邪馬台国論争の真相と正当化の概念が無い日本社会
〜It isn't that they can't see the solution. It is that they can't see the problem.〜
暁 美焔(Xiao Meiyan) 社会学研究家, 2021.2.6 祝3.5版完成!
未だに解決しない邪馬台国と大和朝廷との関係。現状のどの説も魏志倭人伝への次の疑問に答えていない。
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南に邪馬台国の女王の都まで水行10日、陸行1月は方角、行程共に不自然ではないか?
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南に投馬国に至るには水行20日とあるが、南に船で20日行く場所など見つからないではないか?
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女王国の東海上千余里にある倭種の国を説明できないではないか?
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その南の女王国から4千里、と方角と距離が具体的に記述された侏儒国(小人の国)など全く説明できないではないか?
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東南水行1年の裸国、黒歯国も、全く説明できないではないか?
これらの問題を全て解決し、邪馬台国論争の真相に到達し、日本社会には正当化の概念が無い事を発見し、日本人には論理的思考ができない理由も解明した。
東沃沮(よくそ)は北朝鮮から沿海地方のあたりに存在した国家である。あまりなじみの無い魏志東沃沮伝であるが、実は非常に興味深い記述がある。
中国人は当時「黄海」の事を「大海」と呼んでいた。では、「日本海」の事を魏志東夷伝ではどのように呼んでいたのであろうか?
これこそが日本海呼称問題の原点だ。
「東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に有り、大海に沿って暮らす。」
答えは「大海」である。さらには次のような記述もある。
「海東にも人がいるかどうかを古老に問う。古老が言うには数十日流された漁師が島に上陸すると言葉が通じなかった。そこでは7月に童女を海に沈めると言う。また、海中に女だけで男はいない国が有ると言う。」
この海の先に何があるか。誰も知らないので古老に聞いてその伝承を記したのだ。日本海を単に「大海」と呼んで特別な呼称を使用しなかったのは、要するに日本列島の存在など知らなかったからだ。
「倭人は帯方郡の東南の大海中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国。漢の時朝見する者有り、今、使訳通ずる所三十国。」
有名な倭人伝の冒頭のこの一文は現代人の感覚で読めば間違いなく日本列島に関する記述だと考えるであろう。しかし、当時の地理認識では「大海中の山島」に相応しい場所は他にもある。中国人が日本列島の存在を知らなかった以上、むしろそこしか無い。東西も南も「大海」に囲まれた山と島、それは朝鮮半島だ。このような説は詭弁だとか暴論だとか思われるかもしれない。しかし日本列島を「大海中の山島」と呼ぶためには実は日本列島の存在だけでなく太平洋の存在までも知っていなければならないのだ。海東に何があるかわからない状況で、南方だけは太平洋まで知っていたという可能性があるだろうか。仮に知っていたら黄海や日本海を「大海」と呼ぶだろうか。太平洋や日本列島の存在を常識としない古代中国人の感覚で読めば、「大海中の山島」は朝鮮半島しかない。
邪馬台国に相応しい土地を地図上で探してみよう。邪馬台国が存在したのは、そこから東方海上1千余里に倭人の地がある場所だ。そのような場所は一ヶ所しか存在し無い。それは朝鮮半島南部であり、東方海上の倭人の地とは対馬の事である。倭国の外交拠点で事実上の首都だった伊都国は後の王朝の首都があった開城か漢城付近と考えるのが自然だろう。南に邪馬台国の女王の都まで水行10日、陸行1月は方角的に正しいし、行程にも合理的な説明が与えられる。朝鮮半島西南を回るよりも早いためか、西南部は敵対勢力に支配されていたのだろう。南へ水行20日の投馬国に対応する土地も確かに存在する(伊都国からの道程は放射説を仮定している)。対馬の南の女王国から4千里の場所には縄文人形態の低身低顔型人種が住んでいた壱岐島(資料1)があり、侏儒国に相応しい。東南に水行1年の裸国、黒歯国が何を意味するかは言うまでも無いだろう。倭人伝の記述と何もかも一致するばかりでなく、金印が出土した博多(志賀島)が
倭人の極南界であるという認識については考古学と文献が完全に一致する。
百済と高句麗を滅亡させて朝鮮半島を統一した新羅は、長い間倭の属国であった。新羅人とその末裔は、統一しても滅亡させられなかった倭人への怨念を受け継いで、現在にいたるまで対馬海峡の向こう側を「倭」と呼び続けて嫌悪し続けた。こうして、いつの間にか「倭」は「日本」を示す言葉に変わってしまったのだろう。
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2.1 九州北岸の地理条件
九州説にしろ畿内説にしろ魏志倭人伝には伊都国に至るまで次のような疑問も存在する。
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壱岐島からの距離は呼子が30km、松浦、唐津が40km、糸島が50km、博多が70km程度しかないが、末盧国まで千余里という距離は長すぎないか?東松浦半島は壱岐島から目に見える距離にあり、距離を間違えるだろうか?
