半島」も含まれるという説が出てきたのです。
常識のある歴史学者が存在したのであれば、そのような奇説は却下されたでしょう。
しかし朝鮮半島の歴史も地理も何も知らない日本の歴史学者達は、
その説明に疑問を抱く事が無かったのです。
箕子朝鮮は伝説上の国で実在しなかったのではありませんか?
確かに箕子朝鮮が存在していたという絶対的な確証はありませんが、
箕子に関する逸話は「箕子の憂い」などの現実的な話が多く、
その存在を疑うのであれば中国史書に記述された人物は全てその存在を疑わないといけないでしょう。
それに、煬帝は箕子の故地を回復するために高句麗遠征を始めたのであり、少なくとも隋の時代には実在を疑うべき国ではなかったようです。
なお、中国語版ウィキペディアによると箕子朝鮮の重要都市の一つであり、
煬帝の重要目標でもあった遼東城(襄平城)は、
前284年前後に作られた燕長城の東部堡塁であり、
現在の遼陽市付近にあったとされています
(襄平城是前284年左右興建的燕長城的東部堡壘,本為東胡、山戎與箕子朝鮮的重要城市)。
「箕子朝鮮が伝説上の国だった」というのも、
箕子朝鮮に関する考古学的確証が朝鮮半島において見つからない理由を説明するため、
そして中国史書が示す箕子朝鮮の場所が遼西や遼東である理由を誤魔化すために、
歴史学者達が作り出したアドホックな仮説の一つに過ぎません。
唐代の歴史家は長城は高麗まで続いていると記録しています。長城は朝鮮半島まで伸びていたのではありませんか?
万里の長城が楽浪郡遂城県の碣石山を起点とする事から、長城と碣石山が朝鮮半島になければ、楽浪郡平壌説は破綻してしまいます。
「万里の長城は朝鮮半島まで伸びていた」というのも、歴史学者達が作り出した大関クラスのアドホックな仮説です。
唐代における「高麗」は高句麗を意味し、当時の高句麗は遼東や遼西を支配していたのです。
唐代の歴史家は、長城が遼西か遼東まで伸びていると記録しただけで、朝鮮半島まで伸びていたと記録したのではありません。
碣石と呼ばれる山は数多くあったようです。碣石山は朝鮮半島にもあったのではありませんか?
「碣石山は朝鮮半島にもあった」という説も、楽浪郡平壌説が作り出したアドホックな仮説の一つです。
「富士」と呼ばれる山は日本各地にたくさんありますが、特に説明がなく「富士」と書かれていれば誰もそれが「利尻富士」ではないかと疑ったりしません。
中国の歴史家が特に説明も無く「碣石山」と書けば、それは万里の長城の起点であり、中国史上最初にして最大の英雄である「始皇帝」が、征服地を支配していた土地神に対して支配の許可をいただくために、自ら登って祭祀を行ったと言われるあの碣石山であり、
三国時代の曹操が「観滄海」の詩を賦した場所としても知られているあの有名な碣石山以外に有り得ません。
朝鮮半島の誰も知らない山などであるはずがありません。
碣石山を知らない素人を納得させるために考え出された、正に子供だましの仮説です。
この珍説の真相も説明しましょう。
唐代のある歴史家が「碣石山は今の高麗の中に有る。かつての楽浪郡の遂城県であり、秦の長城の起点であった。」と記述しました。
常識のある歴史学者であればこれは「高句麗は碣石山までも支配していた」と解釈するでしょう。
しかし、楽浪郡を朝鮮半島に移してしまったために、日本の歴史学者達は「高麗」を「高句麗の支配地域」とは解釈せずに、「朝鮮半島」と解釈してしまったのです。
こうして唐代の歴史家の説明がトンデモ解釈され、「碣石山は朝鮮半島にもあった」という珍説が出来上がったのです。
万里の長城が見つからないのは、漢に支配された恥ずかしい歴史を消し去りたいために北朝鮮が隠しているのではないですか?
日本時代にこの地域で長城の探索が行われましたが、誰にも見つけられませんでした。
見つからなかったのには理由があります。
それは、鴨緑江や清川江が天然の要塞であり防衛ラインであるため、長城を作る必要が無いのです。
もしこの地域に防衛ラインを構築するための長城を作るのであれば、高麗や高句麗が作った千里長城のようなルートになるはずです。
これは朝鮮側からの防衛ラインですが、中国側から築く場合でも、やはり千山山脈の麓に防衛ラインを築く事でしょう。
歴史地図に書かれている長白山脈を横断して朝鮮半島に至る長城の線は、防衛ラインではありません。
あれは、唐の第三次高句麗遠征において唐軍に寝返った淵男生らが玄菟城、南蘇城、木底城、泊灼城などを落としながら通った行軍ルートです(参考文献2)。
唐軍は遼東半島を横断するルートの危険性を歴史から学び、ついに長白山脈の奥深くの山城を落としながら行くルートを知ったのです。
そして平壌での数ヶ月の攻防戦の末、高句麗はついに降伏しました。
唐軍は高句麗の歴代国王の墓も暴き、高句麗復興運動を全て叩き潰し、数十万の高句麗住民を中国に連行し、この地に二度と中国を脅かす勢力が出現しないように高句麗を完全に消滅させました。
歴史地図上に描かれた長城とは、中国人が淵男生に導かれるまで知る事の無かった朝鮮半島への「秘密の侵攻ルート」です。
歴史から学んで現実の戦闘を念頭において考える歴史学者がいれば、そのような長城が防衛ラインとして現実性が無い事を理解できたはずです。
日本の歴史学者達は、単に地図上で高句麗の山城を線で結んでみたラインを長城だと主張しているだけです。
それに、このような山岳森林地帯では敵軍が見えないため、そもそも長城など作っても無意味です。
所々に山城を作っておき、敵軍が通った時に山城から出撃して攻撃すれば良いはずです。
歴史教科書に描かれた長城とは、起点を朝鮮半島とするために地図上で描かれた妄想ラインに過ぎません。
さすがの北朝鮮政府も、存在しない長城を隠す方法など知らないでしょう。
北朝鮮が長城を隠しているというのも、楽浪郡平壌説が作り出したアドホックな仮説の一つです。
一部の韓国人が「楽浪郡遼東説」を主張するのは、中国に支配された恥ずかしい歴史を消し去りたいためではないですか?
