ニセ科学批判批判具体例による疑似科学Q&A
〜論理的思考入門〜

暁 美焔(Xiao Meiyan) 社会学研究家, 2018.9.5 祝2.0版完成!

 ここではニセ科学批判批判の具体例に答える過程において、 「真理」とは何か、「科学」とは何か、「議論」とは何か等の多くの問題について考えます。 そして「論理的思考」とは如何にあるべきかについて考えます。

ニセ科学批判の目的とは一体何ですか?

 ニセ科学批判者の目的は人それぞれですのでハッキリと答える事はできませんが、 「正しいとされている言説が、実際には根拠が十分でない事を科学的方法に基づいて明らかにする事」ではないでしょうか。

ニセ科学批判なんかを覚えるよりも、ちゃんとした科学的方法を学んだ方が良いのではありませんか?

 ちゃんとした科学的方法とは何か。 それを問題とするのがニセ科学批判です。 ちゃんとした科学的方法を学ぶためにはニセ科学批判がきっと役に立つでしょう。

ニセ科学批判者がニセ科学批判をする正当性の根拠は何ですか?

 ニセ科学批判者がニセ科学批判をする正当性の根拠は、「知的な責任(intellectual responsibility)」という概念にあります。 ノーム・チョムスキーの言葉を借りれば「知識人は真実を追求し、嘘を暴く責任があります(intellectuals should make themselves responsible for searching for the truth and the exposing of lies)」。 知識人は皆、「知的なノブレス・オブリージュ」を果たすべきです。 「知的な責任」とはいわゆる「通俗道徳」とは異なり、時代や文化によって影響される事のない普遍的で規範的な概念です。 中世の宗教家であるヤン・フス残した言葉も参考になるかと思われます。

「真実を探求せよ、真実を聞け、真実を学べ、真実を愛せ、真実を語れ、真実を抱け、真実を守れ、死ぬときまで」

ニセ科学批判者にとって反証可能性が科学の本質ですか?

 科学の本質とは科学的方法によって知識を獲得する事です。 科学的方法とは、疑問生成、仮説提案、検証のサイクルが機能して、現象に対する理解が確実に深まっていく方法です。 確かに支持意見に騙されないためには検証が必須ですので、反証可能性が重視されます。 検証する方法が存在し無い仮説は知識であるかどうかを判断できないからです。 しかし、だからと言って反証可能性が科学の本質と言うわけではありません。 反証可能性の概念が提案されるずっと前から科学的方法は発展してきたのです。 「疑問を持つ」事こそが全ての科学的方法の原動力であるため、これが科学の本質であると言えるでしょう。

ニセ科学批判者が検証すべき項目とはどのようなものがありますか?

 仮説を検証する場合、以下の項目をチェックする必要があります。
  1. 仮説が正しいと主張する根拠に誤りがないかどうか
  2. 両立しない他の仮説よりも、事実を広範囲に説明できるかどうか
これらを認識論の観点から、 即ち実証的、客観的(意識から独立した存在)、論理的科学的な観点からチェックします。 わかり易いチェック項目としては、以下のような項目をチェックすれば良いです。
  1. 確証の説明に認知バイアスの影響がないか
  2. 論証の過程に誤謬が使用されていないか
  3. 仮説に実現可能性(PotentialityとActuality)が有るか
  4. 仮説が他の事実と整合するか
  5. 仮説から演繹される結果が正しいか
自然科学においてはこのチェックには実験が重要となりますが、宇宙科学や恐竜研究のように「事実の観察」だけでも可能です。

科学的に正しいかどうかの検証方法は各分野において恣意的に決められていませんか?

 一見すると、各分野において「科学的に正しい」とされる基準が恣意的に決められているような印象を受けるかもしれません。 これは前述のチェック項目が各分野において何を検証すれば良いかが異なるので、各分野において恣意的に決められているように見えるだけです。

ニセ科学批判者は人格批判をしても良いのですか?

 人格の良し悪しは科学的に判定すべき対象ではありません。 それに人格批判は「人身攻撃」という誤謬ですので、誤謬を排除するためには人格批判など決してしてはなりません。 ニセ科学批判者が批判しても良いのは、 「主張の根拠には誤りがある事」、 そして「他の仮説の方が、より多くを説明できるという根拠を示す事」だけです。 具体的には「主張者の確証の説明には認知バイアスが疑われる事」、 「主張者の推論の過程には誤謬がある事」、 「主張には実現可能性がない事」、 「主張が他の事実と整合しない事」、 「主張が予言する結果が現実と合わない事」などを批判すべきです。

ニセ科学批判者にとって「科学的に正しい」とは絶対的な真理ですか?

 「科学的に正しい」とされてきた主張でも、 誰にも考えつかないチェックすべき項目が存在したり、 チェック方法自体に誤りが存在したり、 その時代においては技術的に不可能なチェック項目が存在したりする可能性があります。 そのため「科学的に正しい」と検証されていた主張でも、将来において誤りが指摘される可能性があります。 「科学的に正しい」主張とは「絶対的」な真理とまでは言えませんが、 「現時点において誰にも誤りが見つけられない程度」の真理であるとは言えます。

ニセ科学批判をする事は倫理的に問題がありませんか?

 怪しげな仮説を見た時に、どう対応するかは以下のように分けられます。
  1. その仮説に疑問を持たず、信じる(ニセ科学を主張する側の立場)
  2. その仮説に疑問を持たないが、放っておく(傍観者の立場)
  3. その仮説に疑問を持ち、間違いを正す(ニセ科学を批判する側の立場)
  4. その仮説に疑問を持つが、放っておく(傍観者の立場)
  5. その仮説に興味を持たず、放っておく(傍観者の立場)
道徳概念はそれぞれが所属する社会において異なります。 従って、どのような対応が倫理的に正しいかどうかは、科学的に断定する事はできません。 しかし、「疑問を持つ」という判断は科学的思考の基本であり、一般的に問題はありません。 また「間違いを正す」という判断にも一般的に問題はありません。 健康悪化被害事例がある場合や、疑似科学に税金を浪費する場合など「間違いを正す」方が一般的に社会貢献になります。 また、真相を明らかにする事によって未来の人間が同じ間違いを犯す危険性を防ぎ、やはり社会貢献になります。 従って、一般的に言えばニセ科学批判は社会貢献の一種であり、倫理的に問題はありません。

ニセ科学批判者は科学の物差しだけが真理であると考えていませんか?

 ニセ科学批判者が神社に現れて「お守りには科学的な効果は実証されておりません。この神社は人々を騙して金を儲ける悪徳商人です。」などと主張する事はありません。 また、ニセ科学批判者が小学校に現れて「サンタクロースの存在は科学的に実証されていません。我々はその存在を信じるべきではありません。」などと主張する事もありません。 また、ニセ科学批判者が教会に現れて「聖母マリア処女のまま受胎したという逸話は科学的に有り得ない。聖霊の存在を仮定するよりも、本当の父親が別にいた事を仮定した方が仮説として合理的である」などと主張する事もありません。 また、ニセ科学批判者が犠牲者慰霊式典に現れて「死者に祈りを捧げる行為に科学的な効果は確認されておりません。我々は時間をもっと生産的な活動に使うべきです。」などと主張する事もありません。 このような行為をする者達が存在しないのは、人間の社会には科学の物差しだけでは判断できない「真理」が確かに存在するからです。 人類が追求する「真理」には、科学が求める「客観的真理」の他にも以下のような種類があります。
  1. 客観的真理: 誰が検証しても正しい主張
  2. 政治的真理: 政治的に信じるべき主張
  3. 道徳的真理: 道徳的に信じるべき主張
  4. 実用的真理: 真偽はともかく、信じると役立つ主張
 客観的真理は科学的方法によって確定されますが、政治的真理や道徳的真理、実用的真理は社会における合意や強制などによって確定されます。 確かにニセ科学批判者は「政治的真理」、「実用的真理」、「道徳的真理」などのその他の真理を求めてはいません。 従って科学の物差しだけが真理であると考えている、というのは間違いではありません。 ただ、ニセ科学批判者が批判対象にしている主張とは「客観的真理」を主張している仮説であるはずです。 ニセ科学批判者も「客観的真理」を追求すべきでない問題に対しては、科学的な批判をしていないはずです。 ニセ科学批判とは、科学的に合理的のみを追求する社会を理想型として構築する運動などではありません。

ニセ科学批判者は科学だけが絶対の真理だと考える傲慢な人達ではありませんか?

 「客観的真理」を追求すべきでない主張に対してニセ科学批判の対象にした者は、このように批判されても仕方ありません。 しかし、ある仮説が「客観的真理」であると主張されている場合、「政治的真理」、「道徳的真理」、「実用的真理」など、その他の真理を追求する必要はありません。 ニセ科学批判者は科学的方法だけが真理を追求する方法だと考えているかもしれませんが、それは「傲慢な思考」ではありません。 但し「絶対の真理」であると考えている場合には、「傲慢な思考」であると言えます。 何故ならば、科学的思考を持つ者は常に「疑問を持つ」という姿勢を忘れてはいけないからです。 「科学的に正しい」とされている主張にも、誰にも考えつかなかったような誤りがある可能性を忘れてはいけません。

ニセ科学批判者は自分達が生殺与奪権を握っていると考える自己尊大な人達ではありませんか?

 ニセ科学批判者が追求するのは「客観的真理」だけです。 実際に生殺与奪権を握っているのは、マスコミや学校教育などの社会的影響力の強い者たちです。 ニセ科学批判者がどれだけ真実を叫んだところで、社会から無視されれば何も変わる事はありません。

血液型性格分類のファンなのですが、ニセ科学批判者を撃退する方法はありませんか?