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末盧国住民は山海に沿って魚やアワビを取って暮らし、草木が茂って前を行く人の姿が見えないとある。呼子はともかく、松浦には志佐川、唐津には松浦川の三角州が存在し、
唐津には虹の松原、糸島には糸島平野、博多には福岡平野の平野が広がる。
アワビは海藻の多い岩礁に住む生物で砂浜の生物ではない。
地形的に見れば末盧国に相応しい土地は呼子以外に存在しないのではないか?呼子だとすると距離が短すぎ、上陸後の行程も不自然で、壱岐島から真南にはっきり見える場所にもかかわらず一大国のように方角が記述されていないのは何故か。
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末盧国、伊都国をどこに比定するにしろ、直接伊都国へ水行せず、草木が茂る末盧国に上陸して伊都国まで陸行するのは何故か?
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壱岐島から海流に乗って航行すれば、自然と博多を目指すのではないか。例え唐津湾に入ったとしても目指すのは唐津ではなく糸島ではないか?
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末盧国を唐津、伊都国を糸島か博多とすると伊都国の方角は東南ではなく東北ではないか?地形的にも背振山地を越える必要があり、陸行するのは不自然ではないか?
伊都国までの道程は確定しているように考えている人が多いが、実際には倭人伝に基づいて行程を辿ってみても、伊都国どころか末盧国にさえ辿り着かないだろう。唐津を末盧国とするには、壱岐島からの距離が合わず、地形が合わず、伊都国への方角が合わず、伊都国への行程も不合理なのだ。北部九州の港は玄界灘の荒波に晒されるため、その後の行程を考えても、海の中道によって守られた天然の良港である博多湾に上陸するのが自然な航路だろう。
実際に筑紫館(つくしのむろつみ)も日宋貿易も大陸からの交流の歴史の舞台は常に博多(那大津)であった。
唐津は「大陸への玄関」と言われる事もあるが、
「唐津」(中国への港)の地名が現れるのは豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点としてこの地に名護屋城を建築し、
唐津藩を開始したのが最初であり、秀吉の野望が生み出した地名だろう。
唐津は歴史的に筑前ではなく肥前(佐賀県)に属する地域であり、
唐津街道すら整備されていない3世紀に唐津に上陸してから山を越えて陸行する必要性は皆無で、末盧国を唐津とするのは不可能だろう。
ところが博多を末盧国とすると、地形が全く合わないばかりか今度は末盧国よりも重要な伊都国の場所が無くなってしまう。
唐津、博多以外の場所に上陸して陸行するのはさらに不自然な経路となる。
末盧国が唐津とされているのは単にそこに無いと困るだけの理由であり、実際には末盧国は北部九州のどこにもあり得ない国なのだ。
2.2 壱岐、対馬、朝鮮半島の地理条件
末盧国に辿り着く前にも、次のような疑問もある。
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壱岐島には平地が多い。
気候は暖流の影響で珊瑚礁も存在するほど暖かく過ごしやすい島である。
降水量も多く幡鉾川、谷江川等の農耕に適した河川や湿地、地下水が豊富に有り、豊穣の大地だ。
しかも世界有数の漁場である玄界灘の中にあり、長く伸びたリアス式海岸により豊富な海産物にも恵まれ、さらに外敵からは玄界灘の荒波と対馬海流に守られて古代人にとっては地上の楽園だったであろう。
遺跡の質、量を見ても古代から他の地域を圧倒して繁栄していたことは間違いない。
「自給自足ができる島」として有名な壱岐が一大国とすると何故農地が不足したのか。玄界灘を越えて貧しい南北(特に北方)に穀類を求めて出かけたのは何故か?
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末盧国の人口は一大国より多かったとある。山海に沿って暮らす末盧国の方が壱岐島よりも人口が多いなどという可能性があるだろうか。仮に多かったとしたら、九州北岸に壱岐島のような規模の遺跡が見つからないのは何故か?
