歴史教科書もみ消しの歴史教育問題とマスコミの言いくるめ社会問題
〜言い逃れ学校教育でニセ歴史問題でっち上げ〜捏造改竄歪曲の洗脳社会教育〜
歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会科学研究家, 2025.9.3
学校で必ず教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件を覚えているでしょうか。
しかし実際には高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、歴史書における楽浪郡はその後も存続しています。
これは歴史学的な根拠など全く存在しない、でっち上げの偽歴史です。
歴史歪曲禁止法で防止すべき、
「こうだったら説明がつくからいいなぁ」という程度の洗脳歴史教育です。
「歴史学は史料批判に基くから信頼できる」などと信じている者達は騙されています。
実際には史料批判どころか、
何の史料にも記述されていないような改竄歴史を「史実」として確定してきたというのが、
日本の歴史学の秘密です。
では歴史学者達は何故そのような歪曲歴史で学校教育する必要があるのでしょうか?
それは歴史学的に確定してしまった「楽浪郡が平壌に存在した」という捏造歴史に決して疑問を持つ事がないようにして言い包めるためです。
STAP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学のパンドラの箱、「100年に渡る組織的な研究不正」に対して決して疑問を持たぬようにもみ消して言いくるめるために。
だから子供達を歴史洗脳して歴史の真実を隠蔽し、日本人を愛国妄想歴史で歴史修正主義者化し、
都合の良い歴史仮説に疑問を持つ事がないようなネトウヨを育成してきたのです。
ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに、
子供達を騙し続けて国民を愛国ポルノで愚民化してきたというのが「歴史学者の正体」です。
そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、
日本のマスコミと社会学者達なのです。
「歴史学の権威」を疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、
歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、
歴史学者達には、もはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで吊し上げて見せしめにして言論弾圧し、
子供たちを騙し続けて思考停止させる以外に選択肢がなくなったのです。
何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、
マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。
しかし「歴史学の権威」を用いてマスコミに都合の悪い主張をした途端、
学者達のカードは最弱にされてしまい粛清(キャンセル)されてしまうからです。
そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、
「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。
彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、
もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。
「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるために社会学者達を御用学者として祭り上げ、「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「マスコミの正体」です。
「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、
それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、
歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、
歴史問題が解決されないように奔走してきた、
マスコミと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。
「擬似問題」という言葉をご存知だろうか?
問いを立てる際の暗黙の仮定や前提が誤っていたり、
検証できないものに依拠していたりするため答えがそもそも存在しない問いのことだ。
問いに含まれている誤った前提に気づくことなく、そのまま推論を進めていくと、
矛盾やパラドックスと呼ばれる状況に直面する。
一般にはそうした状況になって初めて、
「これは擬似問題なのではないか」つまり「議論の前提に何か誤りが含まれているのではないか?」と気が付くことになる。
擬似問題はある真性の問題について、その片鱗を掴んだだけの直観から記述されていることが多く、多くのばあい擬似問題は無意味ではなく真性の問題が含まれている。
こうした理由があるため、学術関係者は必ずしも矛盾やパラドックスを忌み嫌いはしない。
むしろ誤った仮定や前提の存在を教えてくれる重要なサインとして、矛盾やパラドックスについて深く考え、何とか「誤った前提」を見出そうと努力するのが「普通」である。