 血液型性格分類が真偽はともかく人生に役に立つ「実用的真理」であるため、ニセ科学批判が対象とすべき「客観的真理」ではないと主張すれば良いでしょう。 実用的真理は、漢方薬や風水のように根拠がハッキリしていなくても多数がその効用を信じていれば主張しても良いのです。 血液型性格分類は話題に困った時に、とりあえず話題にしても良い「実用的」な機能があり、これをニセ科学と批判すれば、その場は白けるでしょう。 即ち「真偽などどうでも良いのだから放っておいてくれ」と言明する事です。 そうすれば「ニセ科学批判者は社会的要請を無視している」、「ニセ科学批判者は社会の空気を読まない非常識な人達である」、「ニセ科学批判者は科学だけを絶対の真理とする傲慢な人達である」などの主張が有効になります。 それに人間の性格を決定する要因は科学的にはまだ解明されていないので、「そんなに批判するのなら科学で人間の性格を説明してみろ」と言えば黙るかもしれません。

ニセ科学批判者は科学を過信していませんか?

 「科学を過信する」という行為は、「言説を疑わない」という事です。 ニセ科学批判者は科学的方法の本質である「疑問を持つ」という姿勢を常に忘れてはいけません。 即ち、科学を過信する人間とは科学的思考を持たない人間であり、その者は「ニセ科学批判者」とは言えないでしょう。

ニセ科学批判はサブカルチャーではありませんか?

 これは「サブカルチャー」とは一体何かという議論になります。 ウィキペディアでは「ある社会で支配的な文化の中で異なった行動をし、しばしば独自の信条を持つ人々の独特な文化」であると説明されています。 科学的思考とは「真理とは何か」を探求してきた人類の英知であり、世界的には独自の信条というわけではなくサブカルチャーではありません。 しかし、「日本社会とは科学的思考を重視しない社会である」という前提で考えるのであれば、「ニセ科学批判はサブカルチャーである」という主張は間違いではありません。

さしたる根拠は示しませんが、「ニセ科学批判者はニセ科学批判が飯の種なので、解決を望んでいない」と言ってもいいですか?

 民主主義においては言論の自由がありますので、そのような意見を表明しても問題ありません。 ニセ科学批判を飯の種にしている人はごく少数ですので、それをニセ科学批判者全体に一般化するのはどうかと思われます。 いずれにしろ「根拠」が示されていない以上、意味のある議論にはつながらないでしょう。

ニセ科学批判者とはXXXX教授の科学観以外の科学観を持たない、多様性のない人達ではありませんか?

 科学は完成されていませんが、科学哲学についてはこれから革新的な思想が出る見込みはあまり無いため、科学観に多様性が無い人達だという指摘は間違いではありません。 しかし主張の間違いを指摘するためには科学観の多様性は不要ですので、問題ではありません。 いずれにしろ科学的思考とは人類が歴史の中で試行錯誤して積み上げてきた思考です。 ニセ科学批判もXXXX教授が始めたように見えるかもしれませんが、実際には彼が作り出した世界観ではありません。

ニセ科学批判は科学者としての素質が無い人達が行っているのではありませんか?

 「科学者としての素質」とは何かというのは議論されねばなりません。 いずれにしろ、ニセ科学批判は科学的思考を持っている者であれば科学者でなくても誰でもできます。 「科学者としての素質」が何を意味するかはわかりませんが、それは必ずしも必要はありません。

ニセ科学批判者のほとんどはどこの馬の骨かもわからない連中ではありませんか?

 ニセ科学批判者が正体を明かしていない場合、どこの馬の骨かもわからない連中であるという主張は間違いではありません。 しかし「ハロー効果」という認知バイアスの影響を排除する必要が有ります。 ニセ科学批判者は主張者の地位や資格などを問題にしてはいけません。 従って、どこの馬の骨かもわからない連中がニセ科学批判をしても問題は有りません。

ニセ科学批判者はニセ科学など批判している時間があれば本業に専念した方が良いのではありませんか?

 ニセ科学批判者の本業が何であるかは人それぞれですので、何とも言えません。 それにある主張が正しいかどうかと、時間を本業に専念すべきであるかというのは別の問題です。 人間がどのような問題に時間を使用すべきかは民主主義社会においては自由ですので、干渉すべきではありません。

ニセ科学批判者はニセ経済学の信者ですか?

 ニセ科学批判者がニセ経済学を信じているかは人それぞれですので、わかりません。 いずれにしろニセ経済学を信じているかどうかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。 人間がどのような学説を信じるべきかは、その学説について議論していない限り関係が有りませんので、干渉すべきではありません。

ニセ経済学を信じる者がニセ科学を批判するなんておかしくありませんか?

 ニセ科学批判は、科学的思考さえ持って入れば誰でもできます。 関連する議題以外の分野において、ニセ経済学を信じていようが、天照大神を信じていようが、その批判が正しいかどうかには影響しません。

ニセ科学批判者は反デマ界隈の人ですか?

 「デマ」とは、一般的に「根拠のない、いい加減な噂話」を意味します。 ニセ科学には通常何らかの根拠があり、一般的な意味における「デマ」の部類には含まれません。 しかしニセ科学を「デマ」の一種に含めるべきだという考えであれば、「ニセ科学批判者は反デマ界隈である」という主張は間違いではありません。

ニセ科学批判者とは信頼できない人達ではありませんか?

 ニセ科学批判者も人それぞれですので、信頼できるかどうかも人それぞれです。

ニセ科学批判者は自然科学分野のリテラシーの代償として感受性が低いでしょう。どのように女性を口説くのですか?

 ニセ科学批判者も人それぞれですので、どのように女性を口説くのかも人それぞれです。 自然科学分野のリテラシーの非常に高かったアルベルト・アインシュタイン恋愛名言集ラブレターなどが参考になるかと思われます。 もっとも彼の言葉を他のニセ科学批判者に当てはめるのは「早まった一般化」という誤謬かもしれません。

幽霊なんてニセ科学です。ニセ科学批判者は格安な事故物件を購入した方が良いのではありませんか?

 事故物件に人気が無い理由は、幽霊を怖がるからだけではありません。 その場所でどういう事件が起きたのかを想像するのが嫌な人が多いからでもあります。 家族や友人も嫌がります。 もっともそんな事は全く気にしないニセ科学批判者も確かにいますので、 そのような相手であればお買い得物件を勧めてみるのも良いかもしれません。

ニセ科学批判者は日頃から簡単に批判できそうな主張探しに目を光らせ、ここぞという時に集団で攻撃していませんか?

 ニセ科学批判者が日頃何をしているかは人それぞれですので、わかりません。 いずれにしろ批判者の日頃の行為が何であるかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。

ニセ科学批判者が権威を批判しないのは何故ですか?

 これは「権威」と呼ばれている人達がどのような思考に基づいて主張しているかという議論になります。 もし「権威」が科学的思考に基づいて主張していない人達であれば、ニセ科学批判者は「権威」を断固批判すべきです。 しかし「権威」が科学的思考に基づいて主張しているのであれば、「権威」を批判する理由はありません。

「歴史は自然科学ではないので歴史修正主義は疑似科学批判の対象外」というのは理解しました。しかし、そうすると「優生学自体は科学なので疑似科学批判の対象外」というのはおかしくないですか?

 この推論には、「歴史修正主義を批判しない理由」と「優生学を批判しない理由」が同じである、という暗黙の前提があります。 しかし、人間の行動の動機付けは一般的に一種類には固定されません。 この二つの批判しない理由は、別の理由であると考えるべきでしょう。

ニセ科学批判者はXXXXを批判しない理由には、どのようなものがありますか?

 ニセ科学批判者が批判しない理由には様々な種類がありますが、主に以下の理由に分けられるでしょう。
  1. XXXXという主張について興味が無いので、批判する気にもならない(関心がない)
  2. XXXXという主張については評価が既に確定しており、敢えて批判する必要がない(批判しても仕方ない)
  3. XXXXという主張は社会問題、政治問題などの科学以外の問題であり、批判しない(批判対象ではない)
  4. XXXXという主張に誤謬が見つけられないので、批判しない(批判する必要がない)
  5. XXXXという主張はその分野における批判方法を知らないため、その誤謬を批判できない(批判する方法がわからない)
  6. XXXXという主張は科学的に難解であり、その誤謬を批判できない(批判する能力がない)
  7. XXXXという主張を検証する方法が科学的に存在せず、例え誤謬であったとしても批判できない(批判する方法が存在しない)
  8. XXXXという主張を研究する事自体がタブーとされており、批判できない(議論する事自体が許されない)
 口裂け女の存在を批判しないのは関心がないためでしょう。 神州不滅を批判しないのは、敗戦で間違いが証明されており、批判しても仕方ないからでしょう。 死者への慰霊の必要性の是非、サンタクロースの存在、カルト宗教、原発の是非等を批判しないのは、それらの問題が批判対象ではないためでしょう。 相対性理論を批判しないのは必要がないためでしょう。 歴史修正主義やニセ経済学を批判しないのは批判する方法がわからないためでしょう。 原発の技術的問題を批判しないのは批判する能力がないか、必要がないかのどちらかでしょう。 阿蘇のカルデラ噴火の予測を批判しないのは、地中深くの状況を計測できないため、批判する方法が存在しないからでしょう。 ナチス・ドイツ優生学を批判しないのは、優生学が国際学会が開かれる程人気のあった学問であったにも関わらず、 第二次大戦後は研究自体がタブーとされたため、議論する事自体が許されていないからでしょう。

 いずれにしろ、どのような問題に対して興味を持つかについては、民主主義国家では個人の自由です。 ニセ科学批判者にXXXXを批判する事を強制はできません。

ニセ科学批判者の大半が公害の垂れ流しのような原発を追認しているのは何故ですか?

