邪馬台国論争の真相Q&A
〜エジプト説、卑弥呼の墓、倭国の金印、侏儒国、任那日本府、百済、新羅への歴史学的考察〜
暁 美焔(Xiao Meiyan) 社会学研究家, 2021.2.6 祝3.5版完成!
邪馬台国論争の真相(前ページへ戻る)
1. 邪馬台国論争に関する質問
邪馬台国朝鮮半島説は邪馬台国エジプト説と同じようにトンデモ説ではありませんか?
邪馬台国エジプト説はトンデモ説などではなく意義のある説でした。
当時の学者達が帯方郡や狗邪韓国を朝鮮半島内に当てていましたが、
木村鷹太郎氏それには根拠がない事を既に見抜き、
このように述べています。
「若し之をしも考証なりとせば嗚呼大学の専門史家なる者は天下の最大愚物と称すべき也」
そして邪馬台国をエジプトに比定した後でこのように述べています。
「此に於いて東西両大学諸賢等の、堂々たる大論文は尽く反古と成り了り、びた一文の価値だに無く、徒に日本の歴史家なる者の論理力なく、其いわゆる考証なるものは、只是れ牽強附会に過ぎずして、且つ甚しき無学を表す所の記念として遺れることこそ墓なけれ。此くして彼等の考証は死亡せり」
彼の主張の重要なポイントは内藤湖南の畿内説と白鳥庫吉の九州説の論文のどちらにも根拠が無い事を示す事でした。
そのような比定方法が許されるなら世界中どこにでも邪馬台国をもっていける事を証明したのです。
それだけでなく、日本の歴史家には論理的思考力が存在せず、その考証が学問の水準には達しておらず、彼らの論文には価値が無い事を見抜いたのです。
そして彼らのような無能な学者達を崇拝する日本の歴史学が死亡した事までをも看破したのです。
「先見の明」とは正に彼のためにある言葉です。
当時の歴史学者達が内藤氏や白鳥氏ではなく、木村氏の主張に耳を傾けていれば、
日本の歴史学が道を誤る事は無かったでしょう。
邪馬台国論争も100年前に決着していたはずで、
この論争が多くの人間の人生を破壊する事もなかったのです。
朝鮮半島は島ではありません。「大海中の山島」は日本列島だったのではありませんか?
「倭人は帯方郡の東南の大海中に在り、山島に依りて国邑を為す」
倭人伝の冒頭のこの文は倭人が住んでいる土地が山や島である事を説明しています。
倭が島国であったと説明しているわけでは決してありません。
中国は国土が広大ですが、ほとんどは平原です。
朝鮮半島のような山や島は中国人にとって珍しい場所だったのです。
それに、当時は本州が島なのか大陸の一部なのかを知る者はいませんでした。
日本列島だって島国かどうかが誰にもわからなかった時代の話であり、
「大海中の山島」をもって、倭が日本列島にあったと結論する事はできません。
隋書には倭に阿蘇山があると書かれています。倭は日本列島にあったのではありませんか?
邪馬台国の時代から隋書が書かれた時代には300年以上の時間が流れています。
しかも三国時代から西晋、五胡十六国時代、南北朝時代という未曾有の長き動乱の時代を経過しており、記憶が引き継がれている可能性は小さいです。
ましてや辺境の地である邪馬台国に関する記憶が残っているはずがありません。
隋書は過去の歴史書を参照して記述されたと考えるべきでしょう。
それに新羅によって任那が滅亡したのは562年であり、隋王朝が成立したのはその後の581年の事で、既に半島の倭人の国家は滅亡した後です。
隋の時代には既に倭国とは日本列島の国家のみを指していたと推測されます。
従って隋書の阿蘇山の記述をもって、倭が日本列島にあったと結論する事はできません。
三国史記や好大王碑によると倭は海を渡って百済や新羅に攻めてきたとあります。倭は日本列島にあったのではありませんか?
山の多い朝鮮半島内では直接攻撃可能な海上作戦は奇抜な戦術ではありません。
実際に隋帝国や唐帝国は陸続きにも係わらず、何度も朝鮮半島に海を渡って水軍を派遣しています。
それに三国史記新羅本紀には倭国の侵攻記事が頻繁に有り、5方向から侵入した記録も有ります。
倭は朝鮮半島にあったと仮定する方が、三国史記の記述は自然です。
従って渡海作戦が行われた事を理由に、倭が日本列島にあったと結論する事はできません。
それに好太王碑の問題の「渡海破百残□□□羅」の部分の「百残」は百済とは異なる国かもしれません。
不明部分の「羅」も、「加羅」や「安羅」などの別の国かもしれません。
「倭が海を渡って百済と新羅を破り臣民としたのかもしれない」程度の話です。
邪馬台国は会稽東冶の東と書かれています。沖縄の当たりにあるべきで朝鮮半島に邪馬台国があるはずがないではありませんか?
測量技術が発達していない古代人は、現代人のような正確な地図を見た事がありません。
それに、現代人の考える「直線距離」という概念にもほとんど意味がありません。
行程にかかる時間などで、大まかな距離を測っていたと思われます。
中国大陸の平原と違って、朝鮮半島や遼東半島の山道の行程には時間がかかります。
ましてや倭国には馬がいませんでした。
馬を走らせるような道は整備されていなかったと見られます。
行程的に考えれば、会稽東冶と同じ距離の場所は朝鮮半島内に存在したと見られます。
従って、会稽東冶の東である事を理由に倭が朝鮮半島にあった事を否定する事はできません。
倭人伝には倭国に猿がいたようですが、朝鮮半島には猿がいないのではありませんか?
確かに現在、朝鮮半島には猿は生息しません。
しかし、人間の活動によって既に絶滅した可能性があります。
伝説の高麗産の猩猩毛筆を作るために乱獲してしまったのではないでしょうか。
中国で「卑弥呼の鏡」が発見されました。邪馬台国論争の新材料になりますか?
確証を根拠とする時は、まずそれが「実証可能な証拠」であるか、それとも「形式的でない証拠(事例証拠)」であるかを検討しなくてはいけません。
洛陽の骨董市で手に入れた三角縁神獣鏡は間違いなく事例証拠の部類です。
日本が朝鮮半島や満州を支配していた時に、日本国内から持ち出された可能性を消去する事ができません。
すなわち、邪馬台国論争の新材料になる可能性などありません。
この報道の真の問題とは、これを報道したマスメディアが「事例証拠」かどうかを検証する事もなく、
しかもこれが「卑弥呼の鏡」である事が確実かのように誘導する報道をした上、
さらに「邪馬台国論争の新材料」と成る可能性があるかのように報道している事です。
擬似科学の温床である「論証よりも確証」を追求し続ける日本のマスメディアの報道姿勢が残念でなりません。
このようなマスメディアに導かれた日本人に、果たして科学的な検証ができるのでしょうか。
糸島市で弥生時代の硯が発見されました。糸島市に伊都国があったことの裏付けになりますか?
硯の発見は、朝鮮半島と交流があった事の証明にしかならないでしょう。
「楽浪郡の使節が来た場合に、文書や贈り物の点検を行ったのではないか」などというマスコミ報道は希望的観測に過ぎず、
論証よりも確証を追求しているだけです。
まるで大本営発表を楽しみに報道した歴史を繰り返しているかのようです。
奈良県橿原市瀬田遺跡で2世紀後半の円形墓が発見されました。奈良県に邪馬台国があったことの裏付けになりますか?