一部の韓国人は歴史の真実を求めているだけです。
朝鮮半島を本当に支配下に置いた中国の王朝は「元」と「清」だけです。
「元」の場合は、世界最強のモンゴル軍に高麗王朝が勝てなかったためです。
モンゴル軍は抵抗する者達を常に皆殺しにしましたが、交渉で存続が許されたのはやはり高麗軍が手強かったからでしょう。
「清」の場合は、李氏朝鮮が軍事的に弱体な王朝だったためです。
李朝はクーデターで高麗王朝を倒した軍人が作った王朝なので、軍人を恐れて軍事力を強化せず、事大主義に安住して、朝鮮を堕落した国にしてしまったのです。
「唐」や「遼」は半島支配を諦め、それらの歴史を知っていた「明」や「金」は朝鮮が事大の礼を尽くす事で満足したのです。
「元」はモンゴル人、「清」は女真族の帝国であり、朝鮮半島は中国と共にモンゴル人や女真族の支配を受けた事があるだけで、韓国は中国の支配など受けた事は一度も無いと主張しても間違いではありません。
朝鮮半島万年属国論もまた、楽浪郡平壌説が作り出したアドホックな仮説の一つです。
清帝国もその建国時の戦後処理(丁卯胡乱、丙子胡乱)を除いて、朝鮮の内政に干渉する事はありませんでした。
袁世凱から始まる日清戦争の経緯から「清帝国が李氏朝鮮を実質的に支配していた」と誤解している者が多いですが、
中国人が朝鮮を勢力圏の一部と認識し始めたのは、
魏源が『聖武記』において、
箕子の逸話を根拠にして「朝鮮は本より中国の地なり」と記したのが原因だと言われてます。
これに影響された章炳麟も楽浪郡が置かれた事を理由にして朝鮮を「中華民国が絶対回復すべき領域」と主張しました。
このような思想が中国共産党の指導者達に影響を与えなかったはずがありません。
日清戦争、朝鮮戦争から現在に至るまで、
東アジアの不幸な近代史は、この「楽浪郡平壌説」という妄想によって生み出されて来たのかもしれません。
高句麗の歴史は韓国史ですか?それとも中国史ですか?
高句麗は民族史としては中国史でも韓国史でもないでしょうが、地域史としては中国史でもあり朝鮮半島史でもあります。
中国側は高句麗、渤海、古朝鮮の歴史を中国史に含めるための東北工程を進めています。
韓国ではそれに反対しています(高句麗論争)。
韓国人は民族的には新羅人の子孫ですが、
後の高麗王朝が高句麗の継承国家である事を宣言したという歴史的経緯もあり、
高句麗の歴史を韓国の歴史の一部と考えています。
日本はこの問題に対して中立でいられる立場なのですが、高句麗の歴史を詳しく教える事はありません。
満州や朝鮮半島の歴史や地理など、誰も知らなくて良いし、誰も知ってはいけないのです。
知った途端、遼東の歴史が朝鮮半島の歴史と420年に渡って連動する事など有り得ない事がバレてしまう。
それ故に世界史上稀に見る程長い700年の王国を築いた高句麗の栄光の歴史も、禁断の歴史となってしまっています。
朝鮮半島は自主性の無い、中国の属国だとでも教えておけば良いのでしょう。
韓国人が楽浪郡平壌説を信じないのは、韓国人が中国に支配された屈辱の歴史を直視できないからだと思わせておけば良いのです。
別に韓国を愛しているわけではありませんが、日本の歴史教育は果たしてこれでいいのでしょうか。
ハッキリと言える事は、
歴史修正主義が築くのは虚構の世界だけであり、未来を築く事は決してないという事です。
BC146年にはポエニ戦争の結果、共和制ローマによりカルタゴは滅亡した。
1258年にはフレグによりアッバース朝が滅亡した。
悪名高きバグダードの戦いだ。
このように、国家ばかりでなく民族や文化までもが消滅するような破滅的な戦争が世界史上では起きてきた。
唐帝国によって百済と高句麗が滅亡した戦いは、そのような破滅的な戦争であった。
「中華民族の偉大なる復興」を目指す中国の夢など、韓国人にはあまり面白くない話であろう。
日本が巻き込まれた白村江の戦いもまた、高句麗消滅作戦の一環だったのだ。
1300年前の東アジアで起きた悲劇に思いを馳せながら、
高句麗の歴史を尋ねに行こう。
参考文献1:「朝鮮三国志 高句麗・百済・新羅の300年戦争 (Truth In History)」小和田泰経
参考文献2:「韓国歴史地図」韓国教員大学歴史教育科
付録:世界史上最大規模の空襲とナパーム弾で壊滅した悲劇すら誰も知らない哀れな平壌。平壌の今と昔の写真はここ。
1. 平壌城の場所はどこか?
「衛氏朝鮮の王険城の場所に楽浪郡が置かれ、王険城の場所は平壌城の場所と同じであり、平壌城は平壌にあった。」
これが楽浪郡平壌説の理論的支柱です。
楽浪郡平壌説の誤りを立証するのは非常に簡単で、平壌城が平壌になかった事を示せば良いだけです。
これまで示した歴史書の記述は全て中国史書のもので、「三国史記」の記述は引用しませんでした。
これは中国史書の方が三国史記よりも成立年代が古く、 信頼できるとされているからです。
しかし、朝鮮半島の詳しい歴史の調査は三国史記の記述に頼るしかありません。
それに、三国史記の記述は決して適当に歴史を捏造しているようには見えません。
その三国史記には楽浪郡に関する記述は少ないのですが、楽浪郡を平壌だと仮定した場合には以下のような疑問が出てきます。
- 三国史記において313年の楽浪郡滅亡以前に高句麗や百済が楽浪郡、帯方郡と戦った記録は以下の6箇所である。
- BC5年、百済の温祚王(史料)は臣下に「国家の東には楽浪が有り、北には靺鞨が有り、辺境を侵している。国を移すべきだ。」と述べ、馬韓に使者を送って遷都を告げた。
楽浪郡が平壌だとすると、百済はどこからどこに移ったのか?