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壱岐と対馬の間の海だけを特別に「瀚海」(砂漠という意味)と名づけるのは不自然ではないか?渡海に失敗したら死が待っている、対馬と釜山の間の海峡の方がより重要ではないだろうか?
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対馬の上島と下島は当時陸続きだったにも関わらず、浅茅湾と対馬海峡東水道の間の船越を陸越えした記述が無い。上島西岸北部に到達し、下島南端まで移動して壱岐を目指したはずだ。対馬は巨大な島であり、壱岐島の大きさが方300里であるのに比べ、対馬が方400里というのはあまりにも小さすぎないか。
対馬に辿り着く前でも、次のような疑問もある。
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元寇でも応永の外寇でも、朝鮮半島から対馬へ渡るための集結場所は歴史的に常に巨済島(韓国No.2の島)であった。
閑山島海戦や巨済島海戦の舞台となった場所も巨済島であれば、
露梁海戦などの撤退作戦の拠点になった場所もやはり巨済島だ。
巨済島は、半島に進出するためには必ず確保しなくてはならない交通の要衝である。
これは対馬海流が基本的に東北方向に流れるため、巨済島から対馬を目指す方が確実だからだ。
3世紀でも当然、巨済島或いはもっと西方の南海島(韓国No.5の島)などから渡ったはずである。
狗邪韓国から初めて海を渡って到着した場所が対馬と記述されているが、朝鮮半島から初めて海を渡って行く場所は巨済島であるべきではないか。
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対馬への出発点だった狗邪韓国は「倭の北岸」にあったとされる。
巨済島は島であり「倭の北岸」と呼べる地域ではないのではないか?例え狗邪韓国を泗川などに比定したとしても、果たしてこのような「半島南岸」の上にリアス式海岸の入り組んだ地形である朝鮮半島南部の地域を「倭の北岸」と呼ぶだろうか?
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帯方郡から狗邪韓国までは海岸に沿って南へ東へと記述されている。
朝鮮半島南西部はリアス式海岸の上に潮位差、潮流共に大きい地域であり、2008年保寧の海水氾濫事故のように陸上でも注意が必要な地域だ。海中には暗礁が多数存在し海岸沿いの航行は極めて危険である。実際に野性号の実験(資料2)では何度も座礁した上に、古代船がこのルートを航行するには二ヶ月が必要であるとされた。
南西部を海岸に沿って航行するのは不可能ではないか?
海岸から離れて航行したとしても今度は黄海暖流に逆らう事になりやはり難しいのではないか。
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朝鮮半島南西部の航行は航海技術が向上した元代のジャンク船でも新安沖で難破(新安沈船)しているし、
莞島郡でも高麗船が沈没しており、
泰安郡馬島も高麗船の墓場である。
最近だけでも1993年には扶安郡・蝟島付近でフェリーが沈没、
1995年には麗水市付近でタンカーが事故、
2007年にも泰安半島付近でタンカーが事故、
2014年にも珍島(韓国No.3の島)付近で旅客船が沈没など大規模な海難事故が定期的に発生しており、現在に至っても安心して航海できる海域ではない。
実際に後世の朝鮮通信使は半島内は水行せずに12回全て陸行している。
例え海岸に沿って航行しなかったとしても、暗礁が多く潮流の激しいこの海域を3世紀に郡使が手漕ぎの船で頻繁に往来したという事自体が非現実的ではないか?