 原発の技術はニセ科学と呼ばれる技術ではありませんので、ニセ科学の批判対象とはなりません。 原発を追認している人が比較的多い理由は恐らく、原発事故の原因が人災であり、それは今後解決できる問題であると考えているためではないかと推測されます。 いずれにしろ、民主主義社会では思想の自由があり、反原発思想を強制する事はできません。

ニセ科学批判者はその判断が最初から科学だけでなく政治も入ってる事を宣言すべきではありませんか?

 ニセ科学批判者が対象としているのは、主張が真理であるかどうかだけであるべきです。 もちろん、真理の判定が政治的判断に繋がる事もあります。 何故ならば我々は真理を信じ、間違いを信じるべきではないからです。 それは真理を追求した結果、そういう判断になるのであり、政治判断自体が目的ではありません。 従って、その判断が最初から政治が入っている事を宣言する必要はありません。

ニセ科学批判者は社会の空気を読まない、非常識な人達ではありませんか?

 「客観的真理」を追求すべきでない主張に対してニセ科学批判の対象にした者は、このように批判されても仕方ありません。 しかし、ある仮説が「客観的真理」であると主張されている場合、社会の空気を読む必要はありません。 何故ならば、「客観的真理」とは社会の空気で決めるべき概念ではないからです。 それに真理を「場の空気」によって決めるのは、「衆人に訴える論証」という誤謬を犯す事になります。 ニセ科学批判者は空気を読まないかもしれませんが、それは非常識な行為ではなく正常な判断です。

ニセ科学批判者は自身の無誤謬性を主張するために横暴になっていませんか?

 ニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、わかりません。 しかし、自身の無誤謬性を主張するために横暴になる行為は「威力に訴える論証」という誤謬を用いています。 従って自身の無誤謬性を主張するために横暴になる人達は本末転倒であり、そのような誤謬を手段としている人達はもはやニセ科学批判者とは言えません。 そのようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「威力に訴える論証」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。

ニセ科学批判者はニセ科学さえ批判していれば、何を発言しても良いと考えていませんか?

 ニセ科学批判者がニセ科学以外の事に何を発言しているかは人それぞれですので、わかりません。 その方がニセ科学批判者かどうかとは関係なく、その発言の内容を批判すれば良いのではないでしょうか。

ニセ科学批判者は世論誘導をするためにニセ科学を批判していませんか?

 公の場で意見を述べる者たちは、多かれ少なかれ世論誘導をしたいと考えているでしょう。 従って、この主張は間違いではありません。 もっとも、ニセ科学批判者以外の者たちもそれは同じです。

ニセ科学批判者は権威が無いと何もできない人達ですか?

 権威を利用して論証する行為は「権威に訴える論証」という誤謬を用いています。 従って権威が無いと何もできない人達は本末転倒であり、そのような誤謬を手段としている人達はもはやニセ科学批判者とは言えません。 そのようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「権威に訴える論証」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。

ニセ科学批判者は他者を攻撃する口実としてニセ科学批判を利用していませんか?

 ニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、わかりません。 しかし「他者を攻撃する」というのは「人身攻撃」という誤謬の一種であり、そのような誤謬はニセ科学批判者は排除しなくてはなりません。 従って他者を攻撃する口実としてニセ科学批判を利用している人達は本末転倒であり、そのような誤謬を目的としている人達はもはやニセ科学批判者とは言えません。 そのようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「人身攻撃」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。

ニセ科学批判者は部外者が科学者を批判するのが許せないから批判しているのではないですか?

 ニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、わかりません。 ただ、ニセ科学批判者は部外者が科学者を批判する行為を批判してはいけません。 何故ならばそれを問題にするのは「対人論証」という誤謬を犯しています。 従って部外者を許せないから批判するようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「対人論証」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。

ニセ科学など批判してもどうせ信者は聞く耳を持たないので放っておくべきではありませんか?

 ニセ科学批判者がどのような結果を期待しているかは人それぞれですので、わかりません。 しかしある主張が正しいかどうかと、信者に聞く耳があるかどうかは別の問題です。 これを問題にする行為は「結果に訴える論証」という誤謬を使用しており、排除すべきです。 ニセ科学批判者は、結果を問題視する事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。 従って、ニセ科学批判者に対して信者の動向を問題にしても無意味です。

ニセ科学など批判しても信者は態度を硬化させ、過激化してむしろ危険ではありませんか?

 確かに批判しても信者達には「否認」されるかもしれません。 しかし結果がどうあれ、我々には真実を追求し嘘を暴くべきだという「知的な責任(intellectual responsibility)」があります。 信者達がそれにより過激な行為を行うかどうかを問題とする行為は「結果に訴える論証」という誤謬を使用しており、排除すべきです。

ニセ科学批判者は人々の魂の救済について考えるべきではありませんか?

 ニセ科学批判者が追求するのは客観的的真理であって魂の救済ではありません。 魂の救済について考えるべき人達は、教師、カウンセラー、宗教家などです。 そうでなければ詐欺師やニセ科学の出番です。

青木率すら知らないクセにニセ科学を批判すべきではないのではありませんか?

 「青木率」自体は興味深い指標ですが、それを知らない人間の主張を退ける行為は「論点のすり替え」及び「対人論証」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者は「スリーパーセルをスーパーセルと空目した」と書かれる事で傷付く人達の視点が見えていないのではありませんか?

 「スリーパーセル」が潜伏細胞(Sleeper Cell)、即ち「潜伏工作員」を意味する単語である事について知っているニセ科学批判者はあまり多くないはずです。 従って「スリーパーセル」を「スーパーセル」と空目したと書かれる事で傷付く人達の視点が見えていないのではないかという指摘は間違いではありません。 しかし、ニセ科学批判者以外でもこの単語の意味を知っている者はあまり多くないはずです。 それに対して「スーパーセル」は現実に発生する気象現象を表す単語ですので、 ニセ科学批判者以外でもスリーパーセルをスーパーセルと空目する人も少くないと見られます。 従って「スリーパーセルをスーパーセルと空目した」と書かれる事で傷付く人達の視点が見えていない人間は、 ニセ科学批判者ではない方々の中にも多数存在するであろう事が推測されます。 いずれにしろ「スリーパーセル」も「スーパーセル」もどちらも常識として知っておくべき単語であるとは言えませんので、 このような発言を問題視すべきではないのではないでしょうか。

ニセ科学批判者はポリコレの側に立っていますか?

 ニセ科学批判者が「対人論証」という誤謬に陥らないためには、 職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ必要があります。 そのためには政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語を使う事が望まれています。 従ってニセ科学批判者がポリティカル・コレクトネスを求めているのではないか、という主張は間違いではないでしょう。

草食系男子は疑似科学ではありませんか?

 草食系男子かどうかを問題とするのは、「対人論証」という誤謬の一種です。

ナチス擁護は疑似科学ではありませんか?

 ナチス擁護とは政治思想における道徳問題であって、疑似科学かどうかの問題ではありません。

靖国神社参拝は疑似科学ではありませんか?

 靖国神社参拝とは政治的思想の問題か、宗教的信仰の問題、或いは死者への慰霊の是非についての問題であって、そのいずれも疑似科学の問題ではありません。 民主主義国家においては思想の自由、信仰の自由、死者への慰霊の自由も認められていますので、 その問題はニセ科学批判の対象とすべき問題ではありません。 ニセ科学批判としてではなく、政治問題或いは宗教問題、或いは慰霊すべきかどうかの問題として自らの意見を主張すれば良いでしょう。

 個人的には「満蒙は日本の生命線」として日本を中国大陸の泥沼に引きずり込み、 「国際連盟の脱退」で日本を世界から孤立させ、 「日独伊三国軍事同盟」で日本を戦争へと導き、 「日ソ中立条約」で日米開戦への決断を後押しさせた上に「ソ連対日参戦」への準備を怠って地獄を招く結果となった、 松岡洋右が英霊達と同列に祭られているのは不謹慎であると考えます。 国家への貢献があったわけでもなく、そもそも戦死者ですらないこれらの方々は靖国神社から分祀すべきではないでしょうか。

ニセ科学批判者とは2chで発言するようなネトウヨですか?

 もし「ネトウヨ」と呼ばれる人達が科学的思考をしている人達であれば、ニセ科学批判者とネトウヨには相関関係が現れるでしょう。 しかし両者の間の因果関係を主張するためには、更なる検証が必要で安易に主張すべきではありません。 それに、ある仮説が正しいかどうかとその主張者や批判者の政治的主張は関係ありません。 相対性理論が正しいかどうかと、アインシュタインが原子爆弾の開発に協力的だったかどうかは何の関係もありません。 それを問題にするのは「対人論証」という誤謬の一種であり、排除すべきであるからです。 従ってニセ科学批判者がネトウヨであったとしても、その批判が正しいかどうかには影響しません。

ニセ科学批判者は権威主義、体制擁護、ネトウヨで歴史修正主義者ではありませんか?

 「権威主義」、「体制擁護」、「ネトウヨ」、「歴史修正主義」とは本来別の概念であり、「ニセ科学批判」とは関係ありません。 もし「権威」、「体制」、「ネトウヨ」、「歴史修正主義者」といった人達が科学的思考に基づいて主張しているのであれば、この人達と「ニセ科学批判者」には相関関係があるかもしれません。 だからと言って相関関係から因果関係を導くのは「虚偽の原因の誤謬」という誤謬を犯しています。 因果関係を主張するためには、その根拠を示さねばなりません。 根拠を示さないままで因果関係を主張する場合、「ステレオタイプ」という認知バイアスが疑われます。

「ニセ科学批判者は全てネトウヨだ」という主張は正しいですか?

 カール・セーガン博士はニセ科学批判者でしたが、彼がネトウヨであったという話は聞いたことがありません。 残念ながら、「全てのニセ科学批判者はネトウヨである」という主張は「早まった一般化」と「誤った二分法」という誤謬を二重に犯しており、誤りです。

ニセ科学批判をするとネトウヨが喜びます。ネトウヨを喜ばすようなニセ科学批判はやめるべきではありませんか?