- 37年に高句麗の大武神王が楽浪を滅ぼした。
楽浪郡が平壌だとすると、何故復活できたのか?
- 146年に高句麗の太祖大王が、
遼東郡の西安平県を攻め、楽浪郡も攻めて太守の家族を誘拐し、さらに帯方令を殺した。
楽浪郡が平壌だとすると、遼東郡との両面作戦は可能か?
- 246年8月に魏の毌丘倹が高句麗に攻め入った際には、百済の古尓王が高句麗の楽浪郡の辺境に攻め入って住民を略奪させたが、魏軍が矛先を転じるのを恐れて略奪した人民を放棄した。
楽浪郡が平壌とすると、楽浪郡を通って高句麗の辺境を犯した事にならないか?
帯方郡も通り越したのか?
- 290年頃、帯方が高句麗に攻められた時に百済の責稽王が救援要請に応じ、帯方を救った。
これも楽浪郡が平壌だとすると、楽浪郡を滅ぼして帯方を攻撃した事にならないか?
- 304年に百済の汾西王が楽浪の西県を奪取したが、10月、楽浪太守の放った刺客によって殺害された。
これも楽浪郡が平壌だとすると、西県とはどこなのか?。
帯方郡を通り越してから楽浪郡を攻撃したのか?
これはむしろ梁書百済伝の「西晋の時代に高句麗が遼東を略有すると、百済も遼西の晋平二郡を占領して、百済郡を置いた」という記述と合致していないか。
もしも楽浪郡が420年も平壌にあったとすると、もっと頻繁に戦闘の記録が残されているはずではないか。
それに数少ない記述においてさえ、楽浪郡の位置が平壌であると連想させるような記録が存在しないのは何故か。
- 313年の出来事として「美川王は楽浪郡を攻めて捕虜2000人余りを捕獲した」(冬十月 侵楽浪郡 虜獲男女二千餘口)との記述が三国史記にあるだけで、楽浪郡が滅亡した様子が無いのは何故か。
帯方郡の滅亡は314年とされているが、これについても「秋九月 南侵帶方郡」の一言だけで滅亡した様子がないのは何故か。
-
313年の楽浪郡滅亡という大事件について、正史である晋書には記述がない。
資治通鑑の晋紀に、「高句麗と戦っていた遼東郡太守張統と楽浪郡太守王遵が謀って鮮卑慕容部に帰順し、慕容カイが張統を楽浪郡の太守、王遵をその参軍事とした」という記述があるだけである。
楽浪郡が滅ぼされたとか、楽浪郡が平壌から遼西に移転したなどという記述がどこにも存在しない。
それどころか楽浪郡は継続しており、滅亡したのは遼東郡の方ではないか。
313年以降には楽浪郡の記述が歴史書から無くなってしまう。
ここで楽浪郡を滅亡させておく以外に朝鮮半島から楽浪郡を消去するタイミングがなくなってしまう。
この最後のチャンスを利用して「313年に楽浪郡は滅亡し、中国の朝鮮半島支配が終了した」などというデタラメを子供たちに重要事項として覚えさせ、洗脳しているのではないか。
疑問は山積みで歴史学者達が楽浪郡が平壌だと主張する理由がサッパリわからなくなってきます。
いずれにしろこれらの疑問は放置して、ここでは三国史記における平壌城の記述についてのみ検討します。
三国史記には「平壌」の記述が何度も現れますが、その位置については非常に混乱しています。
しかし三国史記における平壌城の位置の混乱の中にこそ、楽浪郡「平壌」説の真相が隠されているのです。
楽浪郡がおかれた王険城と同じ場所にあったとされる平壌城の場所は、三国史記ではどのように記述されていますか?
三国史記の高句麗伝には以下のように「平壌」及び「平壌城」が何度も現れます。
- 245年に高句麗の東川王が丸都城を放棄して「築平壌城」したという「東川王平壌城」
- 302年に高句麗の美川王が玄菟郡を攻撃して捕虜8000人を平壌へ移住させたという「美川王平壌城」
- 372年に近肖古王の百済軍が攻め込み、高句麗の故国原王を戦死させた場所である「故国原王平壌城」
- 377年に近仇首王の百済軍3万が、高句麗の小獣林王の時に攻めてきた「小獣林王平壌城」
- 392年に高句麗の広開土王が九つの寺を創建した場所であり、
好太王碑において広開土王が出たり入ったり防衛したりする「広開土王平壌城」
- 427年に高句麗の長寿王が国内城から「移都平壌」した「長寿王平壌城」
- 552年に高句麗の陽原王が築き、586年に平原王が「移都長安城」した「平原王平壌城」
高句麗終焉の地である「平原王平壌城」が現在の平壌である事は、間違いないでしょう。
しかし「東川王平壌城」、「美川王平壌城」、「故国原王平壌城」、「小獣林王平壌城」、「広開土王平壌城」、「長寿王平壌城」の場所については、
それぞれ一体どこにあったのか、それらは同じ場所だったのかも明らかではありません。
しかし、これらの平壌城が全て現在の平壌にあったとは、考えられません。
中でも重要なのは、後漢書の注釈で「王険城の場所は今の平壌城と同じ」とされた平壌城です。
後漢書の成立は432年ですので、
その平壌城とは427年に高句麗が遷都した、「長寿王平壌城」です。
427年とは北魏の太武帝の時代です。
即ち、魏書において「遼東郡開國公である高句麗王がいた」と記された平壌城と同じです。
永嘉の乱から始まった五胡十六国時代は、
太武帝によって北燕が滅ぼされた事によって終わりを向かえます。
華北はついに統一され、南北朝時代が始まりました。
高句麗は毎年のように北魏に朝貢し、北魏からは「遼東郡開國公高句麗王」の称号を受け続けました。
高句麗が北燕の馮弘の亡命を受け入れた時に、高句麗と北魏の間に不穏な空気が流れた事もあります。
しかし高句麗は馮弘が更に他国に亡命しようとすると馮弘を殺害しました。
高句麗も北魏も軍事大国で対立する国家を数多く抱えており、両国は遼水を境として互いに平和共存していたようです。
この時代の中国史書にも三国史記にも北魏との戦争の記録はありませんし、長寿王が遷都した後には百済などの他国が平壌城に攻めてきた記録もありません。
倭に関する記録が南朝の史書にしか残されていないのも、高句麗に敵対する倭の相手など北魏はしなかったのでしょう。
北魏と平和的な外交関係を構築し、高句麗が安定的に遼東を支配していたこの時代の「長寿王平壌城」の場所は一体どこにあったのか。
これこそが問題の核心です。
「平壌城」の場所はどのように混乱していますか?
