歴史認識捏造のネトウヨ歴史教育と社会学者のデタラメ社会問題
〜改竄口封じのゴリ押し学校教育で言いくるめ〜歴史学者を血祭り見せしめ言いなりにしでっち上げ〜
歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会科学研究家, 2023.1.18
学校で必ず教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史問題を覚えているでしょうか。
しかし実際には高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、歴史書における楽浪郡はその後も存続しています。
これは歴史学的な根拠の無いでっち上げのデタラメ歴史教育です。
「こうだったら説明がつくからいいなぁ」という程度の歴史捏造主義です。
「歴史学は史料批判に基くから信頼できる」などと信じている者達は騙されています。
実際には史料批判どころか、
何の史料にも記述されていないような口から出まかせ話を「史実」として確定してきたのが日本の歴史学です。
では歴史学者達は何故そのような、捏造歴史を学校で教育する必要があるのでしょうか?
それは歴史学的に確定してしまった「楽浪郡が平壌に存在した」という改竄歴史に対し、
決して疑問を持つ事がないように言いくるめるためです。
STAP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学のパンドラの箱、「100年に渡る組織的な研究不正」に対して決して疑問を持たぬようにして言い逃れるために。
だから子供達を洗脳して「邪馬台国」という妄想歴史で歴史修正主義者化し、
都合の良い歴史仮説に疑問を持つ事がないようにネトウヨ化して口封じをしてきたのです。
ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに、
子供達を騙し続けて国民を愛国幻想で愚民化してきたというのが「歴史学者の正体」です。
そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、
日本のマスコミと社会学者達なのです。
「歴史学の権威」とやらを疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、
歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、
歴史学者達には、もはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで袋叩きにして骨抜きにして言論弾圧し、
子供たちを騙し続けて思考停止させる以外に選択肢がなくなったのです。
何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、
マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。
しかしマスコミに反抗して都合の悪い主張をした途端、
学者達のカードは最弱にされてしまい粛清されてしまうからです。
そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、
「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。
彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、
もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。
「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるためにマスコミの御用学者となって「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「社会学者の正体」です。
「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、
それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、
歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、
歴史問題が解決されないように奔走してきた、
マスコミと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。
本来であれば歴史学の通説とは、
史料批判に基いた実証主義的、客観主義的な「学術的な議論」の結果により決定されるべきです。
しかし日本の歴史学者達は、通説を議論の結果により決めてきたのではありません。
決定してきたのは何と「場の空気」だったのです。
それに先行研究の蓄積を崇拝するので「場の空気」を支配するような学界の大御所達には逆らえず、
先学達の間違いを修正する事ができません。
また外部からの意見に耳を傾ける必要もありませんので、
非公開の場所で学界の内部の論理で政治的、社会的に決定されてきたのです。
日本の歴史学とは、
不都合な歴史資料を情報統制し、
社会的に望ましい歴史仮説「ポリコレ歴史」を史実だと「歴史学的に確定」し、
歴史の真実の隠蔽工作を行ってきた「ポリコレ歴史創作集団」です。
本来であればこのような日本の歴史学の組織的な不正行為を暴くのはマスメディアの責任です。
しかし日本のマスメディアには社会的責任を果たす能力が無いだけでなく、
その意思もありません。
それどころかマスメディアは、
この「歴史学の権威」を守るために都合の悪い事実を隠蔽してきました。
「邪馬台国が日本列島には存在しなかった理由」などいくらでもありますが、
誰もそれを知らないのがその証拠です。
日本のマスメディアは歴史学が「場の空気」で通説を決定する「ポリコレ歴史学」である事を利用し、
社会的影響力を行使してその「場の空気」を作り出してきたのです。
自分達に都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」だとするために。
それだけでなくこの「歴史学の権威」を崇拝する事を「絶対正義のポリコレ」とするように愚民化政策をし、
崇拝しない者達には「ネトウヨ」という「逸脱者」のレッテルを貼って大衆が嫌悪感を持つように印象操作をしてきました。
そして異論に対しては「ポリコレ無罪」の罵詈雑言で吊し上げて血祭りにし、
見せしめにして言論弾圧してきた「ポリコレ歴史洗脳集団」です。
本来であればこのような日本の歴史学やマスコミの組織的な欺瞞を告発すべき社会的責任がある者達とは、
社会現象の本質を暴くはずの社会学にあります。
しかし日本の社会学者達にとっての存在理由とは、
「社会現象の解明」という研究活動ではありません。
社会学会の研究指針が定める研究目的とは何と「社会正義の追求」なのです。
社会学者達自体が、
「真実よりもポリコレ」を追求する「ポリコレ原理主義者」であり、
都合の悪い人達を「学問の権威」を振りかざしてレッテルを貼って叩き潰すためにマスメディアから「免状」を授けられた「道徳事業家」です。
それに歴史学と同様に先行研究の蓄積を崇拝するので、
「場の空気」を支配するような大御所達には逆らう事はできません。
また外部の意見に耳を傾ける必要もありませんので、
マスメディアの影響下にある「場の空気」に支配された内輪の論理で「社会正義」を追求し、
まるで「風紀委員」であるかのように実社会にそれをゴリ押ししようとします。
だから社会学者達はマスメディアに出て来て走狗のようにボロクソに批判するだけで、
研究成果がなくても批判される事はないのです。
それだけでなく社会学者達は「実証主義」や「客観主義」を批判し、
日本の歴史学に「構築主義」を導入させました。
日本の歴史学が「ポリコレ歴史学」である事を利用し、
マスメディアと結託して罵詈雑言のポリコレ棒で吊し上げて同調しない歴史学者を全て粛清(キャンセル)し、
見せしめにしたのです。
そして歴史学界に「物言えぬ空気」を作り出して歴史学者達を骨抜きにして言いなりにし、
自分達の追求する社会正義を実現するために都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定」させました。
異論を主張するような「ネトウヨ」達には「そのような恥ずべき主張をする歴史学者は一人もいない」と糾弾して大衆が軽蔑するように言いくるめ、