円形墓の発見は、奈良県に王権があった事の証明にしかならないでしょう。
そろそろ大本営発表は終わりにしてもらいたいものです。
滋賀県彦根市稲部遺跡で邪馬台国時代の大規模な鉄器工房が発見されました。滋賀県は奈良にあった邪馬台国と東海にあった狗奴国との間の独自勢力だったのですか?
鉄器工房の発見は、滋賀県に王権があった事の証明にしかならないでしょう。
それに邪馬台国の東側は海だったはずです。
そろそろ大本営発表は終わりにしてもらいたいものです。
2. 倭人に関する質問
朝鮮半島では稲作がほとんど行われていませんでした。弥生人は中国から直接来たのではないですか?
稲の原産地から弥生人の祖先が中国から直接来たと結論する事はできません。
朝鮮半島の人達は古くから中国と交易していたので、温暖な地で栽培するための南方系の稲を入手する事ができたと考えられるからです。
韓国人や中国人にはハプログループD1bが検出されません。これは弥生人が大陸からの渡来人ではなかった証拠ではありませんか?
確かに日本人にはハプログループD1bというY染色体が多く検出されますが、韓国人や中国人にはあまり検出されません。
しかし、地域別の内訳を見るとアイヌ人(87.5%)、沖縄人(55.6%)、青森人(38.5%)というように、「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」において縄文人の影響が多いとされている地域の順に多い事が確認されています。
このY染色体の情報は日本人が渡来人と縄文人との混血である証拠と考えるのが自然であり、弥生人が渡来人である事を否定する根拠とはならないでしょう。
侏儒国が壱岐島だとしたら、記紀に何か記録があるのではありませんか?
それらしき記述がないわけではありません。
天孫降臨で天下りを先導した国津神とは実は侏儒国人だったのではないでしょうか。
縄文人形態の猿のような格好だったので猿田彦命と名付けられたのかもしれません。
志賀島から倭国の金印が発見されました。倭国は朝鮮半島ではなく九州に存在したのではないですか?
博多湾は天然の良港であり、沖ノ島航路が発見される前においては、ほぼ必ず通る日本列島への玄関でした。
金印は確かに超一級の考古学的資料です。
しかし志賀島という場所の特殊性を考えればこれもまた、絶対的とは言えません。
志賀島とは現代風に言えば、「到着してから入国審査をする前に通る場所」のような所なのです。
朝鮮半島の「極南界」に存在した「倭奴国」の王都が「倭国大乱」の際に敵軍によって陥落し、脱出した王族が日本に亡命したとも考えられます。
上陸して身ぐるみを剥がされる前に、いつか半島に戻って王国を復興する日を夢見て志賀島に埋めた可能性もあるのです。
というより、そう考えた方が志賀島という場所に埋められた理由が説明できます。
必ずしも倭国が日本列島に存在したという絶対的な証拠にはならないでしょう。
また例え倭奴国が北九州に存在したとしても、倭奴国が倭の極南界にあったと事から、倭の中心は朝鮮半島であったと推測されます。
金印の発見をもって、倭が日本列島にあったと結論する事はできません。
「卑弥呼は公孫氏」というのはどういう説ですか?
「卑弥呼は公孫氏」というのは山形明郷氏が提唱した説です。
晋書には以下のように記述されています。
舊以男子為主。漢末,倭人亂,攻伐不定,乃立女子為王,名曰卑彌呼。
以前は男子を王にしていたが、漢末に倭人は乱れ、攻伐して定まらず。それで女子を立てて王と為す。名は卑弥呼。
宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。
宣帝の滅ぼした公孫氏なり。その女王は帯方に使いを派遣し朝見した。その後朝貢は絶えなかった。
しかし、卑弥呼が公孫氏だとすると夢もロマンも何も無くなってしまいますので、
晋書は成立が7世紀で400年も後の事である事から信用できないとし、この記述は無かった事にされています。
或いは「宣帝が公孫氏を滅ぼすと、その女王は帯方に使いを派遣し朝見した。」などと読んでいます。
「三国史記」における同時期の百済の肖古王は、
遼東王・公孫度の娘を娶ったとされており、公孫氏が背後の安全を確保するために倭に親族を送り込んだとしても不思議ではありません。
もっとも、「三国史記」も古い記事については中国史書と記述が合わないため、これもあまり信用できないとされています。
真偽は何とも言えませんが、少なくとも適当な理由によって比定するよりも根拠のある主張です。
朝鮮半島南西部で多くの前方後円墳墓が発見されました。朝鮮半島は日本に支配されていたのではありませんか?
前方後円墳墓の発見は「日本と同じ文化を持つ者がその地を支配していた」と主張する理由にはなります。
しかし、「日本がその地を支配していた」とまで主張するための理由にはなりません。
そのためには、当時の日本政府の関与を示す根拠を提示する必要があるでしょう。
空白の4世紀に、倭人国家には何があったのですか?
魏志倭人伝が記す倭国の様子は父系制には見えません。
父系制の社会では、王朝が打ち立てられて王家が国家を支配するのが普通です。
平民から鬼道で民衆を迷わす女性卑弥呼が女王として選ばれたり、
男王を立てると混乱したので卑弥呼の宗女である壱与を擁立して安定させたり。
これらの事件は父系制の社会では通常起きません。
何故なら支配者の正当性は男系の子孫が引き継ぐからです。
王は多くの側室を娶って子を多く作り、跡継ぎがなくなる事が少ないからです。
従って魏志倭人伝が記す倭人の社会とは母系制だったようです。
倭の五王の時代でも、
王権が子ではなく弟に引き継がれる事が多かったのも、母方の血筋が重要視されたためではないでしょうか。
それに羅州永洞里の古墳から発見された人骨のDNA解析からは、
羅州の王家の人骨は母親の遺伝子を引き継いでいる事が解明されています。
以上の事から、倭人の社会は母系社会であったとするのは根拠があります。
母系社会では血筋を引き継ぐ世継ぎが数多く作れないため、
王になる者の正当性問題が引き起こす政治的混乱が頻繁に発生したと考えられます。
そのため長期的に安定した王朝を作る事ができず、国家は混乱を繰り返していたのではないでしょうか。
古代日本の社会は倭人社会の影響を受けていますか?
