歪曲歴史教科書でポリコレ現実逃避するごまかし歴史教育問題
〜社会学者のゴリ押し社会問題〜歴史学者のでまかせ言いくるめ学校教育〜社会学の言い逃れ構築主義〜

歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会科学研究家, 2025.9.3

 学校で必ず教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件を覚えているでしょうか。 しかし実際には高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、歴史書における楽浪郡はその後も存続しています。 即ち、これは歴史資料に基いた根拠など全くないデマカセ歴史です。 歴史歪曲断罪法で禁止すべき「こうだったら説明がつくからいいなぁ」という程度の歴史歪曲主義です。 「歴史学は史料批判に基くから信頼できる」などと信じている者達は騙されています。 実際には何の史料にも記述されていないような作り話をでっち上げ、 「史実」として確定してきたのが日本の歴史学です。 では歴史学者達は学校教育において何故そのようなごまかし歴史教育をする必要があるのでしょうか? それは「楽浪郡が平壌に存在した」という改竄歴史に決して疑問を持つ事がないように言い包めるためです。 SATP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学のパンドラの箱、「100年に渡る組織的な不正研究」に対して決して疑問を抱く事が無いようにして言い逃れるために。 だから子供達を「邪馬台国は日本のどこかにあった」などという口から出任せの愛国歴史ファンタジーで誤魔化して歴史洗脳し、 都合の良い歴史仮説に疑問を持つ事がないように一億総ネトウヨ化してきたのです。 ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに、 子供達を騙し続けて国民を愛国ポルノで洗脳してきたというのが「歴史学者の正体」です。

歪曲歴史教科書でポリコレ現実逃避するごまかし歴史教育問題

 そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、 現代社会の日本のマスコミと社会学者達なのです。 「歴史学の権威」を疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、 歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、 歴史学者達には、もはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで袋叩きにして骨抜きにして言論弾圧し、 子供たちを騙し続けて思考停止させる以外に選択肢がなくなったのです。 何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、 マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。 しかし「歴史学の権威」を用いてマスコミに都合の悪い主張をした途端、 学者達のカードは最弱にされてしまい粛清されてしまうからです。 そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、 「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。 彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、 もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。 「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるためにマスコミの御用学者となって「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「社会学者の正体」です。 「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、 それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、 歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、 歴史問題が解決されないように奔走してきた、 マスコミと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。


 「擬似問題」という言葉をご存知だろうか? 問いを立てる際の暗黙の仮定や前提が誤っていたり、 検証できないものに依拠していたりするため答えがそもそも存在しない問いのことだ。 問いに含まれている誤った前提に気づくことなく、そのまま推論を進めていくと、 矛盾やパラドックスと呼ばれる状況に直面する。 一般にはそうした状況になって初めて、 「これは擬似問題なのではないか」つまり「議論の前提に何か誤りが含まれているのではないか?」と気が付くことになる。 擬似問題はある真性の問題について、その片鱗を掴んだだけの直観から記述されていることが多く、多くのばあい擬似問題は無意味ではなく真性の問題が含まれている。 こうした理由があるため、学術関係者は必ずしも矛盾やパラドックスを忌み嫌いはしない。 むしろ誤った仮定や前提の存在を教えてくれる重要なサインとして、矛盾やパラドックスについて深く考え、何とか「誤った前提」を見出そうと努力するのが「普通」である。 多くの擬似問題は論理的に適切な操作によって「擬似解決」を与えることができるが、 このばあい矛盾やパラドックスは「独断論」という擬似解決に先送りされている。

 しかしどれだけ深刻な矛盾やパラドックスに突き当たっても問題点を考察する事もなく、 「誤った前提」を見出そうと努力する事を絶対にしない、 「普通」ではない思考停止した人達がこの世界には現実に数多く存在する。 それは日本の歴史学者達であり、 日本のマスコミであり、 そしてほぼ全ての日本人だ。 そもそも中国の正史に誰にも分らないような記述がされるはずがない。 歴史書を記述した者は、邪馬台国への行程を誰にでも分るように記述したはずだ。 邪馬台国が誰にも見つからない時点で何かおかしいと考えるのが「普通」だ。 しかし現実の日本社会では、邪馬台国を100年間探し続けて誰にも見つけられなくても、 その原因を追求しようとする動きは出て来ない。 誰もこれが擬似問題である事を疑う事はないのだ。 それだけでなく日本人は自分達の思考回路が「普通」ではない事には決して気付かないのだ。

