ニュース事例による疑似科学入門
〜疑似科学の評定の具体例及び問題点〜トンデモ研究の見分け方〜レポートの資料に最適!
〜ニセ科学批判を通した社会科学入門〜考える力が身につく!

暁 美焔(Xiao Meiyan) 社会学研究家, 2017.6.8

 「疑似科学」とは簡単に言えば科学的ではない主張の事だ。 科学的とは簡単に言えば事象の観察から始まる疑問生成、仮説提案、検証のサイクルが機能して、現象に対する理解が確実に深まっていく思考である。 ところで「疑似科学」のウィキペディアでは何故か日本語版には英語版の冒頭から書かれている重要な記述がされていない。 それが原因かどうかわからないが、疑似科学に関する日本語で書かれたウェブサイトにはやはり大切な事が書かれていない。 その上日本語のウェブサイトには何故か「疑似科学とは定義が曖昧だ」とか、 「科学と疑似科学の境界線は曖昧で、一致しない事で悪名が高い」とか、 「疑似科学」という概念自体に興味を持たせないような記述が数多くされている。 それどころか、「科学の手法とは、実験結果が再現できること」などという誤った記述さえされている。 もしかしたら英語版には日本人が知るべきではない事でも何か書いてあるのだろうか。

 多くの日本人は科学と近代文明を関連づけて考えているようだが、それは自然科学が近代文明を生み出したからそう錯覚しているだけである。 科学的思考の本質とは知識を得るための方法論であり、その対象は自然科学だけではない。 そもそも、科学的思考とは自然科学とはそれほど縁の無い哲学者達が編み出した思考方法であり、 自然科学だけを念頭において考え出されたわけではない。 歴史学や社会学などが「人文科学」、「社会科学」と呼ばれているは、これらの学問が本来「科学」の対象であるからである。 そして疑似科学を生み出すのは人間の思考が本来持っている誤りやすい傾向である。 「科学」とは何か、そして「疑似科学」とは何かについて本当に理解するためには、哲学や社会学の知識は避けて通れないだろう。

 以下においては英語版のウィキペディアを基に疑似科学の特徴及びその手法とは何か、そして疑似科学によって生成される「パンドラの箱」について説明する。 次に、日本では曖昧にされてきた「科学と疑似科学との区別」とは何かを分かり易く明確に説明する。 そして「科学的思考」とは一体何なのかを分かり易く明確に説明する。 次に日本社会全体が疑似科学に汚染され、科学的思考が排除されている事を説明する。 最後にそれを説明するために、ニュース事例を利用した疑似科学の分かり易い具体例を示す。 そして、疑似科学である事の評定方法を具体的に提示し、社会人が身につけるべき「科学リテラシー」とは何かを示す。 これまで社会科学とは疎遠であった科学技術系のための、良き「社会学入門」となる事を祈る。

 以下の説明は具体的な例を念頭に置いた方が分かり易いので、いくつかの疑似科学の疑いがある仮説を前もって挙げておく。
  1. 日本は神々に守られた不滅の国である(神州不滅
  2. ユダヤ人の秘密結社が世界を支配しようとしている(シオン賢者の議定書
  3. 革命は修正主義者によって失敗の危機にある(修正主義批判
  4. あの女は魔女である(魔女狩り

1. 疑似科学の特徴

 ある主張が疑似科学かどうかを判断する上で重要な特徴を以下に示す。 これだけの特徴が揃えば、テレンス・ハインズが提唱した疑似科学の判断基準を既に満たしている。 主張者が立証責任を自覚して積極的に正当化を試みれば、試行錯誤の末に物事への理解が確実に深まっていくはずだからだ。

 疑似科学とされている仮説の多くは、単にこれらの特徴を持つだけの仮説である。 確かにこれだけでは「証明されていない仮説」と疑似科学との線引き問題は注意が必要だろう。 しかし疑似科学による仮説を守ろうとする勢力が強くなると、次章で説明するような「疑似科学の手法」を使うようになるので、疑似科学の判定は困難ではない。