日本社会も平安時代の中ごろまでは、
「うつほ物語」などで描写されているように、
母系社会の特徴である「妻問婚」が行われていたようです。
平安時代の和歌がロマンスばかりなのも、この妻問婚の風習が原因かもしれません。
また、高句麗でもこの妻問婚が行われていたようです。
日本社会は縄文社会の伝統を受け継いでいたという説もありますが、
大陸を起源とする倭人社会の伝統を受け継いだと考えた方がうまく説明できるのではないでしょうか。
神武天皇の母の「玉依姫」と神武天皇の祖母の「豊玉姫」は姉妹であり、
豊玉姫は海の怪物「和邇」であったとされます。
この「天皇家の母方の祖先は近親相姦であり、しかも怪物だった」という記述は、
現代人にとっては何が主張したいのかさっぱり理解できません。
しかし母系社会では母方の血統が重視される事を考えれば、
天皇家の祖先が「海神」の正統なる血統である事を主張したかったのかもしれません。
日本の「国生み」神話で特筆すべきは、その赤裸々で奔放な性描写です。
原初の日本社会ではセックスがタブーではなかったのは間違いありません。
タブーどころか男女の体の違いについて詳しく説明し、
セックスのやり方まで丁寧に教え、それが正しい行為である事を説明しています。
このような逸話を伝える事で古代人に性教育を行い、セックスを奨励していたのではないでしょうか。
それに比べると、「中国神話」においては、セックスはほぼタブーです。
人類は「女媧」が泥をこねて作った物だし、
伏羲の母は大きな足跡を踏んで身籠りました。
セックスが描写される事はありません。
中国神話だけでなく、聖書においてもやはりセックスはタブーであり詳しく描写される事はありません。
原始社会では「結婚」などという概念は存在しませんでした。
確かな親子関係とは母子関係だけであり、母系社会はむしろ原始社会では普通でした。
母系社会では父親が誰かはあまり重要ではないので、セックスは自由だったようです。
セックスについて語るのがタブー視されるのは、父親が誰かを問題とする父系社会の特徴です。
女性は他人の子供を身籠らないように、貞操を守る必要があるからです。
日本の国生み神話は、日本の文化の原点が母系社会である事を示しているのではないでしょうか。
3. 任那に関する質問
日本という国号が使われる以前に「任那日本府」など存在するはずありません。「任那日本府」は捏造ではありませんか?
この推論には「任那日本府」の「日本」は国号が決定される以前には使われるはずがない、
という暗黙の前提があります。
この主張をする場合、暗黙の前提の理由を説明しなければなりません。
国号として正式には「日本」が使われていなかっただけで、通称として使用されていた可能性もあります。
従って「日本」という単語が使用されている事を理由に「任那日本府」が捏造であるとするのは、
論理の飛躍があります。
日本書紀では「日本」も「倭」も「やまと」と読ませています。
また、旧唐書では「日本国」は「倭国」の別種であると記述されています。
国号として使われる前の「日本」とは、単に倭人を表す別名であったのかもしれません。
それに「日本」の語源は「日の出づる処」という意味だとされていますが、実際には定かではありません。
「日本」という国号は、「任那日本府」で使われた「日本」という名称が語源となっている可能性も有るのです。
「任那日本府」とは何だったのですか?
「任那日本府」とは何かを理解するには、まず「任那」とは何かを理解する必要があります。
その上で「日本府」とは何かを考える必要があります。
「任那」と「日本府」は全く異なる概念です。
中国、朝鮮の史料における「任那」とは加羅を含まない限られた地域を指し、
地名としては使われるのみで具体的な歴史事件の記述はありません。
「任那」や「日本府」についての詳しい歴史記述は日本書記にしか存在しないので、
ここでは任那をいわゆる日本書記に記された「広義の任那」と考えます。
その場合の任那とは朝鮮半島南部にあった小国家群の総称です。
具体的には加羅(から)、安羅(あら)、
斯二岐(しにき)、多羅(たら)、卒麻(そらま)、古嵯(こさ)、子他(した)、散半下(さんはんげ)、乞飡(こちさん)、稔礼(にむれ)、
喙己呑(とくことん)、南加羅(ありひしのから)、卓淳(とくじゅん)、
久麻那利(こむなり)、上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あろしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)、己汶(こもむ)、滞沙(たさ)などの地域です。
これらの地域は次第に百済、新羅に併合されていったので、
時代によって「任那」が意味する地域は異なります。
「日本府」とは歴史書にはどのように記述されていますか?
日本書記には次のような記述があります。
-
464年 高句麗に攻め込まれ新羅は任那王に助けを求め、
日本府の行軍元帥(いくさのきみ)を新羅に派遣し、高句麗軍を撃破した。
-
541年 安羅、加羅、卒麻、散半奚、多羅、斯二岐、子他の官らと任那日本府の吉備臣が百済に赴き、
新羅によって滅んだ喙己呑(とくことん)、南加羅(ありひしのから)、卓淳(とくじゅん)等の任那諸国を復興せよという詔(みことのり)を聖王から聴いた。
-
544年 喙己呑、南加羅、卓淳などを復興させるために百済が開催しようとした「任那復興会議」に対し、
任那も日本府も乗り気ではなく、あれこれ理由をつけて責任者が参加せず、会議は開催されなかった。
-
544年 百済の聖王は、日本府の執事である河内値(かわちのあたい)が、
安羅(あら)に置かれた日本府の官吏である親新羅派の阿賢移那斯(あけえなし)、
佐魯麻都(さろまつ)らの言いなりになっていると日本へ上表した。
-
548年 百済は、安羅と日本府が高句麗と通じていると日本へ上表した。
-
552年 百済王、加羅王、安羅王、日本府の臣が使いを送り、高句麗と新羅が同盟して攻めてくるので助けてほしいと援軍を求めた。
-
553年 新羅は高句麗と共謀してまず安羅を攻略し、
日本からの援軍の道を絶とうとしているので早く助けてほしい、と百済が援軍を求めた。
-
554年 任那の保護に熱心だった(野望があったとも言う)百済の聖王が管山城の戦いにおいて戦死。
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562年 加羅、安羅、斯二岐、多羅、卒麻、古嵯、子他、散半下、乞飡、稔礼が新羅に滅ぼされ、
任那は滅亡する。
-
日本はその後数度、新羅に軍を派遣してその度に任那を奪い返す。
しかしその度に支配は続かずに、結果として新羅に敗れて撤退する。
日本書記に記述される任那の歴史はこのように具体的、現実的で瑣末な事件も多く記されており、
何らかの目的のために捏造したような内容ではありません。
日本書記編集者が知らなかった三国遺事や好太王碑に登場する「加羅」や「安羅」についての記述も存在するので信憑性が有ります。
それに任那が援軍を求めた時期は新羅によって滅亡する直前で史実と符号しており信憑性が有ります。
これらの地域は「伽耶諸国」と呼ばれる、新羅や百済とは独立した地域であった事が考古学的にも確認されており、
考古学的にも信憑性が有ります。
しかしながら任那日本府について、中国及び朝鮮の歴史書には一切記述がなく、
それを理由に捏造だとする意見もあります。
他の史書と比較できない以上、日本書記の記述をどう解釈するかが問題となります。
しかし史料批判をして日本書記の記述をあれこれ疑っても真実にはたどり着けそうにありません。
ここではその記述は100%正しいと仮定して考える事にします。
「任那日本府」とは結局何だったのでしょうか?