 「邪馬台国が日本列島に存在した」という仮説は絶対に正しいとされている。 しかしその根拠は実は前漢武帝が前107年に衛氏朝鮮の跡地に置いたとされる「楽浪郡」が平壌にあったという「不動の定説」だけである。 平壌で発見された「楽浪漢墓」などの遺跡は中国系の住民が多数居住していた事の実証にしかならないし、 「楽浪太守封泥」などの遺物も楽浪郡との政治的交流が盛んだった事の実証にしかならない。 これらの考古学的確証では、例え朝鮮半島を支配したとしても「一時的に支配したかもしれない」程度の主張しかできないはずだ。 このような「可能性がある」程度の確証に過ぎない「楽浪漢墓」や「楽浪太守封泥」をもってして、 中国の歴代王朝がBC107年から313年までの江戸時代よりも長い420年もの間、 前漢赤眉の乱後漢黄巾の乱三国時代西晋八王の乱などの激動と波乱の時代を通して、 一貫して朝鮮半島を支配した「絶対的な確証」だと強弁しているのが日本の歴史学者達である。 「楽浪漢墓」や「楽浪太守封泥」等の遺物を説明できる国家は、 わざわざ中国から楽浪郡を朝鮮半島に持って来なくても歴史書の中に存在する。 例えば「万里の長城」建設の苦役から逃亡した「秦人」逹が「馬韓」の東に建国したという「辰韓」等だ。

 中国を統一した隋帝国の皇帝である煬帝は、 「隋の第二次高句麗遠征」において60万の大軍で平壌を攻撃した。 日本史上最大の合戦である「関ヶ原の戦い」は両軍併せても20万人に達しない。 元寇の弘安の役も、文禄・慶長の役の規模もそれぞれ15万人程度である事を考えれば、 中国史上最大規模の遠征軍である。 しかしその隋の大軍は中国と平壌の間にある朝鮮半島の清川江においてほとんどが殲滅されてしまったのだ。 この歴史を学びさえすれば乱世の歴代中国王朝が、 400年以上に渡って平壌の支配を維持する事などに関心があるはずがない事を、 「常識」として理解できるはずだ。 しかし「象牙の塔」の住人である歴史学者達は歴史書の世界に没頭し、現実の世界を見る事などない。 何しろこの人達は魏が満州において4万程度の軍隊を派遣して「遼隧の戦い」で勝利した事を理由に、 平壌を支配していた公孫氏は自動的に滅亡したと考えているのだからおめでたい思考の持主ばかりだ。 だから公孫氏の滅亡を機に「日本にいた卑弥呼が朝鮮半島に使者を送った」などという夢物語を本気で信じているのだ。 「中国歴代王朝が420年に渡って朝鮮半島を支配したという仮説には現実性(リアリティ)が無いのではないか」などという疑問を持つ歴史学者は、誰一人として存在しないのだ。 そしてこの机上の空論に過ぎない「楽浪郡平壌説」という現実性の無い仮説を社会的影響を最大限に利用して絶対的な明証性を持つドグマとし、 「独断論」という「擬似解決」に先送りしたままパラドックスを現在まで100年間も放置し続けてきたのである。

 歴史学者達は単に現実の世界を見る能力が無いだけでなく、その本職であるべき「歴史書を解析する能力」においても無能である。 中国の歴史書では古代史書から14世紀に至るまで、 楽浪郡の場所は一貫して遼東(満州)に存在すると認識されていた。 三度目の遠征で遂に平壌を占領して高句麗滅ぼした唐軍の中で、 「遂に楽浪の地を取り戻した」などと記した者は存在しない。 楽浪郡が平壌に存在したと思わせるような記述は中国の正史には存在しないのだ。 歴史書のどこをどう読んで楽浪郡が平壌にあったと結論したのか不思議だが、 ただ一つだけ考えられる理由があるとすればそれは「跡地に楽浪郡が設置されたという衛氏朝鮮は、朝鮮半島に存在した国家である」という、 検証されていない「論点先取」の誤謬だけである。 衛氏朝鮮が「朝鮮」という国名を持つため、それが「朝鮮半島」に存在したと思い込んだとしか考えられない。 「朝鮮」という国号が使われるようになったのは1392年に成立した李氏朝鮮からであり、 14世紀以前の中国人が「衛氏朝鮮」と「朝鮮半島」を混同する事は無かった。 それ故に中国の歴史書では14世紀に至るまで、 楽浪郡の場所は一貫して遼東(満州)に存在したと認識されていたのである。