2. 疑似科学の手法とパンドラの箱

 反証可能性の無い説は、反証されない間にその説を信じた者たちが暴走してしまう事が多々ある。 そして後に戻れない一線を越えてしまった時、 信者達は埋没費用の誤謬(コンコルド効果)に囚われるようになる。 埋没費用の誤謬とは、これまで費やした費用、時間、人命などが無駄になる事への恐怖から起きる認知バイアスの一種である。 これに囚われてしまうと、仮説を否定する事は強い「認知的不協和」を引き起こすようになり、不協和を低減させるための強い圧力が生じる。 特に「生理的に受け付けない」程の巨大な不協和のマグニチュードを持つ主張や証拠に接した時には「嫌悪の知恵」(Wisdom of repugnance)と呼ばれる拒否反応が現れる。 例えば目標を達成するために仮説に依存した何らかの「理念」を打ち出し、 その「崇高な理念」を実現するために卑怯な手段を取る事を正当化した場合にそれは起きる。 自我を脅かすような主張や証拠に対しては「否認」と呼ばれる「防衛機制」が働き、 それらの主張や証拠は「自己欺瞞」というプロセスを通して否定される。 この過程においては、客観的真理を追求するための「合理的な理由付け」を行う事ができなくなり、「動機のある理由付け」や「感情による理由付け」を行うようなる。 そしてそれまでに行ってきた行為を正当化するために非合理的な判断をするようになり、関与をエスカレートさせる。 即ちそこに開けてはいけないパンドラの箱が形成される。 反証可能性の無い説はパンドラの箱を生みやすいのだ。 一旦パンドラの箱が形成されると、その信者達は本来の目的を見失って箱を守る事自体が目的と化す(バックファイヤ効果)。 そして論証されていない仮説を守るために使われる非論理的な手法、即ち以下のような「疑似科学の手法」を使うようになる。 前述の疑似科学の特徴を揃えた上に、以下のような現象を見た時は、その仮説は疑似科学であると判断して良いだろう。  疑似科学の重要な特徴は「確証のみに基づき論証は不十分で、主張の根拠には反証可能性が無い」事である。 その「パンドラの箱を守る」ための疑似科学側の基本戦略とは「立証責任を果たさないまま、異論を許さない」事だ。 そしてその戦略を実現するための戦術である「疑似科学の手法」の本質とは、「社会的影響によって疑問生成、仮説提案、検証のサイクルという科学的思考を停止させる」事である。 それは具体的には「疑問を持たせない」、「対立する仮説の提案は許さない」、「論証できない仕組みを作る」、「論点をすり替える」、「論証は無視する」、「論証する者を激しく人身攻撃する」などであり、これらが「疑似科学の手法」として現れる。 このような現象を見た時は、その社会はもう既に戻れない一線を越えて斉一性の原理に支配されており、疑似科学に汚染されているのではないかと疑った方が良い。

 「疑似科学の手法」の恐ろしい点は、それぞれの手法が単独では危険な手段には全く見えない事だろう。 しかしこれらの手法が組織的に行われた場合には恐るべき効果を発揮して、社会全体が思考停止に陥いるのだ。 注意していないと、社会が無意識のうちに疑似科学側に転落してしまう危険性がある。 社会的に責任がある者たちには、社会が戻れない一線を越えてしまわないよう常に注意し、社会に対して斉一性の原理に支配されないように警告する義務があろう。 中でも「悪魔化」の現象を見た場合、 その社会には論理的な議論によって暴き出してはいけない禁忌が存在する事の証である。 即ち、悪魔化が蔓延している社会では「モラル・パニック」が起きているのである。

 モラル・パニックについて理解するには、まず「社会的影響の結果、確立された社会規範」について理解する必要がある。 特定の思考や行動様式が登場し、それに飛び付く者が多かった(初期動員数が多い)場合、一過性の流行には終わらず、集団全体を飲み込み、旧型の思考や行動様式に取って代わるという。 社会的影響の結果確立された新しい思考や行動様式は、規範性を帯び、嘲笑や非難により、逸脱者を制御しようとする(自薦の用心棒)。 社会的影響の起源は、自分1人が他者と異なる思考や行動を取る事により、他者から嫌われたくないとの欲求にある。 社会的影響を、納得して採用(内面化)した者は、社会的影響を受けない者・社会的影響を拒む者を嫌うのである。 そうして、自分が他者から社会的影響を受け、思考や行動様式を変えた場合、今度は自分がその社会的影響の同調源となる。 こうして社会に確立された思考や行動様式が、「社会的影響の結果、確立された社会規範(不文律等)」である。