末盧国がどこにも有り得ない以上、その先の伊都国も邪馬台国もどこにも有り得ない。それ以前に「豊穣の島」壱岐が貧しい一大国などであるはずがなく、対馬の時点でもう記述が実際の地理的条件と合っていないばかりか、狗邪韓国の記述も不自然な上、狗邪韓国までの航路すら不可能なのだ。
そろそろ気付かれているかもしれないが、倭人伝を読む時には地理的条件やその後の歴史がどうだったか、などは考えてはいけないのである。
何故ならばそのような事を考えた途端、思考を閉ざす壁にぶち当たってしまうからだ。
このような数多くの矛盾を放置してこの先の行程を辿るべきでなく、狗邪韓国までの航路の時点で既に間違っていると考えるべきなのだ。
そうすると必然的に間違っている場所は、帯方郡や楽浪郡の位置となってしまう。
それは歴史学的にも考古学的にも疑う事自体を許されていない場所であり、それ故に倭人伝の謎は解けないのだ。
かつてその場所を疑った資料3の山形氏の説に基づいて帯方郡の場所を営口市付近にあったと考えれば倭人伝の行程は矛盾なく説明できる。
末盧国は甕津半島、一大国はクァイル郡あたりにあったと仮定している。
甕津半島には滅悪山脈の支脈の山海に沿ってリアス式海岸の絶好の漁場がある。
北朝鮮の現況は不明だが、付近の韓国領土である白翎島では現在でもアワビが豊漁である。
一大国は離島であるという記述は無く半島側に存在しても問題無いし、一大国、末盧国、伊都国の位置には様々な可能性がある(龍淵半島を越えるべきでないかもしれない)。
「対馬国」は現存する最古の版である紹煕本では「対海国」とされており、倭を日本と勘違いした後世の誤植であろう。
対海国は宣川郡の身彌島一帯にあったと仮定している。
現代人から見れば奇異な航路であるが、羅針盤の無いこの時代には地形が見えない場所を航行するのは危険な行為であり、これは自然な航路である。
なお、馬韓の西海上の大島にあったという州胡は長興島にあったと考えられる。
帯方郡の場所を山形氏の説に従うだけで、狗邪韓国から侏儒国、裸国、黒歯国までの全ての位置を矛盾なく説明できるだけなく、誰にも特定できなかった州胡の位置まで説明できるのだ。
帯方郡から狗邪韓国まで7000里、狗邪韓国から伊都国まで約4000里、帯方郡から邪馬台国まで12000里という距離も概ね正しいだろう。
2.3 対馬海峡の地理条件
このような説は現実離れした説だと思われるかもしれない。しかし、これこそが実は現実的な説なのである。というのは、朝鮮半島と対馬を隔てる対馬海峡西水道(朝鮮海峡)は単なる海峡ではなく、海の難所なのだ。対馬海流の流軸付近は平均秒速50cmで流れる上、波は荒く転覆の危険が高い。朝鮮半島から渡るのは潮流の上流である西側から渡ればさほど難しくないが、対馬から釜山に渡るのは非常に困難だ。帆船の無い時代では軽量化した船で人力を使用して渡るのであるが、軽量化すると船が転覆しやすくなるので難しい。
対馬を朝早く出発し、潮流、天候、風向、波などの良い条件が無ければ対馬に戻り、条件が揃えば釜山まで一気にこいで夜に到着したと見られる。
後世の日本往還日記では帆走を利用しているにもかかわらず条件が揃うために2週間以上待機している。
3世紀においては力尽きて到着できなければ日本海を遠く流されて生還できない、文字通りの命懸けの航海だ。
日照時間が短かい冬季は成功の可能性は低い。
近代のシーカヤックでは条件が揃えば7時間ほどで到着するカヤッカーの目標とする海路であるが、古代船で郡使や持哀(じさい)などを載せて航行するのは容易ではない。
実際に古代船を復元して対馬海峡を渡ろうとした、なみはや号プロジェクトは見事に失敗した。
金海から対馬に渡ろうとした野性号も、対馬には人力では辿り着けなかったのである。
小型エンジンを付けて対馬海峡を渡ろうとした内閣府職員も生きて辿り着くことは無かった。
黒潮や対馬海流は、
地球の自転が引き起こすコリオリの力によって生成された北太平洋環流の一環として発生する現象であり、
3世紀の状況も現在と変わらない。
この海流の存在こそが日本列島を大陸から切り離し、独自の歴史を歩む事を可能にしてきたのだろう。これを考えれば九州説、畿内説にはさらに次のような疑問もある。
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元寇に先立つ1267年、モンゴルの使臣殷弘・黒的は日本への海路の険しさを見て、「見渡す限り大海原は風浪天を蹴るよう猛り狂っておりました」と報告し、クビライに対して航海の困難を理由に日本への通使の不要を説いた。また日本往還日記では船酔いで嘔吐して転げまわった様子が記録されている。航海技術が向上した後世でさえ、対馬海峡の海流と荒波は一度経験すれば忘れられない思い出となるものだった。倭人伝の航海の記述に海峡越えの苦難が全く感じられないのは何故か。
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生きて朝鮮半島に辿り着く事さえ困難であったはずだ。対馬住民が穀物を得るために南北に物々交換に出かけたという記述は現実的だろうか。一体何を売りに行ったのだろうか。
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この時代に郡使が中国から伊都国まで頻繁に往来することが出来たのは何故か?