「平壌城」の場所についての疑問を列挙してみます。
- 東川王が「築平壌城」し、長寿王が「移都平壌」し、平原王が「移都長安城」したそれぞれの「平壌城」はどこか。
- 高句麗の「平壌」侵攻による楽浪郡滅亡は313年のはずなのに、302年に美川王はどうやって捕虜を「平壌」に移住させる事ができたのか。
何故、「平壌」に移住させたのか。
- 342年、鮮卑慕容部からの軍事的圧力を感じたのか、故国原王は安全のため王都を丸都城に移すが、
同じ年にその丸都城も前燕によって陥落して破壊され、
新たに国内城を築いたと言われる。
313年に平壌の楽浪郡が高句麗によって滅ぼされたはずなのに故国原王は何故、
もっと安全な平壌に遷都しなかったのか。
- 372年に百済の近仇首王が攻め込んだ時、国内城に遷都していたはずの故国原王はなぜ「平壌城」にいたのか。
- 広開土王は何故、まだ遷都していない「平壌城」に九つも寺を創建したのか。
まだ遷都していない「平壌城」に出たり入ったり防衛したりした理由は何故か。
- 「長寿王平壌城」が平壌だとすると、遼東郡開国公である高句麗王は、何故遼東ではなく朝鮮半島に住んでいたのか。
北魏と共存し、高句麗が安定して遼東を支配していたのであれば、遼東にいるべきではないか。
もし遼東にいたとすれば、どこに王都を置いたのか。
- 586年、即ち隋の高句麗遠征の13年前、平原王が王都を「平原王平壌城」即ち現在の平壌に移す。
王都を移転した理由は何故か。
遼東支配の安定が終焉したからではないのか?
-
平原王が移す前の王都はどこにあったのか。そこが「長寿王平壌城」だったのか。
-
平原王が遷都した先は「平壌」ではなく「長安城」だと記述されている。
何故「平壌」に移したと記述されていないのか。
- 平壌城の場所が、少なくとも2箇所以上存在しないと説明できないのは何故か。
- 平壌城の場所は何故このように混乱しているのか。
歴史学者達の説明では「東川王平壌城」、「美川王平壌城」、「故国原王平壌城」、「小獣林王平壌城」、「広開土王平壌城」は現在の集安の近くのどこかにあった初期の平壌城とされ、
「長寿王平壌城」は平壌のどこかにあったとされています。
最も重要な問題である「長寿王平壌城」の具体的な位置は安鶴宮にあったとされていますが、
これは高麗時代の遺跡だとも言われており、確定していません。
それに「平原王平壌城」への遷都の理由などについては、具体的な説明はされていません。
楽浪郡平壌説は三国史記の平壌城の記述も楽浪郡の記述も何も説明していません。
三国史記は信頼できない史書だから、その記述は全てを無視しても良いのでしょうか。
楽浪郡平壌説と合致しないために「信頼できない史書」とされていないでしょうか。
それに、学者達は「楽浪郡が置かれた場所」とされる最も重要な「長寿王平壌城(前期平壌城)」が平壌にあったという根拠を説明していません。
一言で言えば、楽浪郡平壌説とは「砂上の楼閣」に過ぎません。
問題の平壌城の位置は後世の中国史料にはどのように記述されていますか?
「遼史」の地理志における「東京道」及び「東京遼陽府」(遼陽市)の郷土史に関する資料も参考になるでしょう。
歴史書の翻訳はあまり経験がなく、間違いがあるとは思いますが、非力ながら「遼史」を簡単に翻訳します。
遼は国土を上京道、中京道、南京道、西京道、東京道の五道に分け、各道に首都を置き、
東京遼陽府は東京道の首都でした。
遼史地理志には、朝鮮、楽浪郡、浿水、平壤城などの場所について、14世紀の中国人の認識が明記されています。
なお、遼は高麗遠征に失敗しており、朝鮮半島を支配した事はありません。
遼陽市は古くは襄平城や遼東城とも呼ばれ、
煬帝が生涯をかけて攻略を目指し、
それに失敗して隋帝国を滅亡に導いたという因縁の歴史を持つ、遼東における戦略的に重要な都市です。
東京遼陽府,本朝鮮之地。
東京遼陽府(遼陽市)は本は朝鮮の地。
周武王釋箕子囚,去之朝鮮,因以封之。
周の武王は箕子を朝鮮に行かせ、これを封じた。
作八條之教,尚禮義,富農桑,外戶不閉,人不為盜。
犯禁八条を作って教え礼儀とした。
農業や養蚕で富み、外の戸を閉めずとも人は盗みをしなかった。
傳四十餘世。燕屬真番、朝鮮,始置吏、築障。
40代余りが過ぎ、燕では真番、朝鮮に属し、始めて官吏を置いて砦を築いた。
秦屬遼東外徼。
秦では遼東に属し域外(朝鮮半島まで万里の長城が伸びていたという説は論外だろう)。
漢初,燕人滿王故空地。
前漢初期、燕人の衛満王のいにしえの空き地。
武帝元封三年,定朝鮮為真番、臨屯、樂浪、玄菟四郡。
漢の武帝の元封三年(BC108)、朝鮮に真番、臨屯、楽浪、玄菟の四郡を定めた。
後漢出入青、幽二州,遼東、玄菟二郡,沿革不常。
後漢においては青州か幽州の遼東、玄菟二郡に出入りし、変遷はあまり無かった。
漢末為公孫度所據,傳子康;孫淵,自稱燕王,建元紹漢,魏滅之。
漢末には公孫度が占拠、
その子公孫康に伝えられ、
その孫の公孫淵は燕王を自称し、建元した紹漢の時に魏がこれを滅ぼす。
晉陷高麗,後歸慕容垂;子寶,以勾麗王安為平州牧居之。