 「ある言説が正しいかどうか」を「ネトウヨが喜ぶかどうか」で判断するのは、「結果に訴える論証」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者はネトウヨの言動に正当性を与えています。責任を取るべきではないですか?

 「ネトウヨ」の定義は曖昧です。 責任を追求するためには、具体的にどのような言説が問題であるか、 そしてその言説がニセ科学批判者と何故因果関係があるのかを説明する必要があります。 仮に特定の言説との因果関係が立証されたとしても、民主主義社会では「思想の自由」や「言論の自由」が保証されています。 ネトウヨの言動に正当性を与えてるのはニセ科学批判者ではなく、「表現の自由」という理念でしょう。

ニセ科学批判者には反知性主義の傾向がありませんか?

 ニセ科学批判者は「疑問を持つ」という科学的思考の原点を忘れてはならず、「権威に訴える論証」に陥らないようにしなければなりません。 そもそも「反知性主義」とは必ずしもネガティブな発想方法ではありません。 ホフスタッターは著書『アメリカの反知性主義』において「反知性主義がアメリカ社会・政治体制において重要なものである」こと論じ、それによってピューリッツァー賞を受賞しています。 カール・セーガン博士もトンデモ話検出キットにおいて、次のように述べています。

「権威の言うことだからといって当てにしないこと。権威はこれまでも間違いを犯してきたし、今後も犯すかもしれない。」

 従って「ニセ科学批判者には反知性主義の傾向があるのではないか」という主張は間違いではありません。 自然科学ばかりでなく社会科学においても「常識に囚われない柔軟な見方」をする教育が重視されています。 権威に囚われていては自然科学ばかりでなく、社会科学も発展しないのです。 それ故にニセ科学批判者に反知性主義の傾向があったとしても問題ありません。

 もっとも「反知性主義」という言葉の定義自体が曖昧で、 論敵を非難するための「バズワード」として使用されているのではないかとも疑われています。 「反知性主義」とは「バカ」とか「ネトウヨ」とかと同じ意味だと主張する人もいます。

ニセ科学批判者は過去に「XXXX」のような主張をしました。このような主張をするニセ科学批判運動には問題がありませんか?

 ニセ科学批判者が過去にどのような主張したのかは人それぞれです。 民主主義社会では表現の自由がありますので、ニセ科学批判者も仮説を主張する事ができます。 その人がどのような主張をしようと、ニセ科学批判者として主張したのではなく、仮説の提唱者として主張したものです。 仮説は正しい事もあれば間違っている事もあり、例え間違った主張をしたとしても恥ずべき事ではありません。 アインシュタインが静止宇宙を主張したように、間違いは誰にでもあるからです。 それに、ニセ科学批判者は主張者の過去の発言を問題にしてはいけません。 何故ならば、それを問題にするのは「対人論証」という誤謬の一種であり、排除すべきであるからです。

ニセ科学批判者は間違いを犯しても「間違えちゃった。テヘヘ。」で済ましています。このような者たちの主張は信用できないのではありませんか?

 ニセ科学批判者も人間ですので、人間が陥りやすい認知バイアスや誤謬から逃れる事はできません。 それに仮説は正しい事もあれば間違っている事もあり、例え間違った主張をしたとしても恥ずべき事ではありません。 間違いを恥じるようでは萎縮して新しい提案がされなくなり、科学が発展しないという本末転倒の結果になってしまいます。 従ってニセ科学批判者は、過去の発言の間違いなど恥じる必要はありません。 重要な事は間違いを認め、同じ間違いをしない事です。 それに間違いを認めた人間は同じ間違いをしないため、間違いを認める事のない人間の主張よりも信用できるでしょう。

ニセ科学批判者は批判さえすれば社会問題が解決できると思っていませんか?

 ニセ科学批判者がどのような結果を期待しているかは人それぞれですので、わかりません。 しかしある主張が正しいかどうかと、その主張が生み出す社会問題を解決する方法を考えるのは別の問題です。 これを問題にする行為は「結果に訴える論証」という誤謬を使用しており、排除すべきです。 ニセ科学批判者は、結果を問題視する事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。 従って、ニセ科学批判者に対して社会問題の解決方法の提案を期待しても無駄です。

ニセ科学批判がXXXXを主張する人達を生み出しているのではありませんか?

 これは恐らくXXXXという主張が科学的思考に基づいているのが原因だと思われます。 その場合、どちらも科学的思考に基づいている事からニセ科学批判者とXXXXの主張者の間に相関関係が現れます。 しかし、相関関係と因果関係は区別しなくてはなりません。 相関関係から「ニセ科学批判がXXXXの主張者を生み出している」と主張するのは、「虚偽の原因の誤謬」という誤謬を犯しています。 因果関係を主張するためにはこの誤謬を排除するため、詳細な検証作業が必要になります。 検証作業をしない限り、ニセ科学批判がXXXXという主張の原因となっているとは主張できません。
 ニセ科学批判者とは、本来根拠薄弱な仮説を批判する人達です。 民主主義社会においては言論の自由がありますので、同じ人間がXXXX(例:「低線量被爆は健康被害が無い」)を主張する事もできます。 XXXXの主張者とニセ科学批判者の間には相関関係が見つかるかもしれませんが、因果関係があるとまでは言えません。 それに仮説の主張者はむしろニセ科学批判者から批判される側の人間となりますので、 ニセ科学批判者として主張しているのではありません。 従ってニセ科学批判者かどうかとは関係なく、その主張の問題点を指摘すれば良いでしょう。

ニセ科学批判者は世の中の人間を「科学側」と「ニセ科学側」に二分されるとでも考えていますか?

 世の中を「科学側」と「ニセ科学側」に二分して考えているニセ科学批判者がいるとすれば、 その者は確かに「誤った二分法」という誤謬を犯しています。 「科学的思考」と対立する思考には、 権威主義独断主義集団思考タブロイド思考呪術的思考精神論感情論、 など様々な思考方法が存在します。 この中で「独断主義」はニセ科学と言っても良いですが、 その他の思考は認知バイアス誤謬を生み出す原因となっているだけで、 いわゆるニセ科学とはされていません。 その者は「ニセ科学」という言葉の意味を単に「科学的でない思考」と定義しているのかもしれませんが、 用語を勝手に自分だけの意味で定義するのは、科学的思考の世界では許されません。 世の中を「科学側」と「ニセ科学側」に二分して考えているニセ科学批判者がもしいるとすれば、 その者は「ニセ科学とは何か?」という科学哲学における深遠なるテーマと向き合わなければなりません。

ニセ科学批判は教祖の思想に同調した画一化した思想ではありませんか?

 教祖の思想に同調した画一化した思想の人達は「権威主義」に陥っており、疑問を持つ事のない人達です。 疑問を持たない人達は既に科学的思考が停止しており、即ちニセ科学批判者とは対極にある人達です。 従って「ニセ科学批判は教祖の思想に同調した画一化した思想だ」という主張は誤りです。 こういう誤った推論をする原因は、「外集団同質性バイアス」が働いている事が疑われます。 誤った推論習慣を許容し続けるべきではありませんので、一度「社会心理学」を学習された方が良いでしょう。

ニセ科学批判者は原因も対策も見つけ出せない無能集団ではありませんか?

 この質問には「原因も対策も見つけ出せない者たちは無能である」という隠された前提が有り、「論点先取」という誤謬を犯しています。 無能集団であるという推論には妥当性は有りますが、健全性が有りません。 健全性を確保するためには、隠された前提が真である事を主張する側が証明しなくてはなりません。 従って質問者がその主張を立証しない限り、「無能集団である」が正しいとは言えません。 しかも、その隠された「無能でない者は原因か対策を見つけ出す」という主張自体も「結果に訴える論証」という誤謬を犯しています。 そもそもニセ科学批判者とは根拠薄弱な仮説を批判する人達であり、原因や対策を考える人達ではありません。 原因や対策を考える人達はむしろ仮説を主張する側の人間であり、批判側の人間ではありません。 それにどのような問題に関心を持つかは個人の自由ですので、原因や対策の主張を強制すべきではありません。

ニセ科学批判者は科学を民主主義より上位の審級にしていませんか?

 民主主義の手続きに沿って投票によって「神州は不滅である」という決議が下された所で、 日本が戦争に勝つ事はありません。 ニセ科学批判者が科学を民主主義より上位の審級にしているという主張は間違いではありません。 しかし、客観的真理を追求している場合には、それで問題はありません。 何故ならば「客観的真理」とは多数決で決定する概念ではないからです。

ニセ科学批判者はニセ科学批判批判を悪として撲滅しようとしていませんか?

 悪かどうかを科学的に検証する方法など有りません。 主張が正しいかどうかを判断する際に悪の撲滅を目指す行為は「道徳主義の誤謬」という誤謬を犯しています。 従って、悪の撲滅を追求している時点でその者達はもはやニセ科学批判者とは言えません。 ニセ科学批判者は、道徳主義に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。 ニセ科学批判批判を悪として撲滅しようとするようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「道徳主義の誤謬」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。

ニセ科学批判者は現代科学を聖書のように考え、その信用・権威を悪用し、科学に疑いを向ける人間を社会秩序を乱す悪人と考えていませんか?

 ニセ科学批判者は「疑問を持つ」という科学的思考の原点を忘れてはいけませんので、現代科学を聖書のような「疑ってはならない教え」であると考えてはなりません。 また、「権威に訴える論証」に陥らないようにしなければなりませんので、現代科学の信用・権威を悪用してはなりません。 また、「対人論証」という誤謬に陥らないようにしなければなりませんので、科学に疑いを向ける人を問題視してはいけません。 また、「道徳主義の誤謬」に陥らないようにしなければなりませんので、反対意見を述べる者を悪人と考えてはいけません。

ニセ科学批判は科学を絶対視する振興カルト宗教ではありませんか?