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航海には持哀というノミやシラミを持ったままで垢で汚した人間を連れて行き航海に失敗したら殺した、とある。そのような者を連れて海峡を渡ろうとした者がいただろうか。英語には"We are all in the same boat."という表現があるが、海峡を渡海する者達はまさに同じ運命にあり、航海の記述としては相応しくないのではないか。
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日本の歴史上では国内の戦闘状況について中国に報告したり調停を依頼したりした事は他に一度も無かった。この時代に邪馬台国がそれを行ったのは何故か?
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遣唐使は成功率の低い難事業だった。この時代の30ヶ国が中国と通じることができたのは何故か?
帆船も羅針盤も無いこの時代に郡使が対馬海峡を越えて頻繁に往来していたという話や、持哀を連れて対馬海峡を渡海したという話は現実性の全く無い話で、倭人伝に記述された邪馬台国が日本列島内の国家と考えるのは無理があるのだ。対馬海峡の地理条件やその後の歴史がどうだったかを考慮して倭人伝を読めば、倭国の記述が日本列島のものではない事は一目瞭然である。
2.4 倭人伝以外の資料が示す邪馬台国の場所
倭人伝以外の資料にも、次のような疑問がある。
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三国史記新羅本紀では、卑弥呼の使者が新羅に来た20年後に倭人が大飢饉となり千余人の避難民が到来したとある。対馬海峡は飢餓難民が越えられるような海峡だろうか。
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記紀に卑弥呼も壱与も、天皇家側としても敵側としても、何の記述も無いのは何故か。帥升も倭国大乱も記述が無いのは何故か。
倭国は朝鮮半島にあったとすれば、これらも説明がつく。卑弥呼も壱与も、大和朝廷とは敵対関係すら無い人達であり、倭国大乱など遠い異国の出来事だったのだろう。倭人伝以外の資料でも、邪馬台国が日本列島にあったとするのは不自然なのだ。
2.5 考古学的資料が示す邪馬台国の場所
さらに考古学的にも次のような疑問もある。
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30ヶ国が中国と通じていたのに3世紀の日本列島から漢字が出土しないのは何故か?
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倭人の極南界である委奴国の金印が博多から発見されたのは何故か?
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壱岐島以外に3世紀に低身長の人種が居住していた侏儒国の候補地は存在しないのではないか?
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卑弥呼の墓には100人余りの奴卑が殉葬されたとある。この時代に朝鮮半島では殉葬の風習があったのに対し、日本では殉葬の跡が見つからないのは何故か。
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日本国内で100年に渡って発掘し続けたが邪馬台国が全く見つからない理由は何故か?
考古学的にも邪馬台国を日本国内の国家と考えるのは不自然なのだ。
2.6 固定観念を打破しよう
「大海中の山島」は朝鮮半島以外に考えられないし、倭人伝の行程も朝鮮半島を仮定すれば矛盾無く全てが説明できるが日本列島を仮定すればどこにも辿り着かない。
倭人伝に記述されている国家の様子も日本列島の国家としては不可能である。三国史記でも記紀でも、倭国が日本列島にあったとするのは不自然だ。
考古学的にも金印が出土した博多が倭人の旧百余国の中の極南界である以上、倭国の中心はそこより北側にあるべきだし、邪馬台国が日本列島内にあれば、3世紀の日本列島から漢字が出土すべきであるし、殉葬の跡が日本列島で見つかるべきである。
侏儒国の候補地も壱岐島以外には有力な場所は見つかっていない。
即ち文献的にも考古学的にも、全ての資料は邪馬台国が朝鮮半島国家である事を示しており、日本列島の国家だというのは固定観念に過ぎない。
畿内説も九州説も「邪馬台国が日本列島に存在する」という暗黙の前提の下で互いの説を批判する事により成立している。