 モラル・パニックとは社会に緊張を起こすような論争の副産物として生成され、 「社会的影響の結果、確立された社会規範」に対する脅威が知覚されたときに、市民運動家・政治家・評論家・メディアなどによって起こされる。 価値体系への脅威が知覚された場合、議論する事自体が社会の敵を擁護するものとしてタブー視される。 規範を破壊しようとする逸脱者民衆の悪魔として悪魔化され、共同絶交される。 マスメディアが生み出すメディアバイアスによってモラル・パニックの参加者に正当性が与えられると、社会は集団心理によって激しい活動に向かって突き進む。 こうなると、公の場で仮説に対して疑問を持つ事自体ができなくなり、社会全体で科学的思考が停止する。 単なる仮説が組織や共同体によって繰り返し主張される事によって強固な信念へと変化する組織的強化に陥ってしまう。 これこそが疑似科学の手法に基づいた仮説によって生成されるパンドラの箱の正体である。 組織的強化によって信念が強固に固まると社会は幻想や偏見に満ちて思考は均一化し、集団思考に支配されるようになる。 集団思考に陥ると「採用しようとしている選択肢の目標を充分に精査せず、またその危険性も充分に検討しない」などの傾向が有り、場の空気に支配されて欠陥のある危険な決定を下す事が多い。 疑似科学の手法に基づいた仮説はマスメディアの庇護の下で制御不能な流れを生みだし、社会に悲劇をもたらすのである。

 それ故にマスメディアの責任は重大であり、社会が組織的強化に陥る事を避けるため、モラル・パニックの参加者に「免状」を与えてはならない。 マスメディアは科学的思考の原点である「疑問を持つ」事を奨励し、科学的思考の核心である「仮説の検証」を重視しなくてはならない。 「悪魔化」を社会から排除するように警告し、 「悪魔への制裁」に加担する事なく悪魔の代弁者を歓迎すべきである。 と同時に「悪魔化」が浸透している社会を見た時は、その危険性を見抜き対処せねばならない。 悪魔化が国家レベルで行われた時、残虐行為の悪循環に陥る(The strategy of demonization of the enemy unavoidably leads to vicious cycle of atrocities)。 外交的解決を不能にし、関係悪化や戦争が避けられない(Demonization of the enemy makes diplomatic solution impossible and inevitably leads into the war or worsening of relations)。 敵を悪魔として描くことで、敵を殺す事にためらいがなくなるのだ(Depicting the enemy as particularly evil inspire feelings that make killings more easy)。 それ故にマスメディアは魔女批判非国民批判ユダヤ陰謀論などのように、組織的強化を引き起こして思考を停止させ、集団思考による暴走で世界に悲劇をもたらした悪魔化を二度と許してはならない。 マスメディアは健全な社会を実現するために、その社会が隠し続ける禁忌の正体を暴かねばならない。 もし、公の場で論争する事自体ができないような話題を見た場合には尚更である。 マスメディアは傍観者精神駝鳥政策を捨てて社会の禁忌を暴き出し、社会を健全化させるように啓蒙すべきだろう。

 中でも国家レベルで「埋没費用の誤謬」に囚われた禁忌は国家を破滅へと導く恐るべき罠である。 これは日露戦争で払った莫大なコストから満州が手放せなくなり、国際連盟脱退日中戦争という「集団思考に支配された欠陥のある」判断を繰り返し、 そして太平洋戦争へと行動をエスカレートさせた過去からも明らかである。 マスメディアは過去の歴史から学び反省し、傍観者精神を捨てて「埋没費用の誤謬」に囚われた社会の禁忌を積極的に暴き出し、社会を破滅への道から救う義務があろう。 マスメディアは敗戦の日が来る事を知りながらも「埋没費用の誤謬」や集団思考に囚われたまま傍観者精神駝鳥政策を貫いて、原子爆弾投下ソ連対日参戦という悲劇を招いた過ちを繰り返してはならない。 日本社会に致命的に欠けているのは、疑似科学の手法が生み出す傍観者精神駝鳥政策を排除し、 埋没費用の誤謬集団思考に囚われる事なく、科学的思考に基づいて情報を調査し、代替案を精査し、採用しようとしている選択肢の目標と危険性を精査し、後戻りする決断力なのだ。