「社会的権威のあるネトウヨ」を全て魔女狩りしてきた「ポリコレ歴史構築集団」です。
本来であればこのように「学問の権威」を振りかざして「場の空気」を支配し、
「組織的な研究不正」をしてきた「頭ポリコレ」のエセ学者達を告発すべき社会的責任がある者達とは、
科学の向上発達を図るべき学術会議にあります。
しかしポリコレ決めてお気持だけで発狂する「ポリコレ信者」達の「モラル・ハラスメント」の同調圧力の前に、
学術会議も骨抜きにされて言いなりの存在です。
何故ならば信者達にはマスメディアから「免状」が与えられているので、
集団心理によって激しい活動を行うからです(自薦の用心棒)。
まともな科学者であればこのような問題に口を出して学者生命を危険に晒すよりも、
自分達の研究に専念したいのです。
学術会議のメンバー達とは学術界における「異端審問」による吊し上げ、袋叩き、血祭り、見せしめ、口封じによる言論統制を黙認してきた、
「キャンセル・カルチャー奨励集団」です。
これが総合的・俯瞰的な視点を導入して「学術的な議論」を取り戻し、
「構築主義」というポリコレ学問を脅かそうとするような学術会議の本質的な改革に対しては、
構築主義を死守することで国民を思考停止させ、もみ消して言い逃れを目論む「ポリコレ布教集団」が常人には理解できない程に猛反発して菅総理を敵視し、
オリンピックが失敗であると印象操作され、
その関係者が次々と粛清(キャンセル)された理由です。
こうして日本人は「歴史学の権威」を利用してポリコレ歴史が史実となるような「場の空気」を「構築」する事に夢中な「ポリコレ歴史修正主義者」の集団となり、
学術的な議論によって歴史の真実に辿り着く事ができなくなりました。
社会的に望ましくない「不都合な真実(アンチポリコレ歴史)」に近付こうとする者達には、
社会全体からモラハラの誹謗中傷が行われ、
全て叩き潰されてきたのです(血祭り文化)。
これが日本人には100年かけても邪馬台国が見つけられなかった本当の理由です。
日本では歴史問題が不毛論争にしかならないのは当然の結果です。
愚民化された「ポリコレ馬鹿」にとっては「真実かどうか」には興味が無く、
「安全かどうか(safetyism)」が重要なのですから。
これがポリコレは社会に沈黙を強制し、人々を面従腹背にさせて分断すると言われる理由なのです。
「物言えぬ空気」は「不正の温床」とも言われており、
キング牧師はかつて次のように述べました。
「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める」と。
「ネトウヨ」や「パヨク」と呼ばれる分断された人達はどちらも「社会的な望ましさ(ポリコレ)」を追求するように現実逃避の教育をされた「ポリコレの変異種」であり、議論を通じて社会的に望ましくない「客観的な真実」に辿り着く事はありません。
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歴史学者ってポリコレに配慮してこれまでずっと国民を騙してきたんですね。そしてこれからも騙し続けるんですね。
ポリコレに配慮したこの国の歴史学や社会学は「嘘の温床」ですね。この国の大学は「嘘の製造工場」ですね。
ポリコレに配慮して研究不正を見て見ぬフリする学術会議の存在意義って何ですか?「税金の無駄」ですね。
ポリコレよりも「正直であれ」、「人の嫌がる事はしない」、「失礼な事は言わない」等の方が重要な社会規範じゃないでしょうか。
トンデモ歴史を幼少から叩き込まれ、それが常識となっているポリコレの社会って怖いですね。
マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
- 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、
モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、
例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、
モラルに違反する話題をする事ができないため、
疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。
何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。
そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、
国民に以下の原則を守らせる事です。
- 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。
これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。
この3原則を社会規範として徹底させる事で、
歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。
そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、
歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。
このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。
即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、
それは正義を実現するために正当化される上に、
批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。
このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、
マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。
この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、
マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。
例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、
それを隠し通す事ができるのです。
話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。
後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。
そしてマスメディアの保護がなければ、
国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。
歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。
そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。
社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、
その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。
「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、
社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、
彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。
「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、
イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。
マスメディアはこの基本3原則を守る事により、
ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。
そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」
と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。
マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、