 ところがの時代にもなると、 1739年に成立した明史において「楽浪の地であった朝鮮」と「李氏朝鮮」の説明が同じ項目にまとめて記されてしまう。 そして更に時代が下ると魏源が1842年に『聖武記』において「朝鮮は本より中国の地なり」と記したように、 もはや中国人自体が「衛氏朝鮮は朝鮮半島にあった」と完全に勘違いするようになってしまった。 この魏源の著作は幕末の日本の知識階級に多大な影響を与える。 そしてこれらの清代の歴史家達の誤った歴史認識は、 明治時代の日本の歴史学者達に何の疑念も生み出す事もなく受け継がれたのである。 日本の歴史学者達の「通説」は、最初から間違っていたのだ。 しかし日本の歴史学者達は現在に至るまで「歴史学の通説」や「偉大なる明治の先人達の先行研究」を崇拝し、 楽浪郡平壌説は変更不能な聖なる理論となってしまった。 こうして歴史学者達は「歴史学の成果」が間違っている事に気付かないまま、 「偉大なる先人達」の犯した過ちを大切に守り続け、 100年に渡って誤った研究成果を蓄積してきたのである。 現実世界においてはゴミの山にすぎないこれらの「歴史学の蓄積」を、 まるで神聖なる成果であるかのように崇拝している学者達の姿は哀れである。

 日本の歴史学者達は単に歴史仮説の現実性を検証もせず、 歴史書を解析する能力がないだけではない。 日本の歴史学は「通説」を「客観的真理」を追求して議論を通して導いているのではない。 「通説」とは何と「場の空気」で決めるものなのだ。 社会的な圧力によって異端者を黙らせる事で「通説」を確定しているのである。 それだけでなく、歴史事件の因果関係を深く考察する事もなく単純に帰結する。 その上、歴史問題を公の場で透明な議論をする事もないので論理に誤謬がある事には気付かない。 もちろん、多面的な視点から議論を行う事もない。 最大の問題点は、学問としての基本である「歴史仮説の問題点の公開」をする事がない事だろう。 だから「楽浪郡平壌説」の深刻な矛盾点など山ほど存在するにも拘わらず、誰も知らないのだ。 そして正しいとされている前提を疑う事もなければ、柔軟な発想をする事もない。 問題点から目を背けて思考停止し、議論もせずに「史実」を場の空気で決めているのだ。 だから楽浪郡平壌説のような現実性のない似非歴史が「定説」になってしまったのである。 日本の歴史学者達が、歴史の真実に到達する日が來る可能性など、永遠に無い。 日本の歴史学とは、 政治的、社会的に公正な歴史仮説「ポリコレ歴史」を社会的圧力によって史実として確定してきたのであり、 それは学問とはほど遠い「キャンセル・カルチャー」の「似非歴史学」なのだから。

 歴史学者達の無能ぶりは「古代史犯罪」と呼ぶべき悪質なレベルであるが、 それよりももっと悪質なのが日本のマスコミの無責任ぶりである。 民主主義政治にとっては自由な討論が不可欠であり、 自由な討論のためには国民が争点を判断する際に必要な意見や情報に自由に接しうることが当然の前提である。 そしてマスコミの社会的役割とは「国民の知る権利の代行」であり、即ちそれは国民に真実を伝える事だ。 しかし日本のマスコミにとっては「邪馬台国の場所が本当はどこにあったか」など、 全くどうでも良い話である。 国民に真実を伝えるためにマスコミが「歴史学者達の主張が正しいかどうかを検証する責任がある」と考える事は絶対にない。 日本のマスコミには「報道しない自由」が有り、 真実を伝えて社会的役割を果たす責任がないのだ。 何しろ日本のマスコミにとって一番重要な社会的使命とは「国民の知る権利の代行」ではなく、 情報操作と印象操作を駆使して「歴史学者の主張を鵜呑みにするように国民を世論誘導する事」なのだから。