多くの擬似問題は論理的に適切な操作によって「擬似解決」を与えることができるが、
このばあい矛盾やパラドックスは「独断論」という擬似解決に先送りされている。
しかしどれだけ深刻な矛盾やパラドックスに突き当たっても問題点を考察する事もなく、
「誤った前提」を見出そうと努力する事を絶対にしない、
「普通」ではない思考停止した人達がこの世界には現実に数多く存在する。
それは日本の歴史学者達であり、
日本のマスコミであり、
そしてほぼ全ての日本人だ。
そもそも中国の正史に誰にも分らないような記述がされるはずがない。
歴史書を記述した者は、邪馬台国への行程を誰にでも分るように記述したはずだ。
邪馬台国が誰にも見つからない時点で何かおかしいと考えるのが「普通」だ。
しかし現実の日本社会では、邪馬台国を100年間探し続けて誰にも見つけられなくても、
その原因を追求しようとする動きは出て来ない。
誰もこれが擬似問題である事を疑う事はないのだ。
それだけでなく日本人は自分達の思考回路が「普通」ではない事には決して気付かないのだ。
「邪馬台国が日本列島に存在した」という仮説は絶対に正しいとされている。
しかしその根拠は実は前漢の武帝が前107年に衛氏朝鮮の跡地に置いたとされる「楽浪郡」が平壌にあったという「不動の定説」だけである。
平壌で発見された「楽浪漢墓」などの遺跡は中国系の住民が多数居住していた事の実証にしかならないし、
「楽浪太守封泥」などの遺物も楽浪郡との政治的交流が盛んだった事の実証にしかならない。
これらの考古学的確証では、例え朝鮮半島を支配したとしても「一時的に支配したかもしれない」程度の主張しかできないはずだ。
このような「可能性がある」程度の確証に過ぎない「楽浪漢墓」や「楽浪太守封泥」をもってして、
中国の歴代王朝がBC107年から313年までの江戸時代よりも長い420年もの間、
前漢、
新、
赤眉の乱、
後漢、
黄巾の乱、
三国時代、
西晋、
八王の乱などの激動と波乱の時代を通して、
一貫して朝鮮半島を支配した「絶対的な確証」だと強弁しているのが日本の歴史学者達である。
「楽浪漢墓」や「楽浪太守封泥」等の遺物を説明できる国家は、
わざわざ中国から楽浪郡を朝鮮半島に持って来なくても歴史書の中に存在する。
例えば「万里の長城」建設の苦役から逃亡した「秦人」逹が「馬韓」の東に建国したという「辰韓」等だ。
中国を統一した隋帝国の皇帝である煬帝は、
「隋の第二次高句麗遠征」において60万の大軍で平壌を攻撃した。
日本史上最大の合戦である「関ヶ原の戦い」は両軍併せても20万人に達しない。
元寇の弘安の役も、文禄・慶長の役の規模もそれぞれ15万人程度である事を考えれば、
中国史上最大規模の遠征軍である。
しかしその隋の大軍は中国と平壌の間にある朝鮮半島の清川江においてほとんどが殲滅されてしまったのだ。
この歴史を学びさえすれば乱世の歴代中国王朝が、
400年以上に渡って平壌の支配を維持する事などに関心があるはずがない事を、
「常識」として理解できるはずだ。
しかし「象牙の塔」の住人である歴史学者達は歴史書の世界に没頭し、現実の世界を見る事などない。
何しろこの人達は魏が満州において4万程度の軍隊を派遣して「遼隧の戦い」で勝利した事を理由に、
平壌を支配していた公孫氏は自動的に滅亡したと考えているのだからおめでたい思考の持主ばかりだ。
だから公孫氏の滅亡を機に「日本にいた卑弥呼が朝鮮半島に使者を送った」などという夢物語を本気で信じているのだ。
「中国歴代王朝が420年に渡って朝鮮半島を支配したという仮説には現実性(リアリティ)が無いのではないか」などという疑問を持つ歴史学者は、誰一人として存在しないのだ。
そしてこの机上の空論に過ぎない「楽浪郡平壌説」という現実性の無い仮説を社会的影響を最大限に利用して絶対的な明証性を持つドグマとし、
「独断論」という「擬似解決」に先送りしたままパラドックスを現在まで100年間も放置し続けてきたのである。
歴史学者達は単に現実の世界を見る能力が無いだけでなく、その本職であるべき「歴史書を解析する能力」においても無能である。
中国の歴史書では古代史書から14世紀に至るまで、
楽浪郡の場所は一貫して遼東(満州)に存在すると認識されていた。
三度目の遠征で遂に平壌を占領して高句麗を滅ぼした唐軍の中で、
「遂に楽浪の地を取り戻した」などと記した者は存在しない。
楽浪郡が平壌に存在したと思わせるような記述は中国の正史には存在しないのだ。
歴史書のどこをどう読んで楽浪郡が平壌にあったと結論したのか不思議だが、
ただ一つだけ考えられる理由があるとすればそれは「跡地に楽浪郡が設置されたという衛氏朝鮮は、朝鮮半島に存在した国家である」という、
検証されていない「論点先取」の誤謬だけである。
衛氏朝鮮が「朝鮮」という国名を持つため、それが「朝鮮半島」に存在したと思い込んだとしか考えられない。
「朝鮮」という国号が使われるようになったのは1392年に成立した李氏朝鮮からであり、
14世紀以前の中国人が「衛氏朝鮮」と「朝鮮半島」を混同する事は無かった。
それ故に中国の歴史書では14世紀に至るまで、
楽浪郡の場所は一貫して遼東(満州)に存在したと認識されていたのである。
ところが清の時代にもなると、
1739年に成立した明史において「楽浪の地であった朝鮮」と「李氏朝鮮」の説明が同じ項目にまとめて記されてしまう。
そして更に時代が下ると魏源が1842年に『聖武記』において「朝鮮は本より中国の地なり」と記したように、
もはや中国人自体が「衛氏朝鮮は朝鮮半島にあった」と完全に勘違いするようになってしまった。
この魏源の著作は幕末の日本の知識階級に多大な影響を与える。
そしてこれらの清代の歴史家達の誤った歴史認識は、