 確かに科学には、科学的思考という観念体系に基づき、科学的成果という「教義」が有り、科学的手法という「戒律」も有り、観念体系に基づいた組織や施設も存在します。 そうすると、「宗教」とは一体何かという議論になります。 ウィキペディアでは「一般には自然の力や人間の力を越えた観念」であると説明されています。 人間の脳で理解できる「科学」という観念は、一般的な意味においては宗教には該当しません。 従って常識の範囲内では「ニセ科学批判は科学を絶対視する振興カルト宗教だ」という主張は誤りです。 ちなみに「カルト」というのは、「悪しき集団」であることを明確にするために用いられる通俗用語です。 このような「恐怖に訴える論証」に基づいたプロパガンダを行う事の道徳判断を正当化するためには、ニセ科学批判が悪しき集団である事の立証責任があるでしょう。 立証しないままでこのような批判をしても道徳的に許されてると考えている場合、 自分たちのモラルがニセ科学批判者達よりも高いという幻影に囚われて、 「モラル信任効果」という認知バイアスが働いている事が疑われます。

ニセ科学批判者はナショナリズムに傾倒し、歴史問題を無視していませんか?

 歴史学が追求すべき真理とは「政治的真理」でも、「実用的真理」でも「道徳的真理」でもありません。 自然科学と同じ「客観的真理」であり、従ってニセ科学批判の対象とされるべきです。 ナショナリズムは「正常性バイアス」、「感情バイアス」、「内集団バイアス」等の認知バイアスを生み出す原因ですので、 ニセ科学批判者はナショナリズムを排除して歴史の真実を追求すべきでしょう。 社会科学や人文科学が「科学」の名が付いているのは、それらの学問が「科学」の一種であり、ニセ科学批判者の批判対象であるべきなのです。 しかし、人間がどのような問題に興味を持つべきかは民主主義社会においては自由ですので、干渉すべきではありません。

ニセ科学批判から戦争犯罪の国家責任を認めないところまでの距離は実に近いのではありませんか?

 戦争犯罪には以下の二種類があります。 前者については戦争に関わった個人の罪であり、ニセ科学批判者が何を主張しようがそれは国家責任ではありません。 後者についてはニセ科学批判者が何を主張しようが、それは国家犯罪でしかありません。 即ち、「戦争犯罪の国家責任を認めないところ」とニセ科学批判との接点など存在せず、 その二つの距離は実に遠いと言えるでしょう。

ニセ科学批判者はナチスに親和的なのではありませんか?

 ナチスを支持する者は社会的に瞬殺されますので、ナチスに親和的なニセ科学批判者は実名では存在しません。 それよりも「ゴドウィンの法則」に従い、 ナチスに関する比喩がされた時点でその議論は停止し、関係者を対処すべきでしょう。

歴史修正主義をスルーしておいて疑似科学を批判しても無意味、ということにそろそろニセ科学批判クラスタは気づかれましたか?

 確かに歴史問題とは科学的思考が最も必要な問題であり、ニセ科学批判者はスルーすべきでない事にそろそろ気付くべきでしょう。 しかしそれを理由に「疑似科学批判が無意味だ」と主張するためには、両者の因果関係を説明せねばならず、「論点先取」という誤謬を犯しています。 隠された前提を証明しない限り、「疑似科学批判が無意味だ」という推論には妥当性は有りますが、健全性が有りません。 またその隠された「疑似科学批判の意味に気付く者は歴史修正主義をスルーしない」という主張も、「結果に訴える論証」という誤謬を犯しています。 いずれにしろ、人間がどのような問題に興味を持つべきかは民主主義社会においては自由ですので、干渉すべきではありません。 ところで、この質問は「多重質問の誤謬」という誤謬を犯していますので、 質問に答える事自体が誤謬となります。 また、「疑似科学をスルーしておいて歴史修正主義を批判しても無意味、ということにそろそろ歴史修正主義批判クラスタは気づかれましたか?」などと質問を返すのも誤謬です。 ニセ科学批判者が誤謬を排除するためには、この質問はスルーしなくてはなりません。

ニセ科学批判者がナショナリズムを排除して歴史修正主義に対処するためにはどうすれば良いですか?

 歴史修正主義を批判するためにはまず、以下の概念について知っておく必要があります。
  1. 「歴史修正主義」とはどのような概念か?
  2. 歴史修正主義を判断するための「歴史学の手法」とはどのような方法か?
  3. 歴史とはどのように修正されるのか?
  4. 歴史修正主義をどのように判断すれば良いのか?
これらを簡単に説明し、 歴史修正主義を判定するための方法を提示しますので、 興味のある方は「疑似科学批判者のための歴史修正主義研究入門」を参照して下さい。 また、「歴史の真実に至る議論」をするにはどうすべきかも説明しますので、 興味のある方は「歴史の真実に至る議論の方法入門」を参照して下さい。

XXXXを筆頭とする最近の「右傾したニセ科学批判人士」たちがYYYYのトンデモぶりに言及したがらないのは何故ですか?

 この質問には、次のような複数の主張が隠されており、論点先取となっています。
  1. 「XXXXを筆頭とする最近のニセ科学批判人士たちは右傾している」
  2. 「YYYYはトンデモである」
  3. 「ニセ科学批判人士たちは積極的にYYYYを批判しない事に対し、その理由を説明すべきである」
また、その隠された主張には複数の人格批判が含まれています。 これらの主張はこの質問をする側が、質問をする前に正しい事を立証する責任があります。 立証されない状態でこの質問に答える事は、「多重質問」という誤謬を犯す事になり、人格批判を認める事になります。 ニセ科学批判者が誤謬を排除するためには、この質問もスルーしなくてはなりません。

ニセ科学批判に限界があるのは自明ですよね?なぜなら科学的に合理的のみを追求する社会、それを理想型として構築する事自体が矛盾した発想です。どこかで「合理性を越えた判断」をしているのが文化です。

 「ニセ科学批判に限界があるのは自明である」、 「科学的に合理的のみを追求する社会、それを理想型として構築する事自体が矛盾した発想である」、 「どこかで合理性を越えた判断をしているのが文化です」という主張はそれぞれ真であると言えるでしょう。 しかしこれらの主張を組合せて質問を作成した場合、 「ニセ科学批判とは、科学的に合理的のみを追求する社会を理想型として構築する運動である」という隱された主張が質問に含まれており、「論点先取」という誤謬を犯しています。 この主張はこの質問をする側が、質問をする前に正しい事を立証する責任があります。 立証されない状態でこの質問に答える事は、「多重質問」という誤謬を犯す事になります。 ニセ科学批判者が誤謬を排除するためには、この質問もスルーしなくてはなりません。

ニセ科学批判が失敗する大きな理由として考えられるのは、ニセ科学をニセだと判定する側=マジョリティーの科学がまさしく権力者・支配者側にある、という印象を与えるからではないですか?ニセ科学には、被抑圧者からのカウンターだという面があります。問題として大きいのは、知の権力構造でしょう。

 ニセ科学批判の何をもって成功或いは失敗を判断するかというのは人それぞれです。 「何が真理であるか」を明らかにすれば成功であると考える人が多いのではないかと思われますが、 ここでは文脈から「ニセ科学の信者がニセ科学批判により改心しなければ失敗である」と仮定します。 哲学者フランシス・ベーコンは、 「人間の知性は、4つのイドラによって、一旦思い込んでしまうと、全ての事をそれに合致するように作り上げてしまう性向を持つ」と考えました。 人間は自分の信念に対して何らかの思い入れが有るのが普通であり、その執着の強さが時に非合理的となるのは珍しい現象ではないのです。 その場合、合理的な理論によって説得しても「否認」と呼ばれる「防衛機制」が現れ、それらの意見は却下されます。 ニセ科学批判が失敗するのは、このように人間の思考が本来持っている防衛機制が原因であり、 「ニセ科学批判が権力者・支配者側にある」という印象を与えるからではありません。 そのような印象を全く与えない者が説得しても、同様に否認されるはずです。

ニセ科学批判が失敗するのは常識人が何故ニセ科学を信じるのかを、常識人ではないニセ科学批判者には理解できないからではないですか?

 人間が何故ニセ科学を信じるのかの理由は心裡学からかなり明らかにされており、人間の思考が本来持っている傾向が原因だとされています。 それは「論証よりも、確証を信じる」、「都合の悪い説よりも、都合の良い説を信じる」、「一般化し過ぎる」、「因果関係を考えるより、似たような事例と同じ原因だと考える」というような傾向です。 そしてニセ科学批判が「失敗」するのも、やはり人間の思考が本来持っている防衛機制が原因とされています。

ニセ科学批判者は、何故ニセ科学を信じている人達が改める必要があるのか、その大義を示すべきではありませんか?

 ニセ科学批判者の目的は人それぞれですが、真偽を明らかにする事が目的である人が多いでしょう。 ニセ科学を信じている人達への判断材料を示す事はできますが、人間の心を変える事まではできません。

ニセ科学批判者はそんな小さな問題よりも、もっと重要な問題を批判すべきではありませんか?

 ニセ科学批判者がどのような問題に関心があるかは人それぞれですので、わかりません。 しかし、主張が正しいかどうかを判断する際に関係の無い問題を持ち出す行為は「更に重要な問題の存在に訴える誤謬」という誤謬を犯しています。 ニセ科学批判者は、「更に重要な問題の存在に訴える誤謬」に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。 従って、ニセ科学批判者に対して他の問題を提案しても無意味です。

科学では解明されていない問題がたくさん有ります。ニセ科学批判者は科学を振りかざすべきではないのではありませんか?