 マスコミは戦後その社会的影響力によって「場の空気」を支配し、 歴史学者達を飼い馴らして「正しい日本史」を作り上げてきた。 マスコミが作り上げた「正しい日本史」とは、歴史学者の権威によって守られているのである。 国民が歴史学者の主張を疑うようになると、 マスコミが作り上げた「正しい日本史」にも疑惑が持たれてしまう。 マスコミにとって「歴史の真実」など国民は知らなくても良いし、知ってはならないのだ。 だからマスコミは歴史学者の権威を傷付けるような報道は絶対にしない。 ひたすら無能な学者達のいい加減な研究結果を鵜呑みにし、 読者を喜ばせるような提灯記事発表報道するだけなのだ。 邪馬台国が日本国内にあるはずなどないにもかかわらず。 彼らがよくレッテルを貼って非難する「歴史修正主義者」の意味とは、 彼らが主張するような「歴史の真実を都合の良いように改竄しようとする者」の意味などではない。 その本当の意味とは、 「歴史学者達のコンセンサスを鵜呑みにしようとしない者」を意味するのである。 歴史の真実を都合の良いように改竄してきた者達とは、歴史学者達とマスコミの方なのだから。

 こうして日本人は無責任なマスコミによって愚民化され、 歴史学者達の説明を鵜呑みにするように飼い馴らされてきた。 気が付くと歴史学者とマスコミが共同で作り上げた強固なパンドラの箱を開ける事が絶対にできない仕組みが出来上がってしまったのである。 これが日本人の思考回路が「普通」ではない理由であり、 そして日本人が邪馬台国を100年かけても見つけられない本当の理由でもある。 邪馬台国論争とは「古代史ロマン」などではなく、 それは日本社会の闇が生み出した妖怪のようなものだ。 ここでは歴史学者の無能ぶりとマスコミの無責任ぶりについて具体的に詳しく説明すると共に、 彼らが団結して作り上げたパンドラの箱とは何かを説明する。 そして日本社会の問題点を明らかにする。


 マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
  1. 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
  2. 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
  3. 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、 モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、 例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、 モラルに違反する話題をする事ができないため、 疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。 何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。 そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、 国民に以下の原則を守らせる事です。
  1. 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
  2. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
  3. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。 これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。 この3原則を社会規範として徹底させる事で、 歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。 そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、 歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。 このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。 即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、 それは正義を実現するために正当化される上に、 批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。 このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、 マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。 これはナチス・ドイツがドイツ国民を愚民化して偽歴史を信じさせ、ユダヤ人に対する憎しみを植付けてゴキブリ扱いし、迫害を正当化する時に利用した手口の応用です。

 この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、 マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。 例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、 それを隠し通す事ができるのです。 話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。 後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。 そしてマスメディアの保護がなければ、 国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。 歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。 そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。 社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、 その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。 「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、 社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、 彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。

 「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、 イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。 マスメディアはこの基本3原則を守る事により、 ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。 そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」 と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。 マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、 人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、 日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。

トンデモ歴史を流布するマスコミ(さらに詳しく!)



 邪馬台国論争とは玄人と素人の対立であった。 歴史学者達は素人の研究を「研究ごっこ」とバカにして相手にしない。 しかし、実際には玄人であるべき歴史学者達こそが「研究ごっこ」の集団であり、 素人達は彼らに騙されていたのだ。 歴史学者達が本質的に間違えている問題を具体的に証拠を挙げて論理的に説明する。 彼等は自分達の世界でのみ通用する論理を振りかざし、象牙の塔に閉じ籠って一般の者達と議論をする事はない。 議論した途端、彼らには実現可能性(PotentialityとActuality)の検証能力が本質的に欠如している事がバレてしまうからだ。 「研究ごっこ」にのめり込んでいるだけでなく、自分達が研究ごっこをしている事には気付いていないから更に救いようがない。 そして一般人がのめり込むのと違い、歴史学者達の「研究ごっこ」は我々の税金が使われており決して放置してはならない。 社会的に責任がある者達には「研究ごっこ」にのめりこんでいる歴史学者達を、 一刻も早く象牙の塔から現実世界へと引き戻す責任があろう。 しかしアマの研究者の努力を軽蔑して研究ごっこに全人生を費やした者達に、 学問のルールを一から教え直すのは簡単ではないだろう。 彼らとの会話を成立させる事は困難が予想される。