「日本府」とは何だったのかは、諸説分かれています。
「領事館のような出先機関であった」、「任那における倭人の連合体であった」などの説がありますが、
どれも有力な説ではありません。
しかしながら、上の記述からは「日本府」の実体について、次のような推測が可能です。
-
日本府とは軍隊を持つ組織であった。
-
「任那王」とはどのような人物かは不明(加羅王か?)だが、日本府は「任那王」の命令に従う組織であった。
-
日本府は任那全体を支配する組織ではなく、任那における指導的な立場にもなかった。
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日本府と日本には政治的なつながりがあった。
-
日本府と安羅は関係が深く、安羅には日本府の官吏が置かれていた。
日本からの半島諸国への援軍は、安羅を経由して送られた。
安羅とは伽耶諸国の一つで、百済が新羅と対向するために重視した国家である。
咸安郡のあたりにあったとされる。
-
「日本府」とは安羅、加羅、卒麻、散半奚、多羅、斯二岐、子他などの国々と同じようなレベルの存在であった。
これらを念頭に置いて、一つ仮説を立ててみましょう。
「任那日本府とは任那と呼ばれる諸国の一国であり、日本が影響力を持っていた国である」と。
実際に軍事的に支配していたかのかもしれませんし、
単に軍事的、経済的に支援していた国家だったのかもしれません。
そのような国家が朝鮮半島において存在した場合、存在できる場所は巨済島だけです。
何故ならば、巨済島を支配していない国は日本と自由に往来できないからです。
「任那日本府とは日本との深い関係が有った巨済島の国家だった」と仮定すると「任那にある日本の府」という意味で、「任那日本府」という名称は適切です。
任那日本府が朝鮮の歴史書に記述が無い理由も説明できます。
数ある任那諸国の一つに過ぎず、特に重要な国家ではなかったので、敢えて記述する必要が無かったと考えられます。
そもそも中国、朝鮮の史料に現れる任那の国はわずかであり、
三国遺事に比較的詳しく記された「加羅」の他には、
「安羅」くらいのものです。
それに対して日本書記には日本府について非常に詳しい記述がされていたのも説明できます。
日本は朝鮮半島に関する情報を全てこの日本府から得ていたと考えられるからです。
また、安羅と日本府が特別な関係にあった理由についても、安羅が日本府の隣国であったからだという合理的な説明が与えられます。
日本府は小国で、半島諸国との交流は隣国の安羅を経由して行われていたと仮定すれば、
安羅に日本府の役人が存在した事も説明できます。
通説では巨済島は「沙都嶋(さとのしま)」とされていますが、
頻繁に往来すべき場所であるにも関わらず記述があまりにも少なすぎます。
しかし日本府が巨済島であったとすれば、巨済島に関する記述が無い理由も説明できます。
安羅が陥落すれば日本からの援軍が役に立たないという主張も説明できます。
このように仮定すれば、日本書記の任那日本府の記述は全てスッキリと説明できるのではないでしょうか?
常識的に考えれば、古代日本が対馬海峡を越えて朝鮮半島を支配したという話は非現実的です。
しかし任那諸国は新羅と対抗するために、日本府の存在を積極的に歓迎していた事が日本書紀の記述から導かれます。
そう考えていけば、朝鮮半島に日本府が存在できた理由も自然な成り行きとして説明できます。
4. 百済に関する質問
「百済遼西経略説」はデタラメではありませんか?
「宋書」、「梁書」などの南朝系の史書には、
「西晋の時代に高句麗が遼東を略有すると、百済も遼西の晋平二郡を占領して、百済郡を置いた」
という記事があります。
もし「宋書」の記事は信頼できないとすれば、「宋書」の「倭の五王」の記事も信頼できなくなります。
それに「通典」に至っては「晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間」というように、百済が経略した遼西の晉平二郡の具体的な場所までも明示しています。
このように多数の史書に具体的に記述されている事件を疑う理由とは一体何故なのでしょうか?
その理由とはこの記述を肯定すると、「楽浪郡平壌説に問題がある」という結論が導かれるからです。
三国史記では百済を建国したとされる温祚王が帯方(遼西)の故地から馬韓の地に大勢で海を越え(百家済海)て「慰礼城」に遷都したとされています。
304年には「百済の汾西王が楽浪の西県を奪取したが、10月、楽浪太守の放った刺客によって殺害された」という記録もあり、
三国史記には百済が西晋の時代に遼西に進出したという記録が残されています。
遼東半島にいた百済が、その故地である遼西地域に進出したというのは極めて自然な流れであり、「百済遼西経略説」を疑う理由は特にないでしょう。
百済の場所はどのように変遷したのですか?
百済史年表にも記されていますが、三国史記には、次のように百済の場所の変遷が記されています。
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3世紀末か(不明)温祚王が帯方(遼西)の故地から馬韓の地に大勢で海を越え(百家済海)て「慰礼城」に遷都。
三国史記では紀元前の建国だが、晉書では290年頃まで馬韓が朝貢していた記述がある。
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372年に近肖古王が「漢山」に遷都した(移都漢山)。
三国史記に現れる「漢山」、「漢山城」、「漢城」は全て同じ場所だとされている。
「漢城」の場所はソウルとされているが、定かではなない。
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475年、3万の兵を用いて攻めてきた高句麗の長寿王の軍隊に首都漢城を落とされ、蓋鹵王をはじめとする王家は全員殺され、百済は一旦滅亡した。
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475年、新羅にいた百済の太子が熊津において文周王として即位し、百済王朝を存続させる。
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490年、南斉書によると北魏が数十万騎で百済を攻めたが、
百済王牟大が撃退。
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538年 聖王、泗沘に遷都し、国号を南扶余と号す。
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660年 唐、新羅連合軍の攻撃により、泗沘において百済滅亡。
百済の歴史は「慰礼城時代」及び「漢城時代」の「前期百済」と、「熊津時代」及び「泗沘時代」の「後期百済」に分けられます。
百済の記述はどうして混乱しているのですか?
楽浪郡平壌説を仮定した場合、百済は平壌より南に存在しなくてはなりません。
従って、百済が平壌より北より存在した歴史を消去する必要があります。
そのために楽浪郡平壌説は以下のような工夫をしています。
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前期百済と後期百済は「西晋と東晋の違い」くらい大きな違いがありますが、その違いを教えない。
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前期百済のさらに前期である、「慰礼城時代」の百済については「信用できない」として歴史から消去する。
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「漢山」、「漢山城」、「漢城」などが使われているが「漢城」のみを強調し、漢城はソウルであるとする。
ソウルは山城でもなければ、3万程度の軍隊で包囲殲滅作戦など不可能な場所であるにも関わらず。
-
「漢城時代」から後期百済の前期である「熊津時代」への遷都は、まるで高句麗に破れたから都をソウルから少し南に移しただけのようにし、「前期百済」と「後期百済」の違いをごまかす。
このように改竄して、朝鮮半島南西部にあった「後期百済」が最初から存在したように見せかける事により、
百済から平壌以北の領土を消滅させています。
学校で習う百済の歴史とは475年以降「後期百済」だけです。
しかし中国史書には「前期百済」と「後期百済」がまとめて記されています。
この全く違う二つの王国を混同する事によって、歴史書の百済の記述はサッパリ理解できなくなっているのです。
中国史書の中でも、比較的早い時代に成立した「宋書百済伝」(沈約, 441-513)及び「魏書百済伝」(魏収, 554)に関しては、
475年以前の「前期百済」のみに関して記述しています。
また「南斉書」を記した蕭子顕(487-537)も、ほぼ同時代の人物です。
歴史学者達はこのような同時代の史料の事を「一級史料」と呼んで信頼しています。
「宋書」と「魏書」の両書の「前期百済」に関する記述は「後期百済」とは全く混同しておらず、
これらの記述は極めて貴重です。
それ故に「宋書」の「百済遼西経略」の記述や、
「南斉書」の「北魏が数十万騎で攻めてきたが撃退した」という記述は、
「前期百済」の位置を考える上で極めて重要な記述です。
また「魏書」の「百済が小海の南にあった」という記述も、
「前期百済」の位置を考える上で極めて重要な記述です。
これらの史書が信用できない、というのは歴史学者達が「前期百済」と「後期百済」を混同しているからに過ぎません。
歴史研究者にとって「歴史の真理」の研究に重要なのは、「一級史料」の調査のはずです。
しかし日本の歴史学者達にとっての「歴史の真理」とは、
「一級史料」の中にではなく「楽浪郡平壌説」の中に有るのでしょう。
楽浪郡平壌説に合わない歴史書の記述など、「一級史料」であろうがなかろうが、信用してはいけないのです。
しかし、このように「一級史料」を無視する割には「宋書倭国伝」の「倭の五王」の記録については、
絶大な信頼を置いているのは不思議なものです。
遣唐使が如何に困難な事業であったかを理解すれば、
日本列島の国家がわざわざ弱体な南朝の宋、斉、梁に何度も朝貢するなどありえない事は自明なはずなのですが。
百済建国の地である「慰礼城」はどこにあったのですか?