西晋から高句麗、その後は鮮卑慕容部の慕容垂に帰す。
子の慕容宝は勾麗王の安(高句麗王安?)を以って平州の刺史としてここに住まわす。
元魏太武遣使至其所居平壤城 ,遼東京本此。
北魏の太武帝はその(高句麗王の)居する所である平壤城に使いを送った。遼の東京の本は此れである。
唐高宗平高麗,於此置安東都護府;後為渤海大氏所有。
唐の高宗は高句麗を滅ぼし、ここに於いて安東都護府を置いた。その後は渤海の大氏が所有した。
(中略)
遼陽縣。本渤海國金德縣地。漢浿水縣,高麗改為 勾麗縣,渤海為常樂縣。戶一千五百。
遼陽県。本は渤海国の金徳県の地。漢の浿水県。高句麗は勾麗県に改める。渤海の常楽県。1500戸。
(中略)
紫蒙縣。本漢鏤芳縣地。[五]本漢鏤芳縣地 鏤芳,漢書地理志、後漢書郡國志均作鏤方,屬樂浪郡。
紫蒙県。本は漢の鏤芳県の地。鏤芳県は漢書地理志、後漢書郡國志では鏤方県で楽浪郡に属す。
このように問題とされている平壌城は遼史においては遼の東京、即ち遼陽市にあったと明記されており、
楽浪郡平壌説は破綻しています。
遼陽市は魏書に説明されている「遼東南一千餘里,東至柵城,南至小海,北至舊夫餘」という説明に符号する場所です。
遼陽市は歴代の遼東支配者が首都を置いた場所であり、遼東開国公である高句麗王が居する場所として正に相応しい場所です。
平壌城が遼陽市にあったというのは単に遼史に記されているだけでなく、他の歴史書の記述も合致し、地理条件も満たし、その後の歴史がどうであったかも説明できるのです。
平壌城ばかりか、遼史においては朝鮮、楽浪郡、浿水の位置も全てが遼陽市の近辺であったと明記されており、朝鮮半島ではありません。
中国の古代史書における朝鮮及び楽浪郡の場所は全てが遼東か遼西であり、
南北朝時代における朝鮮及び楽浪郡の場所も朝鮮半島ではなく、遼西だった。
そして14世紀の中国人の認識でも平壌城、朝鮮及び楽浪郡の場所は明確に遼陽市の近辺であり、朝鮮半島ではなかった。
しかし21世紀の日本の歴史学者達は歴史書の記述を完全に無視して楽浪郡の場所は平壌で絶対に間違いが無いとし、疑問を持つ事自体を許していない(学界では全く認められていない)。
歴史学者達は史料批判ばかりしているうちに、歴史書の記述など全て無視して良いと考えるようになったのかもしれません。
遼史の執筆者達とは何らかの理由で「楽浪郡を遼東に移動させるために何の根拠も無い妄想ばかりを記述した者達」だと考えているのかもしれません。
三国史記の執筆者達とは、楽浪郡や平壌の位置を全く理解していない人達だと考えているのかもしれません。
しかしこのように歴史書の編集者達を軽蔑し、歴史書の記述を無視するのであれば、彼らは一体何を根拠にして歴史を記述しているのでしょうか?
それとも歴史学者達の「史料批判」とは、自分たちの仮説に都合の悪い歴史書の記述を無視するための方便なのでしょうか。
南北朝や隋唐の歴史家にとって遼東とは所詮外国であり、記述に多少間違いがあったとしても大きな問題とはされません。
しかし、遼にとって遼東とは間違いなく自国に関する歴史であり、いい加減な記述などして良いはずがありません。
日本の歴史学者達はどうして遼史の遼東に関する記述を信じる事ができないのでしょうか。
それは日本の歴史学者達にとって遼東とは所詮外国の歴史でしかなく、記述に多少間違いがあったとしても大きな問題とはされないからではないでしょうか。
考古学的調査結果(参考文献3:高句麗都城の考古学的研究)によると、平原王平壌城(後期平壌城)はその存在が確実に確認できますが、
長寿王平壌城(前期平壌城)ばかりでなく漢代の都城も考古学的にその存在が確認されていません。
要するに、楽浪郡平壌説は考古学的確証に基づいてなどいません。
2. 楽浪郡平壌説の真相
歴史学者達は何を間違えたのですか?
「新唐書」の高句麗伝に次のように説明されています。
高麗,本扶餘別種也。地東跨海距新羅,南亦跨海距百濟,西北度遼水與營州接,北靺鞨。
高句麗は本は夫余の別種なり。東に海を越えて新羅、南に海を越えて百済、西北は遼水を渡って営州と接し、北は靺鞨。
其君居平壤城,亦謂長安城,漢樂浪郡也,去京師五千里而贏,隨山屈繚為郛,南涯浿水,王築宮其左。
その君は平壤城に居り、また長安城とも言う。漢の樂浪郡である。
京師から五千里、(理解できません)南岸は浿水、王はその左岸に宮を築く。
又有國內城、漢城,號別都。水有大遼、少遼:大遼出靺鞨西南山,南歷安市城;少遼出遼山西,亦南流,有梁水出塞外,西行與之合。
また国内城、漢城が有り、別の都と言う。
大遼水と少遼水という川がある。
大遼水は靺鞨西南の山から出て、南は安市城を経る。(中略)
有馬訾水出靺鞨之白山,色若鴨頭,號鴨淥水,國內城西,與鹽難水合,又西南至安市,入于海。
馬誉水が有り、靺鞨の白山から出る。色は鴨の頭のようで、鴨緑江と言う。国内城の西を経て鹽難水と合流し、西南に流れ安市に至り海に入る。
而平壤在鴨淥東南,以巨艫濟人,因恃以為塹。
そして平壌は鴨緑江の東南に在る。(巨艦に人を載せて塹と為す???)