 国民に真実を伝える責任は本来マスメディアにある。 しかし日本のマスコミにも科学的思考能力が無く、 研究ごっこを全く見抜く事ができない事についても説明する。 研究ごっこがこれ以上教育現場に持ち込まれべきではないと提言する。 マスコミには日本学術史上最悪の「研究ごっこ」である「古代史犯罪」や学会の「バカの壁」に対しては、真実を伝える意志も能力も道徳も責任感も何も無い事を説明する。 マスコミは当事者意識も無く、歴史から学ぼうともせず、社会的責任を果たす意識も何も無いのだ。 学会に騙されて死亡した男性の出来事を調査し、虚偽の提灯記事を垂れ流し続けたマスコミがもはや「無能」だけでは看過できない程の無責任な共犯者である事を説明する。 マスコミは検証もせずに共同幻想を吹聴して国民を欺く社会のゴミである、と徹底批判する。 宣伝機関のマスコミはたったの一言が言えないのだ。 「王様は裸だ」と。

 偏向報道、捏造報道を繰り返してきた有害なマスコミはもう一度倭人伝の原文と記紀を読み直し、 困難を極めた遣唐使の数百年前の日本列島において30ヶ国が中国と通じたり、 殉葬の後が見つからないにも関わらず100人余りを殉葬したり、 天皇家とは関係の無い平民から鬼道で民衆を迷わす女性を国王に選んだりするような国家が、 日本列島の歴史とは異質の存在である事に気付くべきだろう。 学界と同様にクリティカル・シンキングを失ったマスコミは恥を知れ。 現実世界における「真実」とは何かを判断できないような愚かなマスコミの無意味な報道ばかり読んでいる日本人がバカになるのは当然である。 「研究ごっこ」を見抜けない社会学も歴史学やマスコミと同様に無能である。

 「研究ごっこ」とは何かを理解するため、これまで秘密にされてきたニセ科学の英語版のWikipediaを基に、「疑似科学」とは何かについて明確に説明する。 難しいとされてきた科学と疑似科学の線引き問題は、実は疑似科学とは何かが日本語版で説明されて来なかったためである事を説明する。 ニセ科学批判教団もニセ科学批判批判も、疑似科学の本当の正体を理解していない。 そのため、お互いに不毛な論争を繰り返して来た。 どちらの側もニセ科学の本当の正体を知るべきであろう。 魔女狩り、ホロコースト、文化大革命など、人類の歴史に数々の悪影響と被害を生み出してきた恐るべきニセ科学の手法とは何かを説明する。 ニセ科学批判クラスタ、エア御用クラスタ、ニセ科学撲滅運動が批判すべき歴史修正主義、反知性主義とは何かについて説明する。 歴史学や社会学は歴史や社会の真理を追求する学問であり、正義と悪を判断する学問でもなければ、道徳を追求する学問でもない。 歴史学の方法論や歴史学の成果について説明し、社会から疑似歴史学を排除すべきである事を説明する。 実証史家は道徳主義に基づいた疑似歴史を排除した歴史教育の必要性を認識すべきである。 人類は過去の歴史の教訓から学び、疑似社会科学や偽歴史学の「研究ごっこ」と決別すべきであると提言する。