明治時代の日本の歴史学者達に何の疑念も生み出す事もなく受け継がれたのである。
日本の歴史学者達の「通説」は、最初から間違っていたのだ。
しかし日本の歴史学者達は現在に至るまで「歴史学の通説」や「偉大なる明治の先人達の先行研究」を崇拝し、
楽浪郡平壌説は変更不能な聖なる理論となってしまった。
こうして歴史学者達は「歴史学の成果」が間違っている事に気付かないまま、
「偉大なる先人達」の犯した過ちを大切に守り続け、
100年に渡って誤った研究成果を蓄積してきたのである。
現実世界においてはゴミの山にすぎないこれらの「歴史学の蓄積」を、
まるで神聖なる成果であるかのように崇拝している学者達の姿は哀れである。
日本の歴史学者達は単に歴史仮説の現実性を検証もせず、
歴史書を解析する能力がないだけではない。
日本の歴史学は「通説」を「客観的真理」を追求して議論を通して導いているのではない。
「通説」とは何と「場の空気」で決めるものなのだ。
社会的な圧力によって異端者を黙らせる事で「通説」を確定しているのである。
それだけでなく、歴史事件の因果関係を深く考察する事もなく単純に帰結する。
その上、歴史問題を公の場で透明な議論をする事もないので論理に誤謬がある事には気付かない。
もちろん、多面的な視点から議論を行う事もない。
最大の問題点は、学問としての基本である「歴史仮説の問題点の公開」をする事がない事だろう。
だから「楽浪郡平壌説」の深刻な矛盾点など山ほど存在するにも拘わらず、誰も知らないのだ。
そして正しいとされている前提を疑う事もなければ、柔軟な発想をする事もない。
問題点から目を背けて思考停止し、議論もせずに「史実」を場の空気で決めているのだ。
だから楽浪郡平壌説のような現実性のない似非歴史が「定説」になってしまったのである。
日本の歴史学者達が、歴史の真実に到達する日が來る可能性など、永遠に無い。
日本の歴史学とは、
政治的、社会的に公正な歴史仮説「ポリコレ歴史」を社会的圧力によって史実として確定してきたのであり、
それは学問とはほど遠い「キャンセル・カルチャー」の「似非歴史学」なのだから。
歴史学者達の無能ぶりは「古代史犯罪」と呼ぶべき悪質なレベルであるが、
それよりももっと悪質なのが日本のマスコミの無責任ぶりである。
民主主義政治にとっては自由な討論が不可欠であり、
自由な討論のためには国民が争点を判断する際に必要な意見や情報に自由に接しうることが当然の前提である。
そしてマスコミの社会的役割とは「国民の知る権利の代行」であり、即ちそれは国民に真実を伝える事だ。
しかし日本のマスコミにとっては「邪馬台国の場所が本当はどこにあったか」など、
全くどうでも良い話である。
国民に真実を伝えるためにマスコミが「歴史学者達の主張が正しいかどうかを検証する責任がある」と考える事は絶対にない。
日本のマスコミには「報道しない自由」が有り、
真実を伝えて社会的役割を果たす責任がないのだ。
何しろ日本のマスコミにとって一番重要な社会的使命とは「国民の知る権利の代行」ではなく、
情報操作と印象操作を駆使して「歴史学者の主張を鵜呑みにするように国民を世論誘導する事」なのだから。
マスコミは戦後その社会的影響力によって「場の空気」を支配し、
歴史学者達を飼い馴らして「正しい日本史」を作り上げてきた。
マスコミが作り上げた「正しい日本史」とは、歴史学者の権威によって守られているのである。
国民が歴史学者の主張を疑うようになると、
マスコミが作り上げた「正しい日本史」にも疑惑が持たれてしまう。
マスコミにとって「歴史の真実」など国民は知らなくても良いし、知ってはならないのだ。
だからマスコミは歴史学者の権威を傷付けるような報道は絶対にしない。
ひたすら無能な学者達のいい加減な研究結果を鵜呑みにし、
読者を喜ばせるような提灯記事を発表報道するだけなのだ。
邪馬台国が日本国内にあるはずなどないにもかかわらず。
彼らがよくレッテルを貼って非難する「歴史修正主義者」の意味とは、
彼らが主張するような「歴史の真実を都合の良いように改竄しようとする者」の意味などではない。
その本当の意味とは、
「歴史学者達のコンセンサスを鵜呑みにしようとしない者」を意味するのである。
歴史の真実を都合の良いように改竄してきた者達とは、歴史学者達とマスコミの方なのだから。
こうして日本人は無責任なマスコミによって愚民化され、
歴史学者達の説明を鵜呑みにするように飼い馴らされてきた。
気が付くと歴史学者とマスコミが共同で作り上げた強固なパンドラの箱を開ける事が絶対にできない仕組みが出来上がってしまったのである。
これが日本人の思考回路が「普通」ではない理由であり、
そして日本人が邪馬台国を100年かけても見つけられない本当の理由でもある。
邪馬台国論争とは「古代史ロマン」などではなく、
それは日本社会の闇が生み出した妖怪のようなものだ。
ここでは歴史学者の無能ぶりとマスコミの無責任ぶりについて具体的に詳しく説明すると共に、
彼らが団結して作り上げたパンドラの箱とは何かを説明する。
そして日本社会の問題点を明らかにする。
マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
- 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、
モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、
例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、
モラルに違反する話題をする事ができないため、
疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。