 ある主張が正しいかどうかと、科学では解明されていない問題がたくさん有る事は別の問題です。 それに科学が完璧でない事を理由に主張を退ける主張は「科学の不完全性に訴える誤謬」という誤謬も犯しています。 ニセ科学批判者は、「科学の不完全性に訴える誤謬」に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。 従って、ニセ科学批判者に対して科学の限界について批判しても無意味です。

疑似科学狩り界隈の人達は冷笑界隈の人ですか?

 疑似科学狩り界隈の人達が冷笑界隈の人かどうかは人それぞれですので、わかりません。 いずれにしろ冷笑するかどうかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。 それにニセ科学批判の真偽を「冷笑するかどうか」で判断する行為は、「論調に訴える論証」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者は善人ぶるために他者を攻撃していませんか?

 ニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、わかりません。 いずれにしろ善人ぶるかどうかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。 それにニセ科学批判の真偽を「善人ぶるかどうか」で判断する行為は、「論調に訴える論証」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者の中には攻撃性の高い人がいませんか?

 ニセ科学批判者の中にはいろいろな方がいますので、確かに攻撃性が高い人も存在します。 いずれにしろ攻撃性が高いかどうかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。 それにニセ科学批判の真偽を「攻撃性が高いかどうか」で判断する行為は、「論調に訴える論証」という誤謬を犯しています。 それに攻撃性が高いニセ科学批判者が存在しているという理由でニセ科学批判全体を否定する推論は「連座の誤謬」という誤謬も犯しています。

ニセ科学批判者は自己実現のために批判しているのではないですか?

 恐らく自己実現のためではなく、「知的なノブレス・オブリージュ」を果たそうとしているのではないかと考えます。 しかしニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、自己実現のために批判しているかどうかはわかりません。 また、自己実現のために批判しているという理由でその論証を排除する行為は、「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者は優越感に浸りたいために他者を攻撃していませんか?

 ニセ科学批判者の目的や動機が何かは人それぞれですので、わかりません。 いずれにしろ批判の目的や動機が何であるかは、その批判が正しいかどうかには影響しません。 優越感に浸りたいから攻撃している、という理由でその論証を排除する行為は「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。 ニセ科学批判者とは主張者の動機や目的などどうでも良い人達であり、彼らの動機や目的を詮索しても無意味です。 それに優越感に浸りたいニセ科学批判者が存在しているという理由でニセ科学批判全体を否定する推論は「連座の誤謬」という誤謬も犯しています。

ニセ科学批判者は本業でふるわないから、ニセ科学批判をして自分を維持しているのですか?

 ニセ科学批判者の本業がどのような成果を上げているかは人それぞれですので、わかりません。 ただ、自分を維持するために批判しているという理由でその論証を排除する行為は、「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者は批判する事でプライドをゲットしているのですか?

 ニセ科学を批判する程度でプライドがゲットできるとは考えにくいのですが、 いずれにしろニセ科学批判者が批判する事でプライドをゲットしているかは人それぞれですので、わかりません。 ただ、プライドをゲットしているという理由でその論証を排除する行為は、「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者とは人を傷つけて喜んでいる人たちですか?

 ニセ科学批判者は真実を追求します。 知りたくない真実を明かす事によって人が傷つく事は確かによく有ります。 しかし、例え傷ついたとしても人間は真実を知るべきです。 人間は架空の世界ではなく、真実の世界で生きていかなくてはなりません。 ニセ科学批判者が人を傷つけて喜んでいるかどうかは人それぞれですので、中には喜んでいる人もいるかもしれません。 いずれにしろ人を傷つけて喜んでいるという理由でその論証を排除する行為は、「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者は批判する事にエクスタシーを感じるから批判しているのですか?

 ニセ科学批判者が批判する事にエクスタシーを感じているかは人それぞれですので、わかりません。 ただ、エクスタシーを感じているから批判しているという理由でその論証を排除する行為は、「動機に訴える論証」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者はニセ科学が悪意の産物だから批判しているのですか?

 悪意があるかどうかを科学的に検証するのは、なかなか困難な作業です。 そもそも、主張が正しいかどうかを判断する際に悪意があるかどうかを批判の基準にする行為は「悪意に訴える論証」という誤謬を犯しています。 従って、悪意の産物だから批判している時点でその者達はもはやニセ科学批判者とは言えません。 ニセ科学批判者は、道徳主義に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。 悪意の産物だから批判するようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「悪意に訴える論証」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。

ニセ科学批判者は当局と親和性が高い「御用」ではありませんか?

 これは「当局」と呼ばれている人達がどのような思考に基づいて主張しているかという議論になります。 もし「当局」が科学的思考に基づいて主張していない人達であれば、この主張は間違いです。 しかし「当局」が科学的思考に基づいて主張している人達であれば、「ニセ科学批判者は当局と相関関係がある」事は否定できません。 因果関係までは主張できませんが、「親和性が高い」という主張は間違いではないでしょう。 ただし、「御用」であるかどうかはまた別の問題です。 ニセ科学批判者の動機や目的は人それぞれですので「御用」かどうかも人それぞれです。 ところで根拠もなく論敵を「御用」であると主張する場合、「御用認定」という誤謬を犯しています。

被爆安全デマを流すニセ科学批判者は政府や東京電力の「御用」ではありませんか?

 被爆安全説がデマかどうかは、科学的に検証されねばなりません。 主張の根拠を検証しないまま論敵を「御用」であると主張する場合、 「御用認定」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者にとって科学の本質とは合理性ですか?

 科学においては仮説を検証する過程において、仮説の根拠となる「理由付け」に「合理性」があるかどうかのチェックが重要になります。 そして「感情による理由づけ」や、 「動機のある理由付け」がされていないかをチェックする必要があります。 確かに合理性は科学にとって重要な概念の一つですが、全てというわけではありません。 科学的方法の本質とは、疑問生成、仮説提案、検証のサイクルが機能して、現象に対する理解が確実に深まっていく事です。 全ての科学的方法の原動力は「疑問を持つ」事ですので、これが科学の本質であると言えるでしょう。

ニセ科学批判者が目指すべき議論とはどのような議論ですか?

 ポール・グラハムは反論の品質レベルを7つの階層に分類しました。
  1. 論点の核心部分について議論する(主張を理解し、有意義な議論を行う)
  2. 主張の誤りを例を挙げて指摘する(主張を理解しようとし、間違いを証明しようとする)
  3. 反対意見の理由を証拠を挙げて主張する(主張は理解していないが、その主張の対案を出す)
  4. とにかく反例を挙げる(主張は理解していないが、有意義な反例となる可能性がある)
  5. 主張者の論調を批判する(主張は理解していないが、少なくとも主張を聞いている)
  6. 主張者の人格を批判する(主張を聞いていないが、少なくとも主張者を観察している)
  7. 主張者を誹謗中傷する(主張者を観察する事も無く、主張を却下)
 ニセ科学批判者が目指すべき議論とは、この反論の品質レベルを一つでも上げようと努力する事でしょう。 少なくとも5〜7のレベルの議論は誤謬であり、有意義な議論につながる事はありません。 「フィンランドの小学生が作った議論のルール」も役に立つ指針ですので、紹介します。
  1. 他人の発言をさえぎらない
  2. 話すときは、だらだらとしゃべらない
  3. 話すときに、怒ったり泣いたりしない
  4. わからないことがあったら、すぐに質問する
  5. 話を聞くときは、話している人の目を見る
  6. 話を聞くときは、他のことをしない
  7. 最後まで、きちんと話を聞く
  8. 議論が台無しになるようなことを言わない
  9. どのような意見であっても、間違いと決めつけない
  10. 議論が終わったら、議論の内容の話はしない

ニセ科学批判とは理系カルトがニセ科学批判の仮面を被って教義を宣伝しているのではありませんか?

ニセ科学批判者は幼稚な万能感に支配されたネトウヨと同じ。そんな連中の主張など、検討する価値もないのではありませんか?

ニセ科学批判者は現実が見えていない知恵遅れ。脳みその出来が単純で思慮が足りない人達ではありませんか?

 残念ながら、批判のレベルが最低の「誹謗中傷」レベルまで落ちています。 どのような意見であっても間違いと決めつけず、 議論が台無しになるようなことを言わないようにして下さい。

ニセ科学批判の学者達は人間性そのものに問題がありそうだ。これでは専門分野に関する言説も信用できない。学者と言える人物など存在しないのではないですか?

 ニセ科学批判の学者達の権威を否定するためにこのような理由付けを行うのは「バルヴァー主義」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判者はかなりの割合で「科学は絶対的に善であり、間違うことはない」と無自覚に思っている印象があります。人の心を「科学」という言葉でねじ伏せようとするとこうなるのでしょうか?

 ニセ科学批判が判定するのは真偽であって善悪ではありませんし、それで人の心をねじ伏せる事もできません。ニセ科学批判者の人格を否定するためにこのような理由付けを行うのは「バルヴァー主義」という誤謬を犯しています。

ニセ科学批判こそがニセ科学ではありませんか?

 「ニセ科学批判」が「ニセ科学」であると主張するためには、 「ニセ科学」とはどのような概念であるかを定義した上で、何故「ニセ科学批判」が「ニセ科学」であるかの根拠を示さねばなりません。 それをしないままでこの主張を行う場合、 「定義の誤謬」を用いた「相関の抑圧」という誤謬を犯しています。

科学とは成果の積み重ねのはずです。ニセ科学批判こそがこれまでの成果を否定するニセ科学ではありませんか?