調べてみれば分かりますが、新唐書には他にも「平壤城」が遼東にある事を示す記述が存在します。
しかし、ここで記されている「平壌」は明らかに現在の平壌と同じ場所です。
この新唐書の記述を見る限り、「平壤城と平壤は別の都市であった」のです。
長寿王が移転した先は「遼史」の記述では遼陽市でした。
遼東支配が安定した時期ですので、高句麗の首都は国土の主要部分である遼東を統括するのに便利な、遼陽市に王都を置いたのでしょう。
しかし隋の文帝が中国を統一する機運になると、高句麗の平原王は安全のため前線となるであろう「平壤城」から退避する必要がありました。
高句麗は伝統的に国内城(集安)に首都を退避していましたが、
カン丘倹、
慕容コウ、
近肖古王、
近仇首王、
などによって何度も遼東方面から攻め込まれた歴史を持つ国内城は、
強大な隋帝国に対しては非常に危険と判断したと考えられます。
そのため高句麗の首都は、より攻略の困難な「平壤」へと移転したものと見られます。
高句麗が三度に渡る平壌攻防戦の末についに滅亡した事から、歴史学者達は「平壤」こそが高句麗王の居する「平壤城」と判断したのでしょう。
平壌を平壌城と勘違いした事により、結果的に平壌を楽浪郡としてしまい、間違った歴史記述を作り上げてしまったとみられます。
いや、むしろその逆で楽浪郡を平壌とした事によって平壌城を平壌であるとしたのかもしれません。
いずれにしろ、平壌が遼東支配の首都としては相応しくない場所に位置している事を問題視しなかったのが、そもそもの間違いの原因でしょう。
ちなみに平原王の中国語版には、
「586年,平原王將都城由平壤城遷至長安城(即今朝鮮平壤市區),直至高句驪滅亡。」
という記述があり、根拠はよくわかりませんが586年に都城を平壌城から長安城(現在の平壌)に移したと記述されています。
韓国語版、英語版にも長安城への遷都が記述されています。
平原王のこのような重要な業績が日本語版にだけ記述されていない理由とは、一体全体なぜなのでしょうか?
「平壌城は平壌である」という説も「列水は大同江である」という説と同じように楽浪郡平壌説が生み出した横綱級のアドホックな仮説であり、これに疑問を持ってはいけないのでしょう。
「平壌」が複数ある理由は何故ですか?
「平壌」と「平壌城」の二つの都市の名前が同じなのは偶然ではなく、高句麗語で何らかの意味があったと思われます。
ここで「平壌」という言葉の意味を、中国史書で言及されている「高句麗王の居する所」であったと仮定してみましょう。
高句麗王が北朝鮮に遷都した後、その街は「平壌」と呼ばれるようになった。
そして高句麗王のいなくなった「平壌城」は「遼東城」と呼ばれるようになった。
煬帝が箕子朝鮮の中心地である遼東城の攻略に執着した理由も説明できるではありませんか。
美川王が捕虜を平壌に連れてきたのもそこが王都であったから。
広開土王が寺を九つ創建したり、出たり入ったり防衛したりするのもそこが王都であったから。
故国原王が平壌城で戦死した理由もそこが王都であったから。
平原王が都を平壌ではなく「長安城」に移したと記されたのは、そこはまだ「平壌」ではなかったから。
楽浪郡平壌説では説明できなかった多くの疑問が明快に説明できるではありませんか。
それだけでなく、「三国史記」の東川王の説明には、次のように記されています。
平壤者本仙人王儉之宅也 或云王之都王險
「平壌」とは本は仙人「王儉」の宅なり、或いは王の都「王険」とも言う。
中国史書で言及されているだけでなく、
「平壌」が「王都」という意味である事は三国史記に明記されているのです。
従って王都である「平壌」の位置は時代によって別の場所を示している可能性があります。
或いは三国史記における「平壌城」の位置は一貫して王都の本来あるべき遼陽市(参考とした史書が成立した時の平壌だった等)であり、
平原王が長安城に遷都した後はそこが新しい「平壌」とされたのかもしれません。
高句麗人が王都を「平壌」と呼ぶので中国の歴史家も「平壌」と記したのですが、
高句麗が遷都して「平壌」の場所を変えてしまった後でも、中国の歴史書に使用された「平壌城」の記述はもう、変えられなかったようです。
これが歴史書に複数の「平壌」という場所が現れる理由です。
後世の歴史家の「平壌」についての記述が混乱しているのも、仕方のない事なのです。
歴史学者達はどうして間違えたのですか?