3. 科学的思考とは何か

 疑似科学が起きる原因は、ウィキペディア英語版には「疑似科学の心理学」の項目において明記されている。 疑似科学を生み出すのは、人間の思考が本来持っている次のような傾向である。 科学的思考とは、このような人間の思考が陥りやすい認知バイアスや誤謬との闘いの中で育まれてきた思考である。 「科学的思考とは何か」を理解するには、科学的思考が人類の歴史の中でどのように発展してきたかを理解するのが良いであろう。

 「科学」とは「真理」を追求して「知識」を探求する学問である。 命題(文、仮説など)が「真理」であるかどうかは自然科学のように実験によって実証可能な証拠を検証する方法が確実だ。 しかし自然科学以外の世界では必ずしも実証可能な証拠が得られるとは限らない。 そのため、どのようにしてドクサ(独断)を排除し「真理」を確定すべきかは古代ギリシアの時代から既に人類にとって大きな課題であった。 詭弁家煽動的民衆指導者が跋扈して「知識」ではない「ドクサ(独断)」が蔓延していた古代ギリシアの民主主義社会。 そこで「知識」とは何かを探求して「無知の知(アポリア)」を自覚したのが偉大なる哲学者ソクラテスである。 ソクラテスは「命題が論理的に証明されていない、という疑問を持つ」という科学的思考の原点に到達したばかりでなく、疑問を持ち続ける事の重要性を理解したのである。 残念ながら、疑問を持ち続ける事が社会にモラルパニックを引き起こす事までも立証してしまった。 そして社会的圧力によって疑問を停止させようとする行為(疑似科学の手法)の愚かさを見抜き、自らの命と引換にその愚行が二度と繰り返される事のないように後世への教訓を残したのである。

 科学とは「知識」を追求する学問であるが、では「知識」とは一体何なのだろうか。 ソクラテスの英知を受け継いだ弟子の一人であり、やはり偉大なる哲学者であるプラトンは、 「知識」である事を確定するために「真理」かどうかを検証する「正当化」という概念を生み出した。 その後の科学哲学の核心となる「知識とは正当化された真なる確信である(Justified True Belief)」という有名なJTB定式である。 プラトンは「確信を知識として昇格するためには、論理的な検証作業が必要である」という科学的思考の核心部分に既に到達したのである。 そしてプラトンの英知を受け継いで「知識」とは何かを探求したのが、やはり偉大なる哲学者であるアリストテレスである。 彼はプラトンが導き出したJTB定式を具現化するために実現可能性を検証する方法や、 三段論法に代表される演繹という正当化の方法を導き出した。 それだけでなく、「論理学」という検証作業の具体的方法を提示すると共に、その論理学をあらゆる知識を得るための「正当化」の道具である「オルガノン」とした。 そしてその「オルガノン」を用いて、物理学、天文学、気象学、動物学、植物学、政治学、倫理学、哲学、文学など多岐に渡る学問を体系化し、多くの学問の基礎を築いたのである。

 アリストテレスが完成した古典的な科学体系を越える者はその後1900年の長きに渡って、現れる事が無かった。 近世になって科学的思考の検証過程である「正当化」の理論もようやく発展し始める。 世界は複雑にからみ合っており、「真理」であるべき命題は、既に真理が確定されている他の命題群と独立して存在できないはずだ。 先人達の英知を受け継いだ人類はこの考えを基本として、 命題の単純性を求めるオッカムの剃刀スコラ哲学)、 命題に理性的な基礎付けを求める合理主義、 命題に経験的な基礎付けを求める経験主義、 他の命題群との整合性を求める整合説、 その時点で命題の正当性が主体に認識されていたかを検証する内在主義、 その時点で命題の正当性が客観的に認識されていたかを検証する外在主義(内在主義による正当化の補強論証)、 道徳的判断を正当化する根拠が存在するかを検証する倫理学、 などの「正当化の手法」を考え出して来たのである。 「知識」とは何かを探求し続けた人類の英知であるこの「正当化の理論」は、 認識論関係図参照)という哲学の分野の一つとして現在も発展し続けている。 『正当化された真なる信念は知識か(ゲティア問題)』というのが現代の正当化理論のトピックであるが、 少なくとも正当化されない仮説を知識であると主張する事は許されない。