 アインシュタインはそれまでの成果を否定して相対性理論を提案しただけでなく、同時期に提案された「量子力学」をニセ科学だと批判しました。 アインシュタインはニセ科学批判者でもありましたが、もちろんニセ科学者ではありません。 成果を積み重ねていく方法は確かに「演繹法」という古典的な科学的思考の一つで、同じパラダイムの中では有効です。 しかし、既存の成果を盲目に信じる行為は「権威に訴える論証」、「衆人に訴える論証」、「伝統に訴える論証」、「自然主義の誤謬」などの誤謬を複合的に犯している可能性があります。 「学問の父」とされるアリストテレスは「知には常に何らかの前提が存在していることを否定せず、ある事を確信している場合、その前提となっている理由はその都度問われても良い」と考えました。 学問においては古代ギリシアの時代から既存の成果を盲目に信じる行為は禁じられていたのです。

 それに近代以降ではそれまでの成果に縛られる事なく新仮説を提案して検証し、既存の成果をも否定していく「仮説形成」という方法が科学的思考の主流に変わりました。 これによって科学はパラダイムシフトを繰り返しながら発展していくようになりました。 その代わり、ニールス・ボーアが「ベータ崩壊においてエネルギー保存の法則が成立しない」と主張したように、科学者達がトンデモ仮説を打ち出してはそれが否定されるという光景は珍しくなくなりました。

ニセ科学批判者はXXXXぐらいは理解してから批判すべきではありませんか?

 ある批判が正しいかどうかと、XXXXを理解すべきかどうかとは別問題です。 このように主張をするためには、何故XXXXを理解しなければ批判ができないのかという理由の説明が必要です。 主張が正しいかどうかを判断する際に関係の無い問題を持ち出し、それを理解しない者には批判の資格がないと主張する行為は「論点のすり替え」と「対人論証」という誤謬を二重に犯している可能性が有るからです。 それにXXXXを理解する過程において「可用性ヒューリスティック」という認知バイアスに囚われる可能性があり、それを知らない観点での意見も重要です。 ニセ科学批判者は、論点をすり替えたり対人論証に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。 従って、ニセ科学批判者に対して「XXXXを理解してから批判すべきだ」と言う主張を理解させるためには、何故それを理解しなければ批判する資格がないかの理由を説明する必要があります。

ニセ科学批判とは科学主義を利用した通俗道徳主義ではありませんか?

 人間が陥り易い誤謬の一つに「道徳主義の誤謬」や「モラルに訴える論証」があります。 「道徳主義の誤謬」とは、道徳的に問題のある主張を間違いとする誤謬で、 「モラルに訴える論証」とは、論敵よりも自分たちのモラルが高い事を理由に正しい事を訴える誤謬です。 ニセ科学批判者が認知バイアスや誤謬を正しく排除するためには、その「道徳主義の誤謬」や「モラルに訴える論証」を排除しなくてはいけません。 また、道徳を追求する事により「同情論証」に陥る危険性もあります。 即ち、ニセ科学批判者が追求すべきは客観的真理であり、道徳など追求してはいけません。 従って「ニセ科学批判とは通俗道徳主義である」という主張は誤りです。

ニセ科学批判者は科学の物差しだけを正義とし、他者を見下していませんか?

 主張が正しいかどうかを判断する際に正義を追求して他者を見下す行為は「道徳主義の誤謬」や「モラルに訴える論証」という誤謬を犯しています。 従って、正義を追求している時点でその者達はもはやニセ科学批判者とは言えません。 ニセ科学批判者は、道徳主義に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。 正義を振りかざすようなニセ「ニセ科学批判者」に対しては、主張を批判している根拠を検証し、それが「道徳主義の誤謬」や「モラルに訴える論証」という誤謬であると批判すれば良いでしょう。

ニセ科学批判者が倫理的要請を考慮しないのは何故ですか?

 主張が正しいかどうかを判断する際に倫理的要請を考慮する行為は「モラルに訴える論証」や「道徳主義の誤謬」という誤謬を犯す可能性があります。 また、倫理的要請を考慮する事によって「同情論証」に陥る危険性もあります。 ニセ科学批判者は、感情バイアス道徳主義の誤謬同情論証自然主義的誤謬等に陥る事なく認知バイアスや誤謬を排除しなくてはいけません。 ニセ科学批判者とは倫理的要請を考えてはいけない人達であり、彼らに倫理的要請をしても無意味です。

ニセ科学批判者は倫理的要請を考慮しなくても良いのですか?

 倫理的要請があるとすれば、「客観的真理を主張する仮説だけを批判対象とする」、 並びに「人身攻撃などの誤謬は犯さない」という基本ルールだけです。 「客観的真理」が主張されている場合、倫理的要請を考慮しなくても構いません。 何故ならば「客観的真理」とは倫理的要請で決まる概念ではないからです。 即ち、ニセ科学批判に対する倫理的要請など上述の基本ルール以外には存在しません。

ニセ科学批判者とは人権問題に冷淡な人達ですか?

 客観的真理を追求するためには倫理的要請を排除する必要があります。 人権問題への配慮は一種の倫理問題ですので、「ニセ科学批判者と人権問題に冷淡な人達には相関関係がある」という主張に間違いはありません。 ニセ科学批判とは人権侵害を防ぐ事を目的とした運動ではありません。 しかし批判対象以外の問題について、同様な態度を取るわけではありません。 人権問題に熱心なニセ科学批判者も存在しますので、因果関係までも主張するためには更なる検証が必要でしょう。

ニセ科学批判者とは科学的に民族の優劣が判定できたら、他民族を滅ぼしてもかまわないような人達ですか?

 前提が間違っていますので、論理的にはどのような結論も正しいと言えます。 そもそも「民族」という概念の確立には遺伝子等の生体的な因子ではなく、社会的なアイデンティティを共有できるかどうかが重要です。 人間の性格ですら科学的に原因がわかっていないのに、「民族の優劣性」などという社会的かつ抽象的な概念を、遺伝子等を用いて科学的に判定しようとする時点で、それは疑似科学だと言えるでしょう。 そのような疑似科学を信じる者達こそが、民族の優劣思想に取り憑かれ、他民族を滅ぼしてもかまわないという思考に陥るのです。 ニセ科学批判者は、そのような疑似科学を排除しなくてはいけません。

ニセ科学批判者とは科学的に「不要である人間」は殺しても構わないような人達ですか?

 「優生学」の研究は、現在タブーとなっています。 仮に人間の優劣を科学的に判断する何らかの方法が存在しても、劣った人間を殺しても良いという理由にはなりません。 殺しても構わないと判断するのは歪んだ「科学」ではなく、人間の歪んだ「倫理」なのですから。 人間の倫理観は人それぞれですので、中には殺しても構わないと考えるような人間がいる可能性はあります。 しかし、それはニセ科学批判者でない者に関しても同様です。

ニセ科学批判者とは科学的に根拠があれば、人間を差別しても構わないような人達ですか?

 それが「科学的根拠」であろうが、人種、民族、宗教であろうが、「差別しても構わないかどうか」というのは倫理上の問題であり、科学上の問題ではありません。 差別しても構わないと考えるような倫理観は排除すべきですが、 人間の倫理観は人それぞれですので、中には差別的な人間もいるかもしれません。 しかし、それはニセ科学批判者でない者に関しても同様です。

倫理よりも合理性を追求するなど、人間として問題がありませんか?

 「集団思考」に陥った場合、 「モラルの幻影」という現象が現れ、 集団固有のモラルに対して絶対的な信頼を持ち、それに対して疑問を持たない傾向があります。 そして彼らの判断がもたらす倫理的あるいは道徳的な結果については、無視する傾向があるとされています。 その結果、次のような危険な傾向が現れます。
  1. 代替案を充分に精査しない
  2. 目標を充分に精査しない
  3. 採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない
  4. いったん否定された代替案は再検討しない
  5. 情報をよく探さない、
  6. 手元にある情報の取捨選択に偏向がある
  7. 非常事態に対応する計画を策定できない
即ち、合理性よりも倫理を追求した場合、集団思考を原因とするリスキーシフトに陥る危険性があるのです。 倫理を追求して「モラルの幻影」に囚われてしまった場合、 例えば文化大革命での「紅衛兵」達のように、 「論敵は悪魔のような者達であり、殺してしまった方が良い」というように、人間として問題のある行動をしてしまう危険性があります。

 社会的に恐ろしい悲劇を生み出すのは暴走する「科学」なのではなく、暴走する「倫理」なのです。 このような事態を避けるためにも、人々が理性的によく考える習慣を身につける事により、社会において倫理が暴走する事を防ぐ事ができるのです。 即ち、倫理よりも合理性を追求する思考は、社会の安定に寄与する思考であり、人間として問題はありません。

ニセ科学批判者は社会的要請を無視していませんか?

 「客観的真理」を追求すべきでない主張に対してニセ科学批判の対象にした者は、社会的、倫理的要請を無視していると批判されても仕方ありません。 しかし、ある仮説が「客観的真理」であると主張されている場合、社会的要請を考慮して「政治的真理」、「道徳的真理」、「実用的真理」などを追求する必要はありません。 何故ならば、「客観的真理」とは社会的要請によって決めるべき概念ではないからです。 それに社会的要請を考慮した場合、「集団思考」に関連した、 チェリー・ピッキング希望的観測道徳主義の誤謬怠惰な帰納年代に訴える論証伝統に訴える論証特例嘆願前提のごまかし無敵の無知論証モラルに訴える論証井戸に毒を入れる誤謬偏見に訴える論証悪意に訴える論証決め付け言葉罵倒の誤謬威力に訴える論証吐き気を催す論証プープーの誤謬衆人に訴える論証、 等の各種の誤謬に陥る危険性があります。 従ってニセ科学批判者は社会的要請を無視しているかもしれませんが、それはむしろ正しい判断です。

ニセ科学批判は社会的に問題はありませんか?