高句麗が滅亡して数百年が過ぎてしまうと、高麗人にとっても「平壌」という言葉は単なる地名となり、
「平壌」という都市が複数あるのではないかと疑問を持つ者はいなくなったと見られます。
高麗時代の三国史記や「三国遺事」の編集者さえも平壌と平壌城を混同していたようです。
三国史記の成立は遼史や元史の成立よりも早いので、それらの記述内容は知らなかったはずです。
彼らは現在と違って多数の歴史書を比べる事もできない上、遼東は遥か彼方の異国の地であり、思考の範囲の外側にあったのでしょう。
国号に朝鮮を提案した李成桂も、間違えていた可能性があります。
「朝鮮半島」を「古朝鮮」と勘違いしたから「楽浪郡平壌説」が生み出され、「平壌城」を「平壌」と混同したのではなく、その逆でしょう。
「平壌城」を「平壌」と混同した結果「楽浪郡平壌説」が生み出された。
その結果、「朝鮮」という国号や「朝鮮半島」という地域名が生み出されたと考えた方が良いのではないでしょうか。
朝鮮半島の歴史を研究する場合、三国史記の記述を信じる以外に詳しい情報を得る方法はありません。
ですから、日本の歴史学者達もこれらの書物の記述を信じ、高麗時代の編集者達と同じように間違えてしまったのでしょう。
歴史学者達は、歴史書の記述が何故このように混乱しているのかについて原因を追求すべきでした。
それをしなかったのは、史料批判ばかりしているうちに、歴史史料に敬意を払わなくなったからです。
それができなかったのは、疑問生成、仮説提案、検証のサイクルという科学的思考のサイクルが存在しないからです。
楽浪郡平壌説に疑問を持ってはならず、楽浪郡平壌説以外の仮説を提案してはならず、楽浪郡平壌説以外の仮説を検証してはならないからです。
楽浪郡平壌説は313年の楽浪郡滅亡までだけでなく、
平壌城の場所を混同する事によって586年の平原王の平壌遷都までの朝鮮半島の歴史までも改竄してしまいました。
歴史学者達は高句麗滅亡後に「平壌城」に置かれたという「安東都護府」は、
676年に朝鮮半島から遼東城へ移動されたと説明しています。
しかし唐・新羅戦争が既に670年に始まった事を考えると、
この「安東都護府の遼東移動の怪」もまた疑わしい説明です。
これに檀君王倹が平壌城に遷都した期間を加えれば、楽浪郡平壌説は朝鮮半島の歴史を何と3000年間の長きに渡って書き換えてしまったようです。
楽浪郡平壌説の真相とは簡単に言えばどのようになりますか?
楽浪郡は古朝鮮の王都である王険城に置かれ、中国史書の記す王険城の位置が高句麗の平壌城と同じである事から「楽浪郡の場所は平壌である」という説が優勢となった。
しかし「平壌」というのは高句麗語で「王都」という意味で、中国史書が記した時の高句麗の「平壌」は現在の遼陽市のあたりに存在した。
隋の中国統一により危険を感じた高句麗の平原王は「平壌」を遼陽市から朝鮮半島に移動させた。
しかし日本の歴史学者達は「平壌」の場所が移動していた事に気付かなかった。
そして「平壌」と一緒に楽浪郡や古朝鮮の場所までも朝鮮半島に移動させてしまったのです。
歴史学者達は「平壌」の位置が混乱している原因をもっと追求すべきでしたが、平壌から出土した漢墓や封泥という確証だけで楽浪郡が平壌だったと結論づけてしまったのです。
それは中国系の人達が多数居住していた事と、楽浪郡との政治的交流が盛んだった事しか立証しない確証でした。
しかしそれらを絶対的な実証であるとして楽浪郡平壌説をドグマとし、社会的影響力を駆使して異論を全て封殺してきたのです。
これが「楽浪郡平壌説の真相」です。
「長寿王の平壌城が遼陽市に存在した」というのは暁美焔さんが考案した仮説ですか?
もちろん違います。
李氏朝鮮の歴史家「朴趾源」は、
1780年に「渡江録」において、次のように述べています。
漢樂浪郡治在遼東者 非今平壤 乃遼陽之平壤
遼東における漢の楽浪郡治は今の平壌でなく、遼陽の平壌である
こんなのは「仮説」というほどのものではありません。
遼史を読めば誰もが最初にそう考えるはずです。
「これは何かの間違いではないか?」とさえ考えなければ。
「長寿王の平壌城が遼陽市に存在した」というのは本当なのですか?
元史の記述を見て下さい。
東寧路,本高句驪平壤城,亦曰長安城。
東寧路は本は高句麗の平壤城、又は長安城とも言う。
漢滅朝鮮,置樂浪、玄菟郡,此樂浪地也。
漢は朝鮮を滅ぼし、楽浪と玄菟郡を置いた。これが楽浪の地なり。
晉義熙後,其王高璉始居平瓖城。
東晋の義熙の後、
その王高璉(長寿王)は平壌城に居することを始めた。
唐征高麗,拔平壤,其國東徙,
唐が高麗(高句麗)を攻めて平壌を陥落させ、その国は東遷した。
(元史では「高麗」とは後の高麗王朝を指しており、「高麗」が東に移動したという意味)
在鴨綠水之東南千餘里,非平壤之舊。
鴨緑江の東南千余里に在り。いにしえの平壌に非ず。
「長寿王の平壌城は朝鮮半島の平壌とは異なる場所にあり、それは遼東に存在した」という説は「驚くべき新説」などではありません。
600年以上前から歴史書に明記されている古典的な説です。
確かに「東寧路」が遼陽市にあったのかはこの説明だけではわかりません。
しかし元史の記述によれば、長寿王の平壌城は「平壌よりもっと西方の鴨緑江の東南でない場所」、
即ち遼東に存在した事を疑うべき理由など特に無いでしょう。
ちなみに歴史学者達は東寧路は朝鮮半島に設置されたと説明していますが、
後期においては確実に遼東に存在した事から「東寧府の遼東移動の怪」という謎も存在するようです。
もちろん、東寧府が遼東に移動したなどという記録はありません。
玄菟郡、楽浪郡、安東都護府、東寧府など、様々な地方政府が朝鮮半島から遼東に移動しますが、
それに対して歴史学者達が疑問を抱く事は無いようです。
もしかしたら朝鮮半島に設置した地方政府は、遼東に移動するものだと考えているのかもしれません。
歴史学者達は「長寿王の平壌城が遼東に存在した」事にどうして気付かないのですか?
元史が示すように、中国の歴史家は昔から「楽浪の地にあった古い平壌城」と「朝鮮半島の新しい平壌」を区別していたのです。
恐らく以前は常識的な話だったのでしょうが、
さすがに明代にもなると誤解する者が増えてきたので敢えて明文化して注意喚起したものと推測されます。
「仮説」というよりもこれは間違えないようにするための「忠告」であると言っても良いでしょう。
本当の問題とは日本の歴史学者達に、中国の歴史家の忠告を聞く耳が無い事です。
元史を解読する能力を持つ歴史学者など存在しないのでしょうか?