 近世になって「知識は力なり」という言葉を残したのが、イングランドの偉大なる哲学者フランシス・ベーコンである。 ベーコンは人間の知性は、4つのイドラ(認知バイアスや誤謬)によって、一旦思い込んでしまうと、全ての事をそれに合致するように作り上げてしまう性向を持つと考えた。 こうした思い込みは、たとえその考えに反する事例が多く現れても、それらを無視ないし軽視しがちである。 ベーコンは、この4つのイドラを取り除いて初めて、人間は真理にたどり着けると説いた。 そして、これらのイドラに惑わされることなく、観察や経験によって得られる個々の事例を集めて選択・整理して、そこから帰納法という論理的推論によって一般的な法則を発見していくべきだという、知識獲得のための革新的な思考法「新オルガノン」を提唱した。 ベーコンは単に科学的思考が取るべき戦術が「多種多様な認知バイアスや誤謬を排除する事」である事を見抜いただけではない。 「観察や経験によって得られた事例を整理し、論理的推論によって仮説を打ち立て、それを検証する」という科学的思考の戦略の完成形である「疑問生成、仮説提案、検証のサイクル」にベーコンはついに到達したのである。 「科学的思考」とは、人間の思考が陥りやすい各種認知バイアスや誤謬を排除し、「正当化」という検証プロセスの必要性を理解した上で、初めて成立する高度な思考方法なのだ。 そしてベーコンの英知を受け継いで「科学的思考」を身につけた同じ英国のアイザック・ニュートンによって近代科学文明の幕が開かれる。 ニュートンが熱心な神学者であった事からも分かるように、「科学」とは「宗教」や「超常現象」等と対立する概念ではない。 「科学」と対立する概念とは、人間の思考が陥りやすい「認知バイアス」や「誤謬」なのだ。 科学と対立しているように見えるとすれば、それは確証の説明の際に「認知バイアス」が疑われるか、主張の根拠に「誤謬」が疑われるためである。

 その後、英国が生み出したこの「科学的思考」という英知はアメリカへと受け継がれ、貪欲に知識を獲得し続ける科学技術超大国を生み出す事になる。 アメリカ人が人類の歴史から学び、巨人の肩の上から世界を見渡している事を理解する事なく、 カミカゼ攻撃竹槍三百万論に代表される全会一致精神論という誤謬によって戦争に勝てると考えた者達は正に愚の骨頂である。 非国民批判などと言う疑似科学の手法を許して国民の思考を停止させて犬死にするまで戦わせ、日本という国家を破滅へと導いた責任者達は、膨大な数の戦没者の英霊の前で、昭和天皇がされたように自らの過ちを懺悔せねばなるまい。 「軍国主義に騙されていた」と批判するのは簡単であるが、それだけでは悪玉を作り上げているだけで、問題の本質が見えていないだろう。
  1. 戦前の日本人がどのような仕組みで思考能力を奪われたのか
  2. どのような過ちを犯して行動をエスカレートさせたのか
  3. 敗北の判断が何故もっと早くできなかったのか
  4. マスメディアは何故、真実を報道できなかったのか
もし後世の日本人がこれらを理解せずに過ちを繰り返すのであれば、地獄の業火で焼かれて死んで行った者たちも犬死にであろう。

 日本社会において科学と疑似科学の境界は混乱している。 それは科学が探求する「知識」とはどのようにして獲得すべき概念であるかについて、日本社会が人類の歴史からその偉大なる英知を学ぶ事が無かったためであろう。 日本人は科学技術の原理と応用方法を学ぶのみで、その根本にある科学的思考とは何かを学んではいないのだ。 「STAP細胞は疑似科学か」と問う者が多いが、STAP細胞は「真理」である事が確定されていない仮説に過ぎない。 疑似科学であるかどうかは仮説そのものが「真理」であるかどうかが問題なのではない。 仮説が主張されている「社会」において、「真理」が科学的思考に基づいて確定されているかどうかが問題なのだ。 科学的思考において「真理」とはどのように確定すべき概念なのか。 それは「知識」とは何かについて考える事もなく、論証よりも確証を信じ、都合の良い説を追求してきた日本人が知った途端、日本社会は混乱に陥るであろう。 混乱を防ぐため、即ち現在の社会規範を守り続けるために、科学的方法疑似科学正当化立証責任認知バイアス一覧誤謬一覧などの概念は日本語に翻訳してはいけないのである。