 厚切りジェイソンは気付いているだろうか。 日本とは「Why?」などという疑問を持ってはいけない社会である事を。 彼のような外国人の社会批判は日本社会を理解しない「薄っぺらい批判」だとして非難される。 しかし、誰もその批判のどこがどう薄っぺらいのかを説明する者はいない。 しかも通常の社会では許されないそのような「人格攻撃」という誤謬が問題にされる事もない。 日本人の国民性として「議論が苦手」である事が知られているが、その原因も解き明かす。 日本社会こそが死臭を放つ臭い「研究ごっこ」の上に「誤謬」という薄っぺらいフタをして隠しただけの薄っぺらい社会である事を説明する。 脳マネジメントで潜在能力を発揮し人間力を活性化するためには、 まずダチョウを一掃する社会教育が必要である事を提言する。 文部科学大臣表彰・科学技術賞・理解増進部門受賞決定間違いなしの究極の日本人論を説明する。 この新しい日本人論の導きによって「研究ごっこ」のダチョウを退治する事により、 スーパー日本人を大量に養成でき、 一億総活躍社会も達成できる。 このダチョウを退治する方法とは「ウーズル狩り」をする事によって実現できるのだ。

 「ウーズル」とは1926年に出版されたA・A・ミルンによるクマのプーさんの想像上のキャラクターである。 この「ウーズル」とは由来がよくわからないのに、正しいと信じられている主張である。 そして「ウーズル」が信じられるプロセスを研究するのは社会学的に非常に興味のあるテーマでもある。 従って「ウーズル狩り」とは、日本以外の社会学者達が行っている「社会の欺瞞を暴く」研究である。 しかし残念ながら日本の社会学者達の中には、 この「ウーズル狩り」をする研究者が存在しないのだ。

 実は日本の社会学者達にとって、そもそも「ウーズル狩り」をする事など社会的に許されないのだ。 何故ならば「ウーズル狩り」をするという行為はマスコミ報道を疑う事を意味し、 そしてそのマスコミ報道は歴史学者達の主張に基いているからだ。 即ち、「ウーズル狩り」をするとは「歴史学者達の主張を疑う」という事を意味するのであるが、 それは社会学者達の崇拝している「他分野の研究成果には敬意を払うべきだ」という社会規範に抵触するからである。 「常識」や「自明性」を疑うというのは社会学の基本である。 しかし「ウーズル狩り」をしようとしない社会学者達とは、 まさに「常識」や「自明性」を疑わない愚民化された人達である。 そのような疑問を持たない者達に社会現象の本質に辿り着く事など、永遠にできるはずがないのだ。 日本の社会科学のレベルが国際的水準から程遠いのも当然の結果である。 そこで社会的役割を果たす意思も能力もない、 存在価値の無い日本の社会学者達の代わって「ウーズル狩り」を実行する事にした。 ここでは「楽浪郡が平壌にあった」という歴史学の「不動の定説」がこの「ウーズル」と呼ばれる「研究ごっこ」に過ぎない事を説明し、 魏史倭人伝には謎など存在しない事を明かにした。

人気上昇中!応援メッセージが続々!
歴史学者ってポリコレに配慮してこれまでずっと国民を騙してきたんですね。そしてこれからも騙し続けるんですね。
ポリコレに配慮したこの国の歴史学や社会学は「嘘の温床」ですね。この国の大学は「嘘の製造工場」ですね。
ポリコレに配慮して研究不正を見て見ぬフリする学術会議の存在意義って何ですか?「税金の無駄」ですね。
ポリコレよりも「正直であれ」、「人の嫌がる事はしない」、「失礼な事は言わない」等の方が重要な社会規範じゃないでしょうか。
トンデモ歴史を幼少から叩き込まれ、それが常識となっているポリコレの社会って怖いですね。

トンデモ歴史を流布するマスコミ(さらに詳しく!)


歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?

 「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。 従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。

このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?

 歴史学における不正行為(歴史の捏造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、 倫理的にも法律的にも何の問題もありません。 むしろ倫理的に問題がある行為とは、 歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。

新型コロナウィルス

 菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、 日本が世界に誇るべき偉業でしょう。 単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、 飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。 それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、 クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。 安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。 安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、 飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、 「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、 惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。 ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。

 話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。 何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。 フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。 マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。 マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。

おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録

満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。

おまけ2:女性哲学者シモーヌ・ヴェイユの名言集

現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。

ポリコレ歴史修正主義の問題点

トンデモ歴史教科書でネトウヨ化するポリコレ歴史教育のまやかし
歴史認識ゴリ押しのネトウヨ歴史教育と社会学者のデタラメ社会問題
社会学とポリコレ洗脳マスコミが愚民化政策するネトウヨ歴史教育


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