馬韓の跡地に建国した「慰礼城」の場所について温祚王は「河南の地で、北に漢水を帯び、東は高岳が占め、南は沃沢を望み、西は大海が阻む、天険の地の利がある得がたい場所だ」と述べています。
定説では「慰礼城」と「漢城(漢山)」は同じとされ、ソウルのあたりとなっています。
しかしソウルはそもそも海に面していません。
それにそれは楽浪郡平壌説に基づいて高句麗の「平壌城」を平壌と仮定して比定しています。
もし「平壌城」が遼陽市であったとすると「慰礼城」や「漢城」の場所も全く変わってきます。
隣国である北魏の史書「魏書」百済伝には百済の場所は「小海の南」とあり、
高句麗は「小海の北」にあったと記されています。
地図を見てみると、「小海」と呼べるような海域は渤海以外に考えられません。
「魏書」が示す百済の場所は遼東半島です。
「宋書」の「百済遼西経略」についての記述も、前期百済が遼東半島にあったとすれば極めて自然です。
「南斉書」の「北魏が数十万騎で百済を攻めた」という記述も、百済が遼東半島にあったとすれば極めて自然です。
百済は馬韓の跡地に建国されましたので、馬韓の位置も遼東半島となります。
従って、百済建国の地である「慰礼城」は歴史的に遼東半島の中心地であった場所とするのが妥当です。
現在こそ港湾設備のある大連がその中心地となっていますが、
遼東半島の歴史的な中心地は金州でした。
金州は北には「北大河」、
東には大黒山、
南には大連、
西には渤海と、三国史記の「慰礼城」の記述にピッタリではありませんか。
高句麗王都が遼陽市だとすると、475年に長寿王が3万の兵を率いて滅ぼしたとされる百済の「漢城」の位置も、遼陽市からそれほど遠くない場所にあったと考えら得ます。
日本書紀においては、逸書である「百済記」の記述を引用し、長寿王が7日7晩包囲して陥落させた百済の王都は「漢城」ではなく「尉礼」としています。
百済記も日本書紀も成立は三国史記よりもはるかに古いので、日本書紀の記述は信用できるでしょう。
「漢山」とは「尉礼」と呼ばれる場所にあり、それは「慰礼城」とほぼ同じ場所であると考えられます。
遼陽市から3万の兵を率いて長寿王が親征できる場所で、
包囲殲滅戦が可能な山城であり、
金州の近くにある山。
「漢山」の場所とは、即ち「北に漢水」を持つ「大黒山」の事だったのかもしれません。
百済には他には大きな謎がありますか?
「南斉書」に記述されている「北魏の百済攻撃」は本当なのかという謎と同時に、
「南斉書」に登場する百済王、「牟都」と「牟大」とは誰なのかという謎も存在します。
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475年 高句麗の長寿王の軍隊に首都漢城を落とされ、
蓋鹵王をはじめとする王家は全員殺され、前期百済は滅亡
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480年(南斉書)百済王牟都を鎮東大将軍に任命
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481年(三国史記新羅)高句麗・靺鞨が狐鳴などの7城を奪う
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488年(資治通鑑)北魏が百済を攻撃したが、百済に破れた
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490年(南斉書)北魏が数十万騎でまた百済を攻めてきたが、百済王牟大が撃退した。百済王牟大を鎮東大将軍に任命
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494年(三国史記新羅)薩水(清川江)の河原で高句麗に敗北。百済の東城王が3千の兵とともに救援
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495年(南斉書)百済王牟大が朝貢
このように三国史記においては前期百済が滅ぼされた勢いに乗って高句麗が新羅を攻撃します。
このような風雲急を告げる朝鮮半島情勢の最中に、
「南斉書」では北魏と戦い斉に朝貢する謎の百済王「牟都」と「牟大」が記録されているのです。
三国史記において480-495年に支配していた百済王とは東城王です。
そのため、三国史記では百済王「牟大」を東城王だとし、
牟大の業績を含めています。
しかし「南斉書」では480年に朝貢したのは百済王「牟都」であり、
しかも「牟大」は「牟都」の孫だと記されているのです。
三国史記では「南斉書」の「牟都」の該当者が記録には存在しないと記しています。
「南斉書」が同時代の歴史書であり、「三国史記」はその600年後に編纂された歴史書ですので、
記述が合わない場合に疑うべきは「南斉書」ではなく「三国史記」の方でしょう。
「後期百済」はこの時期、混乱の極みにあり南朝の斉に朝貢する余裕などなかったはずです。
恐らく「前期百済」は475年には完全には滅亡しておらず、
別の百済王を立ててしばらく存続した後、
北魏と高句麗によって滅ぼされたのではないでしょうか。
「後期百済」にはつながらないこれらの百済王についての記録はそもそも朝鮮側には残っておらず、
「三国史記」の編集者達には誰の事なのか理解できなかったのかもしれません。
ちなみに「通典」においては北魏の百済攻撃と牟大王についてさらに具体的に記述されています。
後魏孝文遣眾征破之。後其王牟大為高句麗所破,衰弱累年,遷居南韓地。
北魏の孝文帝は軍を送りこれを征破する。その後、牟大王は高句麗にも破れ、積年衰弱し、南韓の地へ居を移す。
これによれば前期百済が本当に滅んだのは475年ではなく「牟大」王の時代であった事を疑う余地はないでしょう。
牟大は南韓の地へ逃れ、
東城王として君臨した可能姓もありますが、
本当はこの二人は別人で、
三国史記の編集者が混同していると考えた方がもっともらしい説明となります。
前期百済の滅亡時期は不明ですが、
孝文帝の在位期間は499年までなので、遼西の百済は495-499の間に滅亡したと見られます。
高句麗の朝鮮半島へのその時期の攻勢を考えれば、遼東半島の百済もほぼ同時期に滅亡したと見られます。
いずれにしろ、「北魏の百済攻撃」とは同時代の南斉書に具体的に記述されているだけでなく、
資治通鑑や通典という複数の歴史書にも具体的に記述されています。
これだけでも前期百済の位置が「南韓の地」ではなかった事は、疑う余地はないでしょう。
「日本語の起原は百済語だ」という主張は本当ですか?