4. 疑似科学に汚染された日本社会

 日本社会では真理とは「正当化」によってではなく、「大多数の人々の共有」によって保証すべき概念なのである(真理の合意説)。 真理とは客観的事実なのではなく、言うなれば社会規範のような道徳概念なのだ(ザインとゾレンの混同)。 例えば「日本が戦争に負ける」などと言う不都合な仮説を主張する者(非国民)は社会規範に反するため、排除されなくてはならない(道徳主義の誤謬)。 道徳的に不都合な仮説を「正当化」してしまうような検証プロセスは存在してはならない。 「欲しがりません勝つまでは」という標語が示すように、 「大多数の人々が共有でき、努力して実現すべき仮説」こそが日本社会の真理なのだ。 日本社会は「正当化」という検証プロセスの導入を拒否し、その代わりに信憑性を持たせるための各種「認知バイアス」や「誤謬」を許容しているのである。 「正当化」と「認知バイアスや誤謬の排除」を前提として初めて成立する「科学的思考」の概念など受け入れる事ができない。 これこそが日本人に科学的思考ができない真の理由であろう。 集団からの孤立を恐れる日本人は、斉一性の原理に支配され、大多数が従うべき規範を社会から与えられる事によって安心して生きていけるのである。 それ故に現在の社会規範を守るために、或いは新たな社会規範を作り出すために、科学的思考から遠ざけるための「疑似科学の手法」が蔓延する。 ニセ科学批判が本能的に反感を生み出し、ニセ科学批判クラスタなどの科学的思考の勢力が人格攻撃されるのも同じ理由である。 ニセ科学批判は「真実の解明」としてではなく、「道徳の押し付け」として受け取られるのである。 こうして日本社会での議論の多くは論証が重要とはならず、相手側の資格、知識、動機、人格、危険性などの個人攻撃に溢れてしまう。 「論争に勝利する」というのは「相手側を沈黙の螺旋に落とし、社会的影響を用いて斉一性の原理を確立する」事であるためだ。

 科学的思考では真理とは「正当化」論証で保証されるべき概念であり、「大多数の人々の共有」によって保証すべき概念ではない。 逆に言えば、「正当化」論証を行わずに確証を信じ、都合の良い仮説を「大多数の人々の共有」によって真実と確定しようとしている場合には、それは疑似科学であると疑った方が良い。 日本社会が疑似科学に汚染されている事を示す疑似科学の分かり易い具体例、及びそれらの仮説を対象とした疑似科学の評定方法の具体例を「認識論の疑問による疑似科学の評定方法」において示す。

5. まとめ

 疑似科学の特徴は「確証のみに基づき論証は不十分」、「主張の根拠には反証可能性が無い」、「主張の理解に関する進捗が無い」などである。 疑似科学とされている仮説の多くは、単にこれらの特徴があるだけの仮説にすぎず、疑似科学の評定には細心の注意が必要である。 しかし、仮説を守ろうとする勢力が多くなると「疑似科学の手法」が使われようになるため、評定は難しくない。 なお、その勢力の影響力が社会において強くなると社会全体が思考停止に陥る。 「科学的思考」と「疑似科学の手法」との違いをまとめると、以下の通りである。

駝鳥仮説科学的思考(駝鳥の防止)論証重視疑似科学の手法(駝鳥の養成)論証無視
目的知識を獲得する都合の良い仮説を守る(駝鳥の卵が誕生)
原点思い込みや誤謬を疑い、疑問を持つ誤謬や社会的影響を用い、疑問を持たせない(駝鳥にする)
核心正当化論証という検証作業で真理を確定社会で多数派を形成し、合意により真理を確定(駝鳥を目指す)
戦略観察し、疑問を持ち、仮説を立て、検証する立証責任を果たさないまま異論を許さない(駝鳥にする)
戦術あらゆる誤謬や認知バイアスを排除科学的思考の停止、斉一性の原理の達成(駝鳥にする)
思考法批判的思考、論理的推論、水平思考垂直思考、集団思考、敵は悪魔、傍観者精神(駝鳥政策)
批判法根拠を示し反論、反証の提示人身攻撃、論点のすり替え、吊し上げ、村八分(駝鳥にする)
異説は公の場で論理的に批判する(駝鳥の防止)公の場で存在を許さない(駝鳥にする)
結果知識を獲得し、次なる課題を発見する仮説は守られるが、進捗は無い(駝鳥として安住)
影響知的で健全な社会の実現思考停止した病的な社会の実現(駝鳥社会実現)
未来的確な判断ができ、社会を危険から守る駝鳥達は判断を誤り、社会を危険へと導く
責任マスメディアが社会に奨励すべき思考マスメディアが社会から排除すべき手法