人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、
日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。
イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーは、
「どの時代の歴史を扱う場合でも、感情をまじえず、偏見を持たないことは、歴史家にとってつねに不可能なことだと思う」と述べています。
そしてイギリスの歴史哲学者C.ベーハン・マッキュラーは「歴史記述を最終的に証明する方法は存在しない。ただ正当化するのみである。」と述べています。
即ち、歴史学者が偏見を持つ事なく歴史に向き合う事ができるというのは幻想に過ぎませんし、
絶対的な史実なるものを歴史学的に証明する方法も存在しません。
「神でも過去を変えることはできないが、歴史家ならできる」と述べたのは、
19世紀のイギリスの小説家サミュエル・バトラーでした。
「史実の確定」とはそもそも歴史学者に任せるべき案件などではないのです。
「史実」とは歴史学会で査読付きの論文を発表し、
歴史学者のコンセンサスによって認定されるような概念などでは決してありません。
実際にドイツの歴史学者フリードリヒ・マイネッケは、
「歴史家はただ事物の経過を書き留めて評価せねばならないだけであり、 みずから事物の決定に参与してはいけない」と述べています。
歴史学者の仕事とは、歴史仮説が正当である理由を説明したり、歴史の経過を説明したりするだけです。
政治的な決断を促すような絶対的な「歴史学的に証明した事実」など、
現代の歴史学の世界においてはそもそも存在しない概念です。
ですから本来は、歴史学者の主張を疑っても社会的に問題となるような事はありません。
歴史学における基本的なテキストであるE・H・カーの「歴史とは何か」においては、
「歴史家は裁判官ではない」と記述されています。
「歴史学は道徳ではない。歴史家の役割は賞賛や断罪ではなく説明する事である。」というのが歴史学が到達した結論なのです。
しかしながら日本社会においては史実を「歴史学的に証明」し、
それ信じる事を道徳とする以下の4つの社会規範が存在します。
- 史実とは歴史学者達のコンセンサスによって確定されるべきである
- 歴史学者の権威は信頼すべきである
- 歴史学者には歴史仮説の正当性を説明する立証責任はない
- 各専門分野の権威を尊重すべきで、部外者は干渉すべきでない
要するにこれらの「歴史学者達のコンセンサスを疑ってはならず、無条件に信じなさい」という社会規範が日本社会において成立しているために、
日本人は歴史学者の主張を疑ってはならないのです。
「歴史学は道徳ではない」という世界の歴史学における常識を日本人は理解しておらず、
「歴史家の役割は説明する事ではなく賞賛や断罪する事だ」と誤解しているのです。
「何も考えずに権威を敬うことは、真実に対する最大の敵である」と述べたのは、
アルベルト・アインシュタインでした。
通常の社会においては、歴史学者の権威など特別に敬う必要などありません。
これらの社会規範は世界共通の規範などではなく、日本社会においてのみ成立している規範です。
世界における歴史学の常識とは、このようなものでは決してありません。
歴史学者の権威など信頼する必要もありませんし、
歴史学者には歴史仮説の正当性を説明する立証責任があります。
それに歴史学が明らかにするのは「史実」などではなく「最適の説明」に過ぎません。
そして歴史仮説は公の場で様々な分野の視点から検証されねばなりません。
歴史学者達は、他の分野からの批判を無視したりしてはいけません。
それに対して日本の歴史学者達は史実をコンセンサスで決めてしまえば良いだけで、
立証責任もなければ他分野の視点から検証される事もありません。
それなのに何故か絶対的に信頼され、その主張が疑われる事はありません。
そして他の分野からの批判を無視しても批判されません。
日本の歴史学が世界の歴史学に比べてレベルが低いのは、
このような社会規範が日本社会に成立しているのが原因です。
立証責任が無い上に誰からも批判されないのですから、
日本の歴史学者達は「井の中の蛙」です。
異る視点からの検証がされる事がないので、レベルが低くなるのは当然です。
楽浪郡平壌説のような怪しい仮説をコンセンサスで「定説」にしてしまい、
日本の歴史学を「歴史修正主義の歴史学」にしてしまったのも、
このような社会規範が成立しているのが原因です。
邪馬台国論争が解けない問題になってしまった原因の根源も、
これらの社会規範が存在するためです。
日本社会に呪いをかけてしまったのは、これらの社会規範が元凶なのです。
歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?
「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。
従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。
このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?
歴史学における不正行為(歴史の捏造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、
倫理的にも法律的にも何の問題もありません。
むしろ倫理的に問題がある行為とは、
歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。
新型コロナウィルス
菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、
日本が世界に誇るべき偉業でしょう。
単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、
飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。
それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、
クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。
安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。
安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、
飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、
「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、
惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。
ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。
話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。
何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。
フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。
マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。
マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。
おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録」
満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。
現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。
トンデモ歴史教科書でネトウヨ化するポリコレ歴史教育のまやかし
社会学とポリコレ洗脳マスコミが愚民化政策するネトウヨ歴史教育
歪曲歴史教科書でポリコレ現実逃避するごまかし歴史教育問題
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