百済の王統は扶余ですが、北史百済伝にはその民族構成は新羅、高麗、倭などが混在し中国人もいると記されています。
それに梁書百済伝には言語、服装などは高句麗とほぼ同じと記されています。
これらの史書が示す百済とは他民族国家で、共用の言語は高句麗語と似た言語だったようです。
即ち「百済語」なる言語は存在しなかったとみられます。
ただしこれらの中国史書は後世の唐代に成立した史書で、
「前期百済」と「後期百済」をまとめて記述しています。
他の史書などを参考にして「前期百済」の言語について記述した可能性があります。
聖王以降の百済の中心であった泗沘は朝鮮半島南西部地域であり、倭人の居住地域だったはずです。
安定した王権を作る事に失敗した倭人達は、百済王の支配を受け入れたのではないでしょうか。
支配民を失った名門の王家と、安定した王家を作り出せない倭人達は絶妙の組み合わせです。
6世紀以降では朝鮮半島から「倭国」は消滅し半島南西部は「百済」の支配地域となります。
しかし、後期の百済の実態はもはや倭人国家だったのではないでしょうか。
日本語の起原は朝鮮半島南西部にいた倭人の言語であった可能性があります。
即ち「日本語の起原は百済語だ」という主張は、実は正しいのかもしれません。
言語が同じであったとすれば、日羅のように古代日本人が百済において高級官僚になれた理由も理解できます。
倭人が百済に服属したという根拠は他にありますか?
6世紀前半の三国史記及びその他の歴史史料による朝鮮半島情勢は以下のようになっています。
475年 新羅にいた百済の太子が熊津において文周王として即位し、新羅の保護の下で百済王朝を存続させる。
476年 (日本書紀)百済王家一族が滅んだので、任那の久麻那利(コムナリ)を文周王に与え百済を救う。
500年 倭の新羅への最後の侵入。頻繁に侵入していた新羅への倭の侵入記事はこれ以降、突然消滅する。
502年 (梁書)倭の南朝への最後の朝貢。梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。歴史文献における倭国の最後の記述。
502年 百済の武寧王が即位(-523)
512年 百済の武寧王、高句麗に大勝利
513年 (日本書紀)任那の上哆唎(オコシタリ)・下哆唎(アロシタリ)・娑陀(サダ)・牟婁(ムロ)の四県を百済に割譲。「この4県は百済に連なり、日本から隔たれているので百済に任せた方が良い」
514年 (日本書紀)任那の己汶(コモム)・滞沙(タサ)を百済に割譲
521年 (梁書)武寧王が朝貢。「度々高句麗に破られ衰弱したが、高句麗を破り百済は再び強国となった。」
523年 武寧王が崩御し、聖王が即位。
盗掘されなかった武寧王陵は韓国の至宝となる。
532年 任那の金官国が新羅に降伏。
538年 聖王、泗沘に遷都し、国号を南扶余と号す。
541年 聖王、任那復興会議を開催する。
553年 新羅が百済から漢江流域を奪う。これまで皆無であった新羅と百済の激しい戦争が始まる。
554年 百済の聖王と伽耶の連合軍が、
管山城の戦いにおいて真興王の新羅軍に殲滅され、聖王は戦死する。
562年 最後に残った任那の大伽耶が新羅に滅ぼされ、任那は滅亡する。
高句麗と戦闘を続けていた倭国が突然、弱体な百済亡命政権によって滅ぼされるのは不自然です。
それに弱体だった後期百済が武寧王の時代になると、高句麗に勝利する強国に突然変身するのも不自然です。
任那が戦争もせずに突然割譲されるのも不自然です。
聖王が遷都して国号を由緒ある「百済」から「南扶余」に変更するのも不自然です。
倭と新羅との戦争が、倭が滅亡したという説明もなく突然消滅するのも不自然です。
そして百済と新羅の激しい戦争の記事が突然始まるのも不自然です。
しかし倭人達が百済王を王として戴き、「南扶余」という新国家を作ったと仮定すれば、
この時期の朝鮮半島の謎に包まれた情勢が、全てスッキリ説明できるのではないでしょうか。
倭王武の死と共にまた始まった倭の後継者問題。
しかし、彗星のように現れた武寧王の下に結集した倭人達は高句麗に大勝利を収める。
倭人達は武寧王に心酔し、百済王を王として戴く事で長年の後継者問題に終止符を打つことに合意した。
何か、ありそうな話ではありませんか。
百済と日本が友好関係にあったのは、どちらもほとんど同じ言葉を話す倭人国家であったからではないでしょうか。
こう考えていけば、日本書紀に百済や任那の記事が異様に多く含まれている事も説明できます。
そして古代日本が百済復興作戦に対し、現代人には理解不能な程の異様なレベルで深く関わった理由も説明できるではありませんか。
七支刀はどう説明するのですか?
よくわかりませんが、「七支刀」も年号を468年と仮定してみます。
もしかしたら滅亡直前の前期百済の蓋鹵王が、倭王に助けを求めて送った物なのかもしれません。
王仁(わに)博士は百済から來た中国系の人ですか?
「古事記」にも「日本書記」にも王仁が中国人だというような記述はありません。
王仁の子孫達が、「祖先の王仁は漢の皇帝の末裔だ」という反証可能性の無い説を出しただけでしょう。
楽浪王氏の子孫だという説にも、正当化できるような根拠は何もありません。
古事記では「和邇吉師」(わにきし)と記述されており、
「わに」という発音の当て字と考えるべきです。
それにネイティブの人間は文法も発音も全く考える事なく自然に読み書きするのが普通です。
中国語を外国語として教える高い技術を持っていた王仁博士は、
中国人ではないと考えるべきです。
5. 辰韓と新羅に関する質問
隋書によると新羅は漢の時の楽浪の地であると記されています。楽浪郡は朝鮮半島に存在したのではないですか?
3世紀に成立した三国志においては、辰韓は馬韓の東に存在する小国であったと記されています。
そしてその馬韓は帯方郡の南に存在し、その帯方郡は楽浪郡の南に存在したと記されています。
従って辰韓は、三国志においては楽浪郡とは全く別の場所に存在した国家です。
辰韓から出たとされる新羅が、漢の時の楽浪の地であるはずがありません。
もっとも辰韓は楽浪郡によって分割されたという記述がありますので、
これを基に「新羅は漢の時の楽浪の地である」という記述がされた可能性はあります。
新羅が初めて中国に使節を送ったのは、
羅済同盟が成立していた521年に武寧王が梁に朝貢した時に、
百済の使節に随行したのが初めてです。
その梁の歴史書である梁書には、
新羅は辰韓から出たという記述があるだけで、
楽浪郡との関連を示す記述は存在しません。
しかし北魏が滅亡した後の北朝の北斉の歴史書である北斉書には、
新羅王は何故か565年に「楽浪郡公」に任命されています。
それまで「楽浪郡公」は高句麗王に対する称号として使われるのが普通でしたが、
斉は高句麗王を「遼東郡公」に任命しました。
斉にとっては「楽浪郡公」とは単なる東夷の王の称号の名前の一つだったのではないでしょうか。
新羅人は、歴史書の記述を基に自分達の祖先は漢の楽浪地域から來たと自称していたはずです。
そして北斉時代に新羅王が「楽浪郡公」に任命されていた事から、
北史や隋書が成立した唐の時代には、
そのような言説が生み出されたのではないでしょうか。
いずれにしろ唐代の歴史家が北史や隋書において記した「新羅の地は漢の楽浪郡の地である」という記述は、
三国史記の編集者達を混乱させたに違いありません。
辰韓が平壌にあった事を立証するような考古学的発見は何かありますか?
辰韓が平壌にあった事を直接立証するような考古学的発見は現在のところ存在しません。
しかし平壌近郊の「貞栢洞1号墳」で「夫租薉君」の銀印が発掘されました。
「薉」は「ワイ人」を意味し、「君」は君主や王族を意味します。
これは平壌の地が前漢時代には濊王が支配する土地であった事の実証となります。
そして新羅は辰韓の斯蘆国が出たとされています。
もし新羅誕生の地が濊王の支配する土地であった事を考古学的に示す事ができれば、辰韓が平壌からそれほど遠くない場所にあった事を間接的に立証できるでしょう。
そして三国史記によると第二代新羅王の南解次次雄の時代に、
田を耕していると「濊王印」が発見されたので献上した(北溟人耕田 得濊王印獻之)と記録されているのです。
新羅の最初の王都「金城」はどこにあったのですか?