 また、疑似科学を生み出す社会心理学上の概念には以下のようなものがある。
  1. 自己欺瞞 (Self-deception) 哲学や心理学で使われる「自己欺瞞」の意味は、一般に使われている言葉の意味とは異なる。 間違った仮説を人間が信じるようになるプロセス。 ほとんどの人間は信念に対して何らかの思い入れが有るもので、その執着の強さが時に非合理的となる事は珍しくない現象であり、そのような信念を守り続ける過程で自己欺瞞は起こる。 論証よりも確証。
  2. 同調現象 (Conformity) 人々の意見がある方向のみに傾斜する現象。 間違った仮説が社会において優勢になるプロセス。 論証よりも人身攻撃。
  3. 組織的強化 (Communal reinforcement) 組織や共同体において主張が繰返されることによって、強固な信念へと変化する過程。 間違った仮説が社会において強固な信念となるプロセス。 論証よりも繰り返し報道。
  4. シープル (Sheeple) 批判的な分析や調査を行うことなく、他人の示唆を自発的に黙認する人達。 「自己の専門研究が及ぶ範囲を自覚すべき」という日本社会のルールに守られ、「他の分野の専門家に検証される事はない」。 そればかりか、「専門用語の乱用」によって部外者による検証を無視し、「検証不能の説」に基づいているのに「問題点は認識されない」。 「パラダイス鎖国」に安住して疑似科学の手法に頼って間違った仮説を主張し続け、反対論証に対しては「黙秘」しているにも関わらず、それを批判する者は日本社会のどこにも存在しない。 知識人の公正さが欠如した、論証しないヒツジの群れ。
  5. 部屋の中の象 (Elephant in the room) 部屋の中に象がいる事が問題である事は知っているが、問題が大きすぎて誰も口に出せない。 ヒツジ達の仮説は無論証のまま自己欺瞞、同調現象、組織的強化を繰り返していると、 真実が引き起こす認知的不協和のマグニチュードは恐ろしく巨大化していく。 そうなると真実は「論議の窓」の外に追い出された巨大なゾウとなり、ゾウについての議論は許されなくなる。 社会においては「沈黙の密約」が生成され、ゾウはパンドラの箱に封印される。 パンドラの箱の番人である「自薦の用心棒」と呼ばれる者達が活躍して「ミリュー制御」が行われ、 人々は次第に「沈黙の螺旋」に落ちて行く。 そしてゾウの姿を見てしまった者達はダチョウになる。 思考停止した社会においては「場の空気」に支配され、 ダチョウ達の沈黙によって「コンセンサスによる真実」が成立する。
 「立証責任の回避」(Shifting the burden of proof)は「誤謬一覧」において、非形式的誤謬の一つに列挙されている。 「確証だけに安住する事なく正当化論証による立証が必要で、その立証責任は主張する側にある」、 と言うのは世界の共通ルールである。 正当な理由を示さないままこの共通ルールを適応しなくても良いと言うのは、 「特例嘆願」というまたもう一つの誤謬で、ダブルスタンダードの一種である。 それに「事例証拠の誤用」(Anecdotal fallacy)に至っては、 「論証の構造そのものに瑕疵があるために、論証全体として妥当性がなくなる」とされる「形式的誤謬(Formal fallacies)」に分類されているのだ。 「事例証拠の誤用」は根拠が十分で無いにも関わらず、「可用性ヒューリスティック」という認知バイアスとの相乗効果で強い心理的効果を発揮し、「早まった一般化」という人間が最も陥りやすい誤謬を導くのである。