もちろん、そんなはずはありません。
それでは元史を解読しようとする歴史学者など存在しないのでしょうか?
20世紀の歴史学者なら、知らなかったという事も有り得ます。
しかしこの21世紀においては、インターネットで素人でも簡単に調査する事ができる時代です。
歴史学者が知らないはずが有りません。
そうすると元史の内容など歴史学者達は無視すべきだと考えているのでしょうか?
確かに元史は批判されていますが、だからと言って無視すべきだとは考えていないでしょう。
では歴史学者達は何故、元史の記述を問題にしないのでしょうか?
その理由は「楽浪郡平壌説の本当の真相」において説明します。
一言で言えば、歴史学者達は20世紀において既に「戻れない一線」を越えてしまったのです(「賽は投げられた」)。
そしてこの21世紀になっても、彼らはもう戻って来る事ができないのです。
そのため「長寿王の平壌城が遼東に存在した」などという説の存在を許してはならないのです。
ウソがバレるのは時間の問題であるにも関わらず。
3. 楽浪郡平壌説の考古学
長寿王の平壌城の所在について、考古学者達はどう考えていますか?
千田剛道氏による「高句麗都城の考古学的研究」が参考になるでしょう。
これは長寿王平壌城(前期平壌城)とされてきた安鶴宮が、瓦の編年から高麗時代の遺跡である事を立証した革命的研究です。
千田剛道氏は「高句麗瓦編年に関する二、三の問題」において次のように述べています。
「安鶴宮遺跡の年代と高句麗末期の瓦 安鶴宮遺跡(平壌特別市大城区域)は、
かねてより多量の瓦が出土しており、
高句麗末期の離宮遺跡ともみられていた。
この遺跡に対しては解放後に大規模な発掘調査がおこなわれ、
発掘報告書では、前期平壌城の王宮遺跡と述べる。
しかし、出土瓦は高麗時代に下がるものであることは再三述べてきたところである。
瓦が高麗時代である以上、
そのような瓦をともなって検出された建築遺構の年代もまた高麗時代とみなされることは言うまでもない。」
正にこれは日本の考古学が学問としてまだ死んではいない事を証明する研究発表である。
しかし、その意味する所があまりに重大であるため、他の研究者達は二の足を踏んでいる。
その意味する所とは、「長寿王平壌城が平壌に存在したという説には、考古学的な確証は存在しない」であり、
それは即ち「楽浪郡平壌説を裏付ける考古学的確証は存在しない」であり、
それは即ち「学校教育で教えられている朝鮮半島の古代史には、考古学的な裏付けが無い」であり、
それは即ち「邪馬台国が日本にあったという説には、考古学的な裏付けが無い」である。
自然科学でこのような研究が発表されれば大騒ぎになるが、
残念ながら考古学者達が黙ってしまうのは歴史学者達と同じようだ。
千田氏の論文には「長寿王の平壌城はダムの底に沈んでしまったのではないか」などと記述されているが、おかしくて笑いが止まらない。
そういう反証可能性の無い説に逃避する前に別の可能性を疑うべきであるが、
やはり「長寿王の平壌城は平壌近くのどこかに存在した」というのは考古学界においても絶対に疑ってはならない前提なのであろう。
彼は「長寿王の平壌城は遼東に存在した」という話はどうやら本当に知らないようだ。
いずれにしろ楽浪郡が420年間も本当に平壌を支配していたのであれば、もっと多種多様な考古学的確証が存在するはずである。
この研究一つで考古学界に激震が走る事自体が、実は確たる考古学的確証など存在しない事の証である。
ちなみに本当の長寿王平壌城である「遼東城」は高句麗遺跡を重視しない中国政府によって跡形もなく破壊されてしまいました。しかし壁画からジオラマが復元されました(遼東城 壁画)。
楽浪郡平壌説が確定されたのは何故ですか?
「楽浪郡と三韓の交易システムの形成」という研究報告によると、楽浪郡平壌説が確定されたのは平壌地域以外では楽浪郡に関連する考古学的発見が存在しないからだそうです。
朝鮮半島以外の場所で楽浪郡に関連する考古学的発見は本当に存在しないのですか?
確かに朝鮮半島以外の場所における楽浪郡に関連する考古学的発見は報告がありません。
しかし、存在しているのに政治的な理由で報告がされていない可能性があります。
例えば楽浪郡前尉補佐官の印鑑「樂浪前尉丞印」は一体全体どこから出土したのでしょうか?
朝鮮半島から出土したという話は聞いた事がありません。
もし朝鮮半島から出土していれば、「楽浪郡平壌説を裏付ける確たる証拠」と宣伝されているはずです
(注:1572年に出版された、顧従徳の『集古印譜』に収録されていたらしい)。
同様に楽浪郡長岑県官吏の印鑑である「長岑右尉印」や、
帯方郡官吏の印鑑である「帶方郡丞印」等がどこから出土したのかについても、
話題にされる事はありません。
それに、何故か無視されている重要な考古学的発見も存在します。
それは楽浪郡遂城県から始まるとされた「万里の長城」です。
邪馬台国論争の真相Q&A(著者紹介)
「邪馬台国論争の真相」に関する様々な疑問にお答えするだけでなく、
ここでは説明されていない百済史改竄の方法についても説明します。
遼東支配が安定せずに平壌が集安にあった頃、高句麗王は百済王都まで親征する事ができませんでした。
しかし長寿王が平壌を遼陽市に移して北魏との外交関係を安定させると、遼東半島の情勢は急展開します。
風前の灯となった百済王は北魏に泣きつきますが(魏書百済伝)、北魏が百済を助ける事はありません。
「故国原王を殺した百済には必ず復讐せねばならない。」
復讐に燃える長寿王は百済の王都へ軍を進めました。
そして百済の運命の日はやってきたのでした。
詳しくは邪馬台国論争の真相Q&Aを参照して下さい。
夏休みの宿題に最適な邪馬台国朝鮮半島説
社会科自由研究歴史テーマに面白い「現代社会の裸の王様」
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