歴史の真実に至る議論の方法入門
〜歴史認識問題難問解決のための具体策の提言〜

暁 美焔(Xiao Meiyan) 社会学研究家, 2021.2.6 祝3.5版完成!

 「歴史問題は解決しない」と言われていますが、 「歴史の真実」は本来一つしか存在せず、真実が複数ある事はありません。 従って歴史認識問題とは「歴史の真実」を明らかにするだけで本来解決するはずの問題ばかりです。 確かに古代史などでは、 記録されている情報が少ないので「歴史の真実」に近付く事が難しいかもしれません。 しかし現代史では記録が豊富に残されており、「歴史の真実」に近付く事は容易のはずです。 それでは一体どうして日本では「歴史の真実」に辿り着く事ができないのでしょうか?

 ドイツの歴史学者ランケは法則性の論証を優先して史実を乱雑に扱う進歩史観に反発し、 その反動として徹底した実証主義的証明に基づく近代的な研究方法を確立し、 歴史学を科学に高めました。 「ただ事実を記すのみ」としたランケの実証史学は欧州史学界に衝撃を与え、 今日の歴史学の基礎とされています。 このように歴史学とは「史実」という「客観的真理」を追求する学問です。 従って自然科学と同様に「科学」の一種とされています。 本来であればランケが始めた「実証主義的証明に基づく近代的な研究方法」に基いて、 「科学的な方法で客観的真理を追求する」事により解決が可能であるはずなのです。 それでは一体どうして日本では歴史問題に関して「客観的真理」を共通認識にできないのでしょうか?

 「客観的真理」とは、誰かが個人的に決める概念ではありません。 特定の人物や団体に依存する事なく、 誰が検証しても同じ結論に至るような概念こそが「客観的」という単語の意味です。 従って「客観的な歴史」とは政治運動や社会運動で多数決で決定するような概念ではありません。 それは社会的圧力によって合意されるのではなく、 「万人が納得するような透明な議論の結果として合意される」概念です。 それ故に歴史学は「科学」の一種とされているのです。 そしてそのような客観的な真実に至る方法は2千年以上前から「認識論」という学問において、 既に詳しく研究されています。 従って本来であれば歴史認識問題が、 学問的な手順によって解決できないような難問になるはずがないのです。 しかし現実の日本においては歴史認識問題について、万人が納得しているという状況にはありません。 それでは一体どうして日本では万人が納得するような方法で歴史認識を共有する事ができないのでしょうか?

 歴史問題が他の問題に比べて特別な理由とは、 政治的、社会的、倫理的、実用的な要請から生じる社会的な圧力があまりにも巨大である事です。 「都合の良い歴史」を追求する人達の勢力があまりに強く、 客観的な史実を受け入れる事ができない人逹が多過ぎる事です。 そのため、冷静な議論によって歴史の「客観的な真理」を決定するのが困難となっています。 そして日本人はそもそも議論する事に慣れていないので、 「客観的な真理」を追求する議論など、実は誰もしてはいません。 日本において「歴史認識問題が解決できない原因」とは、 即ち「万人が納得するような歴史認識を共有する事ができない原因」と同じです。 その原因は非常に単純で、 「正しい」とされている歴史認識が「万人が納得するような透明な議論の結果として合意されていない」からです。 これが歴史認識問題が解決しない本当の理由なのです。

 ここではその問題を乗り越えて万人が納得する透明な議論の方法で歴史認識問題を解決するための、 認識論に基いた「歴史の客観的な真実に至る議論の方法」を提言します。 そしてこの提言に基いた議論を行う事により、 歴史認識論争の未解決の超難問が一瞬にして解決できるという具体例を示します。 「歴史認識問題とは、解決する気さえあれば解決できる」という実例を示します。

1. 議論を禁止しない

 「客観的な真実」に至る議論をするためには、とにかく議論を始めなければいけません。 議論を始めなければ、 「万人が納得するような透明な議論の結果として合意される」べき「歴史の真実」に到達する事などできるはずがありません。 これは学問だけでなくすべての問題について当然の事なのですが、 歴史問題においてはこれを実践するのが難しいのが現状です。 具体的には、以下のような歴史仮説の議論を政治的、社会的圧力によって禁止してはなりません。 「歴史の真実に至る議論」をするための最初の難関は「議論を始める事」なのです。

2. 議論する意思を持つ

 議論をする事が禁止されない環境が実現できただけでは、「議論を始める事」はできません。 次に注意すべき事は、議論をする意思を持ち、議論をしない理由を探さない事です。 議論をする意思が無ければ議論が始まる事はありません。 議論をしなければ、歴史の真実に到達する事などできるはずがないのですから。 具体的には、以下のような誤謬を理由にして議論を回避してはいけません。