 しかし日本社会では確証さえあれば仮説を主張でき、しかも論証は必要とされていない。 「立証責任の回避」が誤謬である事は、パンドラの箱の中に封印されている。 日本社会とは、臭い物の上に「誤謬」というフタをして隠す事によって成立している社会なのだ。 それ故に「正当化」という論証の概念自体も、科学哲学の核心がプラトンの導き出したJTB定式である事も、科学的思考という概念までもが全てパンドラ箱の中に封印されている。 「実験で再現できないから科学ではない」という科学を根本的に誤解した理由で社会を納得させ、論証の排除が社会的に許されているのだ。 しかし、そもそも科学的思考という概念は自然科学だけを対象とした方法ではない。 そのような理由で認知バイアスや誤謬が許容されて良いはずがない。 認知バイアスや誤謬を放置しておけば、認知の歪みが生じてしまうのだ。

 ポール・グラハムは反論の品質レベルを7つの階層に分類した。
  1. 論点の核心部分について議論する(主張を理解し、有意義な議論を行う)
  2. 主張の誤りを例を挙げて指摘する(主張を理解しようとし、間違いを証明しようとする)
  3. 反対意見の理由を証拠を挙げて主張する(主張は理解していないが、その主張の対案を出す)
  4. とにかく反例を挙げる(主張は理解していないが、有意義な反例となる可能性がある)
  5. 主張者の論調を批判する(主張は理解していないが、少なくとも主張を聞いている)
  6. 主張者の人格を批判する(主張を聞いていないが、少なくとも主張者を観察している)
  7. 主張者を誹謗中傷する(主張者を観察する事も無く、主張を却下)
 有意義な議論を実現するとは、この反論の品質レベルを一つでも上げようと努力する事である。 少なくとも5〜7のレベルの議論は誤謬であり、有意義な議論につながる事はない。 そして、そもそも「不都合な主張」を検証しようとする1〜4のレベルの議論の動機を生み出す「正当化」の概念自体が日本社会には存在しないのだ。

 日本人の国民性として論理的思考ができず、議論が苦手である事が広く知られている。 これは国民性というよりは、論証無視の社会教育が原因であろう。 日本社会では仮説に対する論証(探求)が必要視される事なく、仮説の主張者に対する人格攻撃が奨励される。 日本とは各々が「道徳主義」という誤謬に基づいて都合の良い真理を追求し、 事例証拠の誤用早まった一般化虚偽の原因の誤謬などに代表される各種誤謬によって真理であると主張し、 人身攻撃論点のすり替えなどの誤謬によって論証する者を排斥し、 権威に訴える論証衆人に訴える論証伝統に訴える論証などの誤謬によって真理を確定する、「論証敵視の駝鳥の楽園」なのだ。 大多数の人間がそう考えていれば、数の暴力によって人身攻撃(Ad hominem)や誹謗中傷(Name calling)が倫理的に許される社会であり、論証など役に立たない社会なのである。 グラハムの議論の品質レベルにおける1〜4のレベルの議論は封印されており、 5〜7の最低レベルの議論が、社会的に奨励されているのだ。 このような社会で育った日本人に論理的思考水平思考ができず、 認知が歪んでしまい、科学リテラシーが低いのは当然の事である。

 疑似科学とは「科学的方法に基づかない方法で真理であると主張されている」仮説である。 日本社会で科学と疑似科学の区別がハッキリしない理由は、疑似科学を説明するための概念が、全てパンドラの箱の中に封印されているからなのだ。 パンドラの箱に近づこうとする者達は排除されなくてはならない。 ニセ科学バスターやニセ科学批判教団が批判されるのは、箱に近づいた事を敏感に察知しているのであろう。 パンドラの箱を強固に守っているのは「自己の専門研究が及ぶ範囲を自覚」という日本社会のルールである。

 「疑似科学とは何か」、それは日本人が知ってはいけない概念である。 知ってしまった以上、パンドラの箱は開けねばならない。 しかしパンドラの箱を開けた途端、封印されていたゾウ達が暴れだし、日本社会には「急性アノミー」(信念体系の崩壊)が発生してしまうのだ。

歴史学研究方法を題材とした社会学入門


あとがき:故山形先生の著作を読んで衝撃を受けてから、もう何年が過ぎたであろうか。 氏が成し得なかった理論の最後に残されたピースである「バカの壁」の部分の説明が、ついにここに完成したかと思うと感無量である。 これを読まれた方々が、単に疑似科学だけではなく社会学や心理学にも興味を持っていただく事を祈る。
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