新羅は長い間小国で、中国には独自に使節を送る事ができませんでした。
そのため古い中国の歴史書には新羅はほとんど登場しません。
6世紀以前に成立した比較的古い歴史資料(好太王碑、宋書、南斉書、梁職貢図)に記されている初期の新羅とは倭に支配される国家であり、
三国史記においても倭に頻繁に侵攻されていた事を隱してはいません。
初期の新羅の具体的な位置は不明ですが、
これらの歴史資料が示す位置は高句麗、百済、倭に囲まれた地域にあった場所です。
辰韓と金城の位置を平壌と仮定すればこれらの全ての歴史資料を矛盾なく説明できます。
平壌が倭に占領された時に、
新羅が北の隣国である高句麗に助けを求めたのも合理的な説明が与えられます。
「楽浪漢墓」や「夫租薉君印」、「濊王印」などの考古資料も全て矛盾なく説明できるのではないでしょうか。
三国史記では楽浪郡が百済や高句麗に攻め込んだ記述はありませんが、何故か新羅だけは別です。
倭が100隻の船団で攻めて來たために応戦している間に、
新羅の首都である「金城」が楽浪郡によって占領された記事が南解次次雄の時代に記されています。
中国側から水軍を派遣できるような場所に存在し、
王都に相応しい場所に位置する都市の候補はそれほど多くありません。
しかし「金城」を平壌と仮定すれば、この攻撃も現実的に可能であると説明できます。
もしかしたらそれは、
卑弥呼の時代に倭と楽浪郡の共同作戦によって辰韓が分割された事件の記録なのかもしれません。
その事件が三国史記に記された時代とは1世紀ですが、百済の建国時期も中国史書とは合っていないし、
そもそも新羅の歴史がそんなに古いはずがないと言われています。
いずれにしろ平壌は首都を置くのに相応しい土地であり、
鉄鉱山が付近にある事から鉄が豊富に存在したとされる辰韓の場所にピッタリです。
新羅発祥の地が北朝鮮であれば、平壌に王都を置くのは自然です。
しかも高句麗の「平壌」が現在の平壌ではないとすれば、
平壌のように王都を置くべき都市に該当する重要な地名が、
三国史記には「金城」以外に出て来ないのです。
平壌はいつ頃、高句麗の手に落ちたのです?
三国史記によれば、この時期の朝鮮半島の状況は以下のようになっています。
475年 長寿王により百済王都は陥落し、蓋鹵王をはじめとする王家は全員殺される
476年 新羅は王都を明活城(慶州)に移す
494年 新羅、薩水(清川江)の河原で高句麗に敗北
500年 新羅の金城の井戸において龍が現れる
507年 高句麗が靺鞨と共同で百済の漢城(ソウル)を攻めようとしたが、
武寧王の百済軍に迎撃されて引き返す
少なくとも494年までは新羅は清川江を支配していたと見られます。
平壌が高句麗の手に落ちたのは、500年から507年の間と見られます。
以後、三国史記から「金城」に関する記事は消滅しました。
金城が陥落したという記事が存在しない事から、
「龍が現れた」というのが暗に陥落した事を意味しているのかもしれません。
いずれにせよ金城を平壌と仮定すれば、金城に関する記事が消滅した理由も説明できます。
北魏と安定した外交関係を築いた高句麗の南下政策によって
百済は滅亡して朝鮮半島南西部へ、新羅は朝鮮半島南東部へ移動させられました。
しかし高句麗が友好関係を築いた北魏は523年の六鎮の乱によって衰亡が始まります。
高句麗の北部は以降、
突厥、隋、唐等の勢力が騒がしくなり、朝鮮半島への圧力は弱まります。
そして新羅と百済による朝鮮半島南部の覇権を巡る壮絶な争いが始まりました。
これでようやく我々が歴史教科書で習った朝鮮半島の歴史が始まったのでしょう。
楽浪郡平壌説を否定するだけで謎に満ちていた朝鮮半島の歴史が、
このようにスッキリと説明できるのです。
6. 「邪馬台国論争の真相」に関する質問
「邪馬台国が日本列島には存在しなかった」という説の根拠とは何ですか?
「邪馬台国が日本のどこかに存在した」という歴史仮説の歴史学における根拠とは、
「楽浪郡が平壌に存在した」という歴史仮説だけです。
そして「楽浪郡が平壌に存在した」という歴史仮説の歴史史料における根拠とは、
「楽浪郡治が置かれた王険城の場所は、高句麗の平壌城の場所と同じである」という歴史書の記述だけです。
当然のように教えられている「邪馬台国が日本のどこかに存在した」という歴史仮説の歴史史料における根拠とは、
「高句麗の平壌城は現在の朝鮮半島の平壌に存在した」という暗黙の前提の上に成立しています。
しかしながら歴史書が示す高句麗の平壌城とは、
それは朝鮮半島の平壌にではなく満州の地に存在した都市でした。
暗黙の前提が間違っていたのです。
それが意味する所は、
「楽浪郡が平壌に存在した」という歴史仮説には、
歴史史料に記された根拠が一切存在しないという事です。
楽浪郡が朝鮮半島に存在した根拠が無い以上、
楽浪郡の南にあった帯方郡が朝鮮半島に存在したという説にも根拠が有りません。
邪馬台国への行程の出発地である帯方郡が朝鮮半島に存在した根拠が存在しない以上、
倭人伝に記された邪馬台国への行程は、全て朝鮮半島内で説明できます。
対馬海峡を越えた記述が存在しないのです。
これが「邪馬台国が日本列島には存在しなかった」という説の歴史史料における根拠です。
記紀においても、
卑弥呼も壱与も、
天皇家側としても敵側としても、何の記述もありません。
考古学的にも3世紀の日本列島のどこからも、
邪馬台国が存在した根拠を示すような遺跡は全く見つかりません。
歴史学的にも考古学的にも、「邪馬台国が日本列島に存在した」という仮説には根拠が一切ありません。
また現実の対馬海峡の海況を考慮すれば、
倭の30ケ国が中国と通じていたとか、
対馬住民が南北に穀物を買出しに行ったとか、
中国の郡使が対馬海峡を往来していたとかいう倭人伝の記述には、
現実性が全くありません。
科学的観点からも「邪馬台国が日本列島に存在した」という歴史仮説は成立しません。
要するに「邪馬台国が日本列島に存在した」という歴史仮説は、
根拠が一切存在しない「ウーズル」に過ぎません。
世間では「不都合な真実から目を背け、都合の良い物語を史実にしようとする人達」の事を「歴史修正主義者」と言うそうです。
歴史とは自然科学と違って実験で再現する事ができません。科学的方法で史実には辿り着けないのではありませんか?