3. 議論から逃げない

 議論をする意思を持つようになっただけでは、「議論を始める事」はできません。 次に注意すべき事は議論から逃げない事です。 議論から逃避した場合、歴史の真実に到達する事などできるはずがないのですから。 具体的には次のような社会的な現象や圧力に負けない事です。

4. 議論において詭弁を使わない

 最初の難関である「議論を始める事」を突破する事により、 ようやく議論のテーブルに着く事ができました。 しかし、テーブルに座っているだけでは真実に至るような議論は始まりません。 次の難関とは意図的な誤謬、すなわち「詭弁を使わない事」です。 詭弁が飛びかう議論において、客観的な真実に至る事などできるはずがありません。 これも学問だけでなくすべての問題について当然の事なのですが、 歴史問題においてはこれを実践するのが難しいのが現状です。 詭弁が許されてしまった場合、ニセ歴史が史実として確定されてしまう危険性が高いでしょう。 詭弁に騙されないためには、具体的には以下のような行為に注意する必要があります。

5. 議論を混乱させない

 次に注意すべき事は議論を混乱させて無意味な議論をしない事です。 本質に関する議論に到達させないように時間を稼ぐ行為は詭弁の一種であり、 意味のない議論をどれだけ重ねたところで歴史の真実に辿り着く事などできません。 具体的には以下のような項目に注意しなくてはなりません。

6. 議論において人格を批判しない

 次に注意すべき事は論敵の人格を批判しない事です。 人格批判は都合の悪い歴史仮説を主張する相手にされますが、 人格批判を用いても歴史の真実に辿り着く議論などできるはずがありません。 人格批判は誤謬の一種であり、これを意図的に行う行為は詭弁の一種です。 具体的には以下のような項目に注意しなくてはなりません。

7. 主張の根拠を示す

 次に注意すべき事は「主張の根拠を示す事」です。 根拠を示さない主張は誤謬の一種であり、これを意図的に行う行為は詭弁の一種です。 根拠のない主張をどれだけ検討しても時間を浪費するだけで、真実に辿り着く事はありません。 具体的には以下のような論証をしてはいけません。

8. 主張の確かな根拠を示す

 主張の根拠を示して詭弁のない議論ができるようになっただけでは、 単に意図的に都合の良い歴史仮説を史実にしようとする者逹を排除しただけです。 これだけでは「歴史の真実に至る議論」を始める事ができません。 客観的な真実に至る議論を始めるための次の難関とは、 「主張の確かな根拠を示す事」です。 即ち、意図的ではない誤謬を排除する事です。 確かな根拠のない主張を検討したところで、真実に辿り着く議論にはつながらないのですから。 これも学問だけでなくすべての問題について当然の事なのですが、 歴史問題においてはこれを実践するのが難しいのが現状です。 信頼性の無い証言、物証、虚偽情報などに対して疑問を持つ必要がありますが、 多くの者逹は自分の主張に都合の良い確証に対して疑問を持つ事がないからです。 具体的には以下のような論証を用いて主張をしてはいけません。

9. 議論の結果を受け入れる

 「主張の確かな根拠を示す事」という難関を突破する事で、 ようやく客観的な真実の追求に向けての意味のある議論ができるようになりました。 しかしここには「歴史の真実に至る議論」を始めるための最後にして最大の難関が待ち構えています。 それは「議論の結果を受け入れる事」です。 即ち、人々が政治的方法、社会的方法などの議論の結果以外の方法で史実を決めようとしないようにする事です。 何故ならば客観的な史実とは政治的に決定したり、 圧倒的多数を持って社会的に確定するような概念ではないのですから。 これも学問だけでなくすべての問題について当然の事なのですが、 歴史問題においてはこれを実践するのが難しいのが現状です。 社会的な方法で史実を確定した場合、 都合の良いニセ歴史が史実として確定されてしまう「歴史修正主義に陥る危険性が高い」でしょう。 人々が議論の結果を受け入れる事ができないようでは、そもそも議論などしても無意味です。 「歴史の真実に至る議論」など実現できるはずがありません。 具体的には以下のような社会運動によって歴史を確定しようとする勢力には屈従せず、 客観的真実を求めて毅然として立ち向かう必要があります。

10. 客観的真理は何かを議論する

 歴史問題の議論とはこのレベルに到達して、ようやく歴史の真実に至る議論が始まります。 歴史問題以外の学問の議論は、ほぼ全てがこのレベルから議論が始まっています。 「歴史問題が解決しない」理由とは、 このような議論ができるように至るまでの難関があまりにも強固な事でしょう。