しかしその前提が成立しない以上、畿内説も九州説も成立する事はない。
そのような結論などあるはずがないと言うのは、
無敵の無知論証であり、
道徳主義の誤謬(忌避すべき結論からの逃避)に過ぎない。
3. 虚構の楽浪郡平壌説 〜Seeking truth in a world of lies〜
邪馬台国が日本列島に存在したはずだ、という根拠は実は楽浪郡が平壌にあったという定説だけである。
しかし邪馬台国が朝鮮半島に存在した以上、定説は成立しない。
定説とは単に楽浪郡が平壌にあったかというような説ではなく、朝鮮半島の歴史を箕子朝鮮から倭の消滅までの数百年に渡って改竄する、壮大な虚構の古代史の基盤となっている説であり、その最大の目的は倭国の歴史を日本列島の歴史に改竄する事である。
絶対に正しいと信じられている楽浪郡平壌説が実際には「破綻した説」である事、並びに邪馬台国論争が実は氷山の一角に過ぎない程の驚愕すべき東アジアの古代史の真実と、古代史改竄の驚くべき手口を説明したいのですが、話が多少難しくなるので、興味のある方は「虚構の楽浪郡平壌説」を参照して下さい。
4. 邪馬台国論争の真相〜The truth hurts, but those lies kill〜
4.1 疑似科学の手法とパンドラの箱 〜The world is full of lies〜
真実の追求には批判的思考に基づいた論理的推論が必要である。
そして固定観念を打破して真相に辿り着くには科学的懐疑主義が必要である。
以降ではこれらの科学的懐疑主義、批判的思考、論理的推論などの科学的な思考方法をまとめて「論理的思考」と呼ぶ。
論理的思考の世界では疑問生成、仮説提案、検証のサイクルが機能して現象に対する理解が深まり、確実に知識が蓄積されていく。
以降では、このサイクルを「知識獲得のサイクル」と呼ぶ。
それに対して論理的思考がされない場合には、知識獲得の進捗は袋小路に陥いる傾向がある。
論理的でない思考方法とは権威主義、
独断主義、
集団思考、
タブロイド思考、
呪術的思考、
精神論、
感情論、
思い込みや
誤謬、詭弁などである。
そしてこれらの他に忘れてはならない非論理的な思考方法の一つに「疑似科学の手法」がある。
邪馬台国論争の真相に到達するためには、この「疑似科学の手法」について理解しておく必要がある。
「疑似科学」にはあまり馴染みがないかもしれない。
簡単に言えば科学的なように見えるが、実際には科学的ではない仮説の事だ。
科学的ではない仮説とは、簡単に言えば「知識獲得のサイクル」が機能していない社会において主張され、しかも真理であるかが疑わしい仮説である。
疑似科学はトンデモ仮説として楽しめる説がほとんどであるが、歴史上では魔女仮説のように惨劇を生み出してきた説も少なくない。
通常であれば単なる都市伝説に過ぎないような仮説も社会的に否定する事が許されなくなると、「知識獲得のサイクル」が停止してしまい疑似科学と化してしまう事がある。
そして疑似科学と化した仮説が権力者によって採用されると社会全体が思考停止状態に陥り、ルイセンコ学説やユダヤ陰謀論、反修正主義、神国思想のように恐ろしい破滅を生み出す、というのが人類が莫大な犠牲を払って歴史から学んできた教訓である。
ところで「疑似科学」のウィキペディアでは何故か日本語版には英語版の冒頭から書かれている重要な記述がされていない。
それが原因かどうかわからないが、疑似科学に関する日本語のページにはやはり大切な事が書かれていない。
もしかしたら英語版には日本人が知ってはいけないことが書いてあるのだろうか。
英語版のウィキペディアを基に疑似科学の特徴及びパンドラの箱がどのように生成されるか、そして人間から思考能力を奪い去り、人類の歴史に悪夢をもたらした恐るべき「疑似科学の手法」とは何かを説明したいのですが、
やはり話が多少難しくなるので、興味のある方は「ニュース事例による疑似科学入門〜ニセ科学批判を通した社会学入門〜」を参照して下さい。
かなり難しくなりますが、「邪馬台国論争の真相」の詳細版に興味がある方はこちらへ
「大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ。」
これはアドルフ・ヒトラーが残した名言だが、
日本社会は学界が創作した壮大な偽史に完全に騙されてしまいました。
邪馬台国は日本だという固定観念が刷り込まれ、
もはや定説は社会的にも否定する事が許されなくなったのです。
古代史へのロマンを打ち砕くだけではありません。
日本語と韓国語の言語類型論的類似性を考えればむしろ説得力がある話なのですが、祖先がそのような場所にいた事は現代の民族感情として受け入れられないからです。