ドイツの歴史学者レオポルト・フォン・ランケは法則性の論証を優先して史実を乱雑に扱う進歩史観に反発し、その反動として徹底した実証主義的証明に基づく近代的な研究方法を確立し、歴史学を科学に高めました(実証史学)。
「ただ事実を記すのみ」としたランケの実証史学は欧州史学界に大きな影響を与え、今日の歴史学の基礎とされています。
このように歴史学が追求すべき「真理」とは政治的真理、道徳的真理、実用的真理などではなく、自然科学と同じ「客観的真理」です。
確かに歴史学は実験で再現ができませんが、だからと言って検証方法が無いわけではありません。
歴史資料の史料価値の検証、
歴史記述の実現可能性(PotentialityとActuality)の検証、
他の事件との整合性の検証、
仮説が予言(演繹)する現象が起きたかどうかの検証など、
様々な科学的な検証方法が存在します。
歴史問題はむしろナショナリズムや政治的立場、メディアなどの影響による認知バイアスに強く影響されやすい問題です。
それに仮説に対する執着が非合理的なまでに強化される現象が起こりやすく、
合理的な思考を妨げる認知バイアスや誤謬の種類は、自然科学の場合よりもはるかに多いのです。
歴史学こそが科学的思考と検証が最も必要な学問であり、間違いなく人文「科学」の一つです。
歴史学では自然科学と違って実験で再現できず、
確かに歴史仮説が「正しい」事を学問的に完全に証明する方法は存在しません。
歴史学では「史実を確定」しているわけではなく、
「最適の説明」とは何かを議論しているだけです。
このように歴史学では史実を完全に証明できないのですが、多くの者達は少し勘違いしているようです。
歴史仮説が「間違い」である事を学問的に証明する事は可能なのです。
もちろん、実験など必要ありません。
例えば「蒙古軍は鎌倉幕府を滅ぼした」という歴史仮説が間違いである事は、
学問的に証明する事ができます。
鎌倉幕府が蒙古軍が来襲した後にも継続していた事を、
学問的に立証できるからです。
それと同じように「邪馬台国が日本列島に存在した国家だった」という歴史仮説が間違いである事は、
学問的に証明が可能です。
「歴史家はその着眼点を第一にかれこれの時代において、人間が如何に考え、如何に生活したかというところに置かなければならない」と述べたのは、
ランケでした。
歴史家は、ランケの教えの通りに着眼点を置かなければなりません。
当時の中国人の地理認識や航海技術に着眼すれば、
3世紀の中国人が対馬海峡を越えて日本列島と交流したという仮説は現実的には有り得ない事が、
科学的に証明できるのです。
邪馬台国が朝鮮半島に存在したとは常識的に考えられません。間違いではないのですか?
「人間はつねに、自分に理解できない事柄は何でも否定したがるものである。」と述べたのは、
フランスの哲学者ブレーズ・パスカルでした。
そして「大事なことは、君の頭の中に巣くっている常識という理性を綺麗さっぱり捨てることだ。
もっともらしい考えの中に新しい問題の解決の糸口はない。」と述べたのは、
アメリカの発明王トーマス・エジソンです。
百年経っても問題解決の糸口さえ発見されないという事実に向き合えば、
既存の常識の延長には解決方法が存在しない事は一目瞭然です。
「捨て去るべきは常識の方である」というのは、むしろ自然な流れです。
楽浪郡が平壌にあったのは常識です。朝鮮半島説は間違いではないのですか?
「私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。」と述べたのは、
フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーでした。
「楽浪郡が平壌にあった」と信じる事によって、
日本人は邪馬台国論争の迷路に閉じ込められてしまったのです。
百年間解決しなかった問題が簡単に解決するとは考えられません。間違いではないのですか?
「長いこと論争している場合は、たいてい彼らは何を論じ合っているのか彼ら自身分からなくなっている証拠である。」と述べたのは、
フランスの哲学者ヴォルテールでした。
また、「自分が得意だと思っていることに溺れるな。物事の本質を鋭く透察する心を持て。」と述べたのは、
オーストリアの経営学者ピーター・ドラッカーでした。
邪馬台国論争が百年間解決しなかったのは問題が難しいからではありません。
それは日本人が問題の本質が何なのか、理解していなかったからです。
邪馬台国が朝鮮半島に存在したと言うと皆が怒り出します。間違いではないのですか?
「人を怒らせるのは真実である」ということわざがイギリスにはあるそうです。
皆が怒り出すのは、それが真実である事の証と考えるべきです。
「真理を尊重するならば、腹背に受難を予期すべし。」と述べたのは、
イギリスのジャーナリストダニエル・デフォーでした。
真実を語った途端、前からも後ろからも刺される可能性があるから気をつけろ、という意味です。
邪馬台国朝鮮半島説など主張する人は他におりません。間違いではないですか?
インドの政治指導者マハトマ・ガンディーも、
「たとえあなたが少数派であろうとも、真実は真実なのです」と述べています。
主張する人が他にほとんどいないのは、それが間違いである事の証にはなりません。
ポリティカル・コレクトネスに注意を払い、
その結果として皆がダチョウになってしまった、という可能性を考えるべきです。
邪馬台国が日本に存在しなかったと聞くと悲しくなります。何かの間違いではないのですか?
「知識は悲しみである。多くを知る者は、怖ろしき真実を深く嘆かざるを得ない。知識の木は生命の木ではないから。」と述べたのは、
ブレーズ・パスカルでした。
例え悲しい知らせであっても、真実は真実なのです。
我々は真実に向き合い、前を向いて生きていかなくてはなりません。
邪馬台国とは日本人にとって夢の国です。朝鮮半島説などを主張して恥しくないのですか?
「何が真実かを探求することは、何が好ましいかを探求することではない。」と述べたのは、
フランスの哲学者アルベール・カミュでした。
また、「真理は喝采では作れない。是非は投票では決められない。」と述べたのは、
イギリスの歴史家トーマス・カーライルです。
それが例え人々が望まない結果であろうと、真実は真実なのです。
「真実のない生というのはあり得ない。 真実とはたぶん、生そのもののことだろう。」と述べたのは、
チェコの作家フランツ・カフカでした。
また「人生の意義は偽を憎み、真を愛することを学ぶにある。」と述べたのは、
イギリスの詩人ロバート・ブラウニングでした。
嘘を愛し真実を憎む者達は、結局のところありのままの世界を受け入れる事ができません。
その結果、この現実世界に生きている事の意義を見つける事ができなくなってしまいます。
「現実を直視する心に、本当の理想が生まれる。」と述べたのは、
ドイツの文豪ゲーテでした。
現実を直視しない理想とは、それは妄想にすぎません。
だから現実世界で生きて行くべき我々には、
真実を探求し、真実を抱き、真実を語る必要があるのです。
真実を語る行為とは、恥しい行為などでは決してありません。
7. 「邪馬台国論争の真相」の禁忌に関する質問(著者紹介)
「邪馬台国論争の真相Q&Aその2」において説明します。
「邪馬台国論争の真相」を応援したいのですが、どうすれば良いですか?
参考となるページをここに用意しました。
このページのタイトル、サブタイトル、本文及び応援メッセージを好きなように変更し、
あなたのホームページに貼り付けてみて下さい。
この画像は魔除けとしても使えるかもしれません。
或いはネット上の質問コーナーにおいてここで言及されている内容が本当なのかどうかを質問したり、
ネット上の公開ブックマークにおいて「邪馬台国論争の真相」のウェブページのどれかを登録するのも良いかもしれません。
面白くて役に立つ「認知バイアス一覧で社会心理学入門」等がおすすめ。
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これで、あなたのウェブサイト上にも「邪馬台国論争の真相」を展開できます。