 立証責任は常に説を主張する側にあるのであって、説を批判する側にはありません。 主張する側が批判を受け止めて反論する事により、社会において議論が公開されて真実が明らかにされ、健全な社会が実現されるからです。 実際に量子力学を批判したアインシュタインは法律的にも倫理的にも責任を追求される事はありませんでした。 健全な社会を実現するため、仮説を批判する側には法律的にも倫理的にも何の責任も有りません。 批判に不満があるのであれば、反論すれば良いだけの話です。 批判という行為自体が社会貢献の一つであり、批判が間違っていたところでアインシュタインのように、何ら責任を取る必要もありません。 一般的に言って「疑問を持ち、間違いを正す」という判断は科学者だけでなく人間としてあるべき姿です。 健全な社会を実現するために、誰もが何も恐れる事なく気軽に誇りを持って積極的にニセ科学批判をすべきです。

ニセ科学批判に倫理的問題が無いとすると、ニセ科学批判者はどうして人格攻撃されるのですか?

 ニセ科学批判批判者は何か特定の理由によってニセ科学批判を「悪しき集団」である、と主張しているようには見えません。 しかし、多種多様の人身攻撃や誤謬による攻撃が絶え間なく生成されているのです。 このような現象は奇妙な現象にも見えますが、この現象を状況分析すれば真相が見えてくるのです。 ニセ科学批判者は、彼らが強い動機を持って「善悪を判断する規範意識に照らして批判している」という事を理解する必要があります。 これに対して「ニセ科学批判批判者達が何をしようとしているのか、サッパリわからない」 などと甘く見て放置しておくと、判断を誤る事になるかもしれません。

 ニセ科学批判者の言動はニセ科学批判批判者自身にも説明できない、「嫌悪の知恵」(Wisdom of repugnance)と呼ばれる生理的な嫌悪を生み出しているようです。 その嫌悪感に基づいてニセ科学批判者達を詳細に観察し、様々な種類の人身攻撃がされています。 宗教などであるわけがないニセ科学批判者を「カルト教団」と悪魔化し、 何とか「悪しき集団」という社会的評価がされるように同調現象が起きているようです。 ニセ科学批判者達は、自分達がこのように攻撃される理由がサッパリわからない事でしょう。 これは「知識の呪い」という認知バイアスの一種であり、科学的思考を持つ人達は、科学的思考を持たない人達の考えを想像する事ができないのです。

 実はこのような現象は「議論嫌悪」(Misology)と呼ばれ、ソクラテスを死に導いたように歴史上では頻繁に起きてきた現象です。 現在起きている現象も社会学を少し学べば素人でも説明する事ができます。 ニセ科学批判者の行動は最初は非社会的行動として認識されていただけだったようです。 しかしそれが日本社会の規範を破壊する反社会的行動と認識されるようになり、 「道徳事業家」と呼ばれる「脅威を知覚した者達」によって、 「モラル・パニック」が起こされていると考えられます。

ニセ科学批判者が排斥される理由は何故ですか?

 道徳事業家達が守ろうとしている社会規範の正体とは一体何なのか。 鋭い方であれば上述の内容からもう理解しているかもしれません。 そうです。 この社会には「倫理的要請」や「社会的要請」によって真理とされている「疑ってはならない何か」が存在するのです。 彼らはニセ科学批判者が敵である事を本能的に感じ取っているのでしょう。 その「何か」を守り続けるためには、 ニセ科学批判運動とは存在を許してはならない「逸脱行動」なのですから。 そして実在する社会活動が自然でない事を批判するために使われるのが「道徳主義の誤謬」という誤謬です。 彼らは「モラルの高い位置」に立っているという「モラルの幻影」に囚われ、 「モラル信任効果」という認知バイアスが働いているため、 「モラルハラスメント」をしても許されると考えています。 これがニセ科学批判者がヒドイ言葉で道徳的に批判される原因です。

ニセ科学批判批判はどうして誤謬になるのですか?

 モラルの高い位置に立っているという幻影に囚われた道徳事業家達にとって、 もし自分たちのモラルの方に問題があると社会が判断した場合、社会から排除されてしまう事を知っています。 「ニセ科学批判者が道徳的に劣った悪魔である」というのは、既に結論であり、そうでなければ彼らは存在意義を失ってしまう。 しかし彼らに「科学的思考とは道徳的に問題がある思考である」という根拠を示す事ができるはずがありません。 行き場を失った心の底からの嫌悪感情が、彼らを駆り立てるのです。 そしてニセ科学批判者を毎日観察し、多種多様の道徳批判が絶え間なく生成され続ける。 結論が決まっている以上、批判の理由付けは「合理的な理由付け」ではなく、「動機のある理由付け」となります。 こうしてニセ科学批判者への批判は、全てが誤謬となるのです。

ニセ科学批判批判者は説得できますか?

 説得しようとしている人物が、「守るべき規範」をどの程度意識しているかを把握する必要があります。 これは逸脱者に対して以下のような「同調圧力」をかけているかで判断できます。
  1. ニセ科学批判者に対して物理的に危害を加える旨を通告する
  2. 社会の多数意見に逆らうことに恥の意識を持たせる
  3. ネガティブ・キャンペーンを行ってニセ科学批判者が一部の変わり者であるとの印象操作をする
  4. 「一部のニセ科学批判者が全体に迷惑をかける」と主張する
  5. ニセ科学批判のデメリットを必要以上に誇張する
  6. ニセ科学批判者に対して社会的排除を行う
このような同調圧力をかけている者や、同調圧力に屈して規範を既に内面化してしまった者達の説得は、あきらめた方が良いでしょう。 「ニセ科学批判は、悪徳商法に騙されないようにするために役に立つ」などと説得しても、 既に彼らは独自の道徳に支配されているので、聞く耳はありません。 しかし規範がまだ内面化されていないようであれば、説得する事ができるかもしれません。

ニセ科学批判者とニセ科学批判批判者が対立する理由を一言で説明して下さい

 ニセ科学批判者達が追求すべきは客観的真理のみであり、道徳を追求する事によって誤謬に陥る事を避けねばなりません。 しかし、ニセ科学批判批判者達は客観的真理ではない「何か」が規範として内面化され、それが他者も従うべき絶対的な道徳となっているためです。 これが「ニセ科学批判者はXXXXを批判しない」という道徳批判が延々と繰り出される理由です。 別の言葉で説明すれば、ニセ科学批判批判者にはニセ科学批判者が批判する正当性の根拠である「知的な責任(intellectual responsibility)」という概念が理解できないのです。

ニセ科学批判者はどうして原発推進派やネトウヨとして批判されるのですか?

 ニセ科学批判批判者達にとって原発を批判する事が既に規範として内面化され、 それが他者も従うべき絶対的な道徳となっているためだと考えられます。 歴史修正主義や安部首相も批判しないと批判される理由も同様です。 ニセ科学批判者達が知識人を名乗る以上、 原発や歴史修正主義、安部首相を批判しない者達は彼等にとって許す事ができないのです。

ニセ科学批判者とニセ科学批判批判者は相互理解が可能ですか?

 両者の関係とは、どちらかが社会において正当性を得た時点で、もう一方が正当性を失う関係です。 原発も歴史修正主義も批判しない知識人など彼等にとって存在してはならず、両立はできません。 ニセ科学批判者が批判批判側の思考原理を理解する事は可能ですが、 互いに考え方を理解し合う事はないでしょう。

ニセ科学批判者=ネトウヨというくくりはなるほど雑ですが、一笑に付せる無邪気さは持てません。ニセ科学批判者の性格がネトウヨへと結び付くのではありませんか?

 「ネトウヨ」と呼ばれる人達はどういう人達なのか、定義は非常に曖昧です。 もし両者の間に相関関係だけでなく因果性までも存在するとしたら、 その理由を追求するのは社会学的に非常に面白い課題ですので、興味のある質問であると言えるでしょう。 しかしながら因果性の原因をニセ科学批判者の人格に求めた場合、 「モラルの高い位置」や「人身攻撃」という誤謬を犯す事になります。 もっとも有り得る説明として考えられる仮説は、 「何らかの問題に対して疑問を持ち、論理的思考に基いて客観的真理を追求した場合、 導き出される結論はネトウヨとされている人達の主張と同じになる」という事です。 ちなみに「原発、自民党、日本の中で一つでも好きな物がある者がネトウヨ」と主張する者もいます。 この定義だと社会の大部分が「ネトウヨ」に該当するでしょう。

どうしてニセ科学批判者たちは明らかにそれがニセ科学だとわかっているようなものしか批判の対象にしないのですか?

 なかなか鋭い質問です。 グレーゾーンと呼ばれる領域の批判には調査のために時間がかかりますので、それを対象にできる能力を持つ者は少ないのが実情です。 誰かが批判を始めて知識が蓄積されていけば、多くの者が批判の対象にしていくのでしょう。 しかし、最初にそれを行うのは難しいのです。 最初に批判を始める者が少ないのは、ニセ科学批判者たち自身が「科学とは何か?」及び「科学と疑似科学の区別はどのようにすべきか?」について、あまり理解していない事も一つの原因だと思われます。 そのため、結果的に明らかにそれがニセ科学だとわかっているようなものしか批判の対象にできないのかもしれません。

疑似科学は単なる誤った考え方に過ぎません。疑似科学を否定する人達は一体何を攻撃しているのですか?

 これは非常に本質的な質問です。 多くの者達が誤解しているようですが、疑似科学とは単なる誤った考え方ではありません。 疑似科学のウィキペディア日本語版には「科学と疑似科学の境界線はあいまいであり、一致しないことで悪い名声を持つ」などと書かれていますが、実は単に日本人が知らないだけです。 「科学とは何か?」及び「科学と疑似科学の区別はどのようにすべきか?」について、 英語版に基づいてを分かりやすく明確に説明しますので、興味のある方は「ニュース事例による疑似科学入門〜ニセ科学批判を通した社会科学入門〜」を参照して下さい。 疑似科学が否定されるべき理由がきっと理解できるはずです。


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