天孫降臨や神武東征の日本神話が受け入れたくない事柄を想像させるためでもあります。
教科書も書き換えないといけません。
このような結論は誰も望んでいないのです。
日本人も韓国人も存在しない頃の話であると言うのに、現代人の民族感情が原因でパンドラの箱の中に邪馬台国は封印されてしまったのです。
これも倭人伝が、解けない謎になってしまったもう一つの理由です。
日本社会は学界に敬意を払い、学界は有能であり間違いは無いと信じ、学界がこの問題を解決してくれる日を心待ちにしています。
しかしそのような日が来る事は永遠にありません。
袋小路に陥った時には、何か大きな間違いをしている事を根本から疑ってブレイクスルーの方法を探すのが学問やビジネスだけでなく人生においても基本的な戦略です。
社会全体が事態打開の戦略を練って真実を追求する事よりも、100年の思考停止状態に安住し、永遠に卑弥呼を夢想しながら人身攻撃やネガティブキャンペーンに溢れた不毛な論争を続けたいのでしょうか。
日本人の創造性がこのような無意味な論争に浪費されてきた事は悲しむべき事ではないでしょうか。
知識(Knowledge)とは、「正当化(Justify)」された真(Truth)なる信念(Belief)であるというのがプラトンに由来する伝統的な概念である(関係図参照)。
「日本人は論理的思考が苦手だ」とも「日本人は社会的影響を受けやすい」とも言われる。
その根本的な原因は日本社会では、プラトン以来の欧米社会の伝統であるこの「正当化という論証作業」という概念が存在しないためであろう。
プラトンの哲学は難解であるが、もし子供にでもわかるように説明するとすれば次のようになるではなかろうか。
ここで言う「駝鳥」とはダチョウ症候群を意味している。
駝鳥仮説 | 答えが見つかる方法(プラトンの教え) | 答えが見つからない方法(駝鳥の方法)論証無視の社会教育 |
ゴール | どんな話が答えなのかを知る | 好きな話を答えに、嫌な話を間違いにする(ダチョウの卵誕生) |
考え方 | どんな話でも、おかしい所がないかチェック | 好きな話におかしい所があっても気にしない(卵を温める) |
答えの決め方 | 誰にもおかしい所が見つけられない話が答え | おかしい話でもみんなが好きな話が答え(みんなで卵を温める) |
答えが出ない時 | 問題の前提に誤りが無いかチェック | 好きな話を生み出す前提は絶対に疑わない(もうすぐ孵化) |
嫌な話を聞いたら | みんなでおかしい所がないかチェック | みんなで無視(プープー)。嫌な話は無い事にする(ダチョウ誕生!) |
嫌な話をする人に | 話のどこがおかしいか、理由を言う | 嫌な話をする人の頭がおかしいと言って怒る(みんなもダチョウにする) |
答えは見つかるか | どんな話でも答えにするのでいずれ見つかる | 答えが嫌な話だとダチョウ達には100年たっても見つからない |
邪馬台国論争が解けないのは単に学者達の無能だけが原因なのではなく、日本社会の深層に潜む病が原因なのだ。
日本社会の病は「答えが見つかる方法」ではなく「答えが見つからない方法」が社会を支配しているところにあろう。
その病の正体とは、「主張」が「真理」である事は「正当化」によってではなく、「全会一致の精神論」によって保証されるという考え方だ。
簡単に言えば「みんながそう考えるようになればそれが真理であり、真理の達成のためには非論理的思考を積極的に使うべきだ」という思考だ。
この思考の下では「好都合の真実」を実現するために多種多様の誤謬が総動員される。
そして「不都合な主張」は当然の如く道徳主義の誤謬によって排除される。
それ故に論証など無視しても考古学的確証だけで邪馬台国畿内説が歴史の真実になると考えるのである。
そして、それが非論理的思考である事は問題にされない。
問題にされないのはマスコミ自体に論理的思考能力や知識人の公正さの概念が欠けているばかりでなく、
マスコミ自体がウーズル効果を利用してファクトイドを生成する不正行為の共犯者であるからだ。
ポール・グラハムは反論の品質レベルを7つの階層に分類した。
- 論点の核心部分について議論する(主張を理解し、有意義な議論を行う)
- 主張の誤りを例を挙げて指摘する(主張を理解しようとし、間違いを証明しようとする)
- 反対意見の理由を証拠を挙げて主張する(主張は理解していないが、その主張の対案を出す)
- とにかく反例を挙げる(主張は理解していないが、有意義な反例となる可能性がある)
- 主張者の論調を批判する(主張は理解していないが、少なくとも主張を聞いている)
- 主張者の人格を批判する(主張を聞いていないが、少なくとも主張者を観察している)