 確かな根拠を示して議論ができるようになった場合、 真実に至るために次に注意すべき事は「客観的真理は何かを議論する事」です。 複雑な歴史事象を科学的知見を持って整理し、 実証的、科学的な方法で歴史仮説を徹底検証する必要があります。 客観的真理の追求には、以下のような態度が必要です。 これは学問としては当然の事なのですが、歴史問題においては実現はやはり困難なのです。 そして客観的真理を追求するための方法論については「認識論」において、 詳しく研究されています。 認識論はなかなか難解な学問ですが、 簡単に言えば「主張の理由付けが正しいかどうかをチェックする事」と、 「より単純でかつ、より広範囲の事実を説明できる主張を正しいとする事」によって間違いを排除します。 そして間違った主張が正しいとされてしまうのは、主に次の4つのいずれかの原因です。
  1. 論証の過程に誤謬が使用されてされている
  2. 理由付けに「正当化されない前提」が使われている
  3. 理由付けの否定につながるような重要な「事実」が考慮されていない(仮説が正しければ当然起きるはずの事象が発生していない等)
  4. さらに事実を広範囲に説明できる、より重要な「仮説」が考慮されていない
このような誤りに陥らないようにするためには、 確証だけに安住する事なく仮説が現実世界と関連している事を確信するための「正当化論証」を行う事が「認識論」が提言するチェック方法の基本です。 素人にも分かり易い方法としては、以下のような項目をチェックする事です。
  1. 確証の説明に認知バイアスの影響がないか
  2. 仮説に実現可能性(PotentialityとActuality)が有るか
  3. 仮説が他の事実と整合するか
  4. 仮説から演繹される結果が正しいか
これは歴史問題に関して特別な話ではありません。 客観的真理を追求する議論の方法に関する書籍は数多く出ていますので、 ここでは重要な項目のみを紹介します。

11. 公開の場で公正な議論をする

 客観的真理は何かを議論できるようになった場合、 歴史の真実に至るために次に注意すべき事は「公開の場で公正な議論をする事」です。 公正な議論の方法については正に「学問とはどうあるべきか」というテーマです。 全ての学問に共通する「科学的方法」に関する書籍は数多く出ていますので、 ここでは学問の基本中の基本である、重要な項目のみを紹介します。 公開の場で公正な議論をしない限り、 「万人が納得するような透明な議論の結果として合意される」事が実現できるはずがありません。 これらは学問としては当然の事なのですが、歴史問題においては実現はやはり困難なのです。

12. 柔軟な発想をする

 ほとんどの問題は客観的真理が何かを公正に議論すれば解決できるはずです。 それをしても歴史の真実に到達する事ができない場合があります。 歴史の真実に至るために最後に注意すべき事は「柔軟な発想をする事」です。 「検証する方法が存在しない」と簡単に諦めず、間接的方法で検証するなどの対策を考案する必要があります。 垂直思考だけでなく「水平思考」の戦略を持ち、柔軟な着想をする必要が有ります。 そして「反証的発想法」をする事により、 問題が「擬似問題」である事を疑ってみる事です。 即ち、既に確定したと信じられている前提が、 以下のような「ファクトイド」である事を疑ってみる事です。 これも学問としては当然の事なのですが、歴史問題においては実現はやはり困難なのです。

まとめ

 以上で述べた内容簡単にまとめれば「歴史の真実に至る議論」をするためには、以下の項目に注意する事です。  ここで述べて來た項目は客観的真実に至る議論のための「常識的」な項目を並べただけで、 特別に新しい方法を述べているわけではありません。 本来はこのような議論をするだけで歴史認識問題は紛糾する事なく解決します。 日本社会に解決しようとする意思さえあれば、すぐに解決するはずの問題ばかりです。 しかしご存知の通り、ここで述べたような議論の方法が採用される事は日本社会では有りません。 即ち、歴史認識問題が解決しない本当の理由とは「日本社会には、歴史問題を解決しようとする意思がない」からです。

 以下においては歴史問題が不毛論争になる仕組みをさらに詳しく説明します。 「歴史の真実に至る議論」において必要となる、 「歴史仮説の検証すべきチェック項目」についても詳しく説明します。 更にニセ歴史を判定するための「トンデモ歴史検出キット(偽史ホイホイ)」を示します。 そしてその検出キットを活用し、ここで示した議論の方法を実践する事により、 「歴史認識問題の超難問でさえも、解決する気さえあれば簡単に解決できる」という実例を示します。 最後に「日本社会には、どうして歴史問題を解決しようとする意思がないのか」というその本質的な原因を説明する「楽園仮説」を説明します。 「歴史問題は解決しない」という深刻な現状に永遠に終止符を打ち、 日本という国家を歴史問題の軛(くびき)から解放するための第一歩となる事を祈ります。

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