- 主張者を誹謗中傷する(主張者を観察する事も無く、主張を却下)
有意義な議論を実現するとは、この反論の品質レベルを一つでも上げようと努力する事である。
少なくとも5〜7のレベルの議論は誤謬であり、有意義な議論につながる事はない。
そして、そもそも「不都合な主張」を検証しようとする1〜4のレベルの議論の動機を生み出す「正当化」の概念自体が日本社会には存在しない。
日本とは各々が「道徳主義」という誤謬に基づいて都合の良い真理を追求し、
事例証拠の誤用、早まった一般化、虚偽の原因の誤謬などに代表される各種誤謬によって真理であると主張し、
人身攻撃、論点のすり替えなどの誤謬によって論証する者を排斥し、
権威に訴える論証、衆人に訴える論証、伝統に訴える論証などの誤謬によって真理を確定する、「論証敵視の駝鳥の楽園」なのだ。
大多数の人間がそう考えていれば、数の暴力によって人身攻撃(Ad hominem)や誹謗中傷(Name calling)が倫理的に許される社会であり、論証など役に立たない社会なのである。
グラハムの議論の品質における1〜4のレベルの議論は封印されており、
5〜7の最低レベルの議論が、社会的に奨励されているのだ。
これが楽浪郡平壌説が疑われる事のない理由であり、即ちこれが邪馬台国論争が解けない根本的な理由である。
このような社会で育った日本人に論理的思考や水平思考ができず、
認知が歪んでしまい、科学リテラシーが低いのは当然の事である。
これからも日本人は貴重な時間を浪費して永遠に邪馬台国を探し続けるのでしょう。
論争が始まってからもう100年。そろそろ夢から覚め、異端とされている山形説へのパラダイムシフトを図るべき時ではなかろうか。
嘘で塗り固められた歴史など、日本人には不要のはずだ。
もうこれ以上、偽歴史を子供たちに教えるべきではない。
子供たちに教えるべきは人格攻撃によって成立する「全会一致の精神論」ではない。
教えるべきは、批判的思考に基づいた論理的推論の方法であるべきだ。
子供たちに教えるべきは「不都合な可能性からの逃避(駝鳥政策)」ではない。
教えるべきは、不都合な可能性を直視する「正当化という論証作業」であるべきだ。
日本の将来のためにも、子供たちに誤った道を歩ませてはいけない。
社会全体が一致団結して守り続けているパンドラの箱。
封印されている古代史の扉を開け、その中に隠された真実の歴史を子供たちへ伝えよう。
パンドラの箱を開ける勇気を打ち砕くその驚くべき真相。
その真相に比べれば、もはや邪馬台国や楽浪郡の場所すら大した話ではないだろう。
しかもその真相にはアメリカ人作家や他分野の学者達も既に到達しているのだ。
倭国大乱に明け暮れる朝鮮半島。
しかし対馬海峡を越えれば朝鮮半島よりも農耕に適した温暖な土地が無限に広がっている事を知っていた倭人たち。
現代日本人にとっての禁忌とは、古代倭人にとってはむしろ必然だった。
詳しくは子供たちに伝えたい本当の歴史〜邪馬台国の位置と日本人の起源〜を参照して下さい。
6. 禁断の高句麗史と平壌城の秘密〜The truth behind the lies〜
学校で必ず教えられる「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした。」という歴史事件は、
実は根拠など存在しない作り話だ。
「楽浪郡平壌説」とは、いつ、どこで、誰が、何を、何故、どう間違えてしまったのか。
その真相についても説明します。
詳しくは虚構の楽浪郡平壌説Q&Aとその真相〜禁断の高句麗史と平壌城の秘密〜を参照して下さい。
7. 邪馬台国論争の真相Q&A(著者紹介)
「邪馬台国論争の真相」に関する様々な疑問にお答えします。
詳しくは邪馬台国論争の真相Q&Aを参照して下さい。
参考遺跡:大韓民国史蹟450号(泗川・勒島遺跡)、勒島遺跡の画像検索
参考資料1):「壱岐・対馬における縄文・弥生時代人骨の研究」内藤芳篤、六反田篤、分部哲秋、松下孝幸(長崎大学)
参考資料2):「わが心のヤマタイ国—古代船野性号の鎮魂歌」角川春樹
参考資料3):「卑弥呼の正体〜虚構の楼閣に立つ「邪馬台」国 〜」山形明郷
推薦図書:「絶海を渡る : 七丁櫓地舟による朝鮮海峡横断の記録」日韓友好親善の船 編
1) 「社会科自由研究歴史テーマに面白い「現代社会の裸の王様」」はこちらへ(中学、高校生向け)
2) 「歴史の真実に至る議論の方法入門」はこちらへ(一般向け)
3) 「社会学的視点から歴史修正主義を検証する歴史学との統合理論」はこちらへ(一般向け)
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