何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。
そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、
国民に以下の原則を守らせる事です。
- 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。
これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。
この3原則を社会規範として徹底させる事で、
歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。
そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、
歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。
このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。
即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、
それは正義を実現するために正当化される上に、
批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。
このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、
マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。
これはナチス・ドイツがドイツ国民を愚民化して偽歴史を信じさせ、ユダヤ人に対する憎しみを植付けてゴキブリ扱いし、迫害を正当化する時に利用した手口の応用です。
この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、
マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。
例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、
それを隠し通す事ができるのです。
話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。
後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。
そしてマスメディアの保護がなければ、
国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。
歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。
そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。
社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、
その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。
「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、
社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、
彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。
「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、
イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。
マスメディアはこの基本3原則を守る事により、
ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。
そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」
と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。
マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、
人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、
日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。
楽浪郡が滅亡した後、楽浪郡がどうなったかについて知る者はまずいないでしょう。
晋が八王の乱で衰退していくと、華北は鮮卑や匈奴などの北方民族が支配するようになりました。
そのような流れの中で高句麗の美川王は遼東に進出し、313年10月に楽浪郡が高句麗によって滅ぼされると、314年には帯方郡、315年には玄菟郡も次々に高句麗の手に落ちていきした。
高句麗は遼東郡も何度も攻めますが、
遼東郡だけは遼西から遼東に進出した鮮卑慕容部に支配され落とす事ができませんでした。
遼東郡太守の張統と楽浪郡太守の王遵は、鮮卑慕容部の慕容カイに保護されました。
その後、慕容カイは遼西に都市を建設させて楽浪郡とし、張統を楽浪郡太守としました。
楽浪郡はこのように、中国本土に移転せざるを得ませんでした。
しかし別の言葉で表現すれば、楽浪郡は遼西地域においてすぐに復活しました。
高句麗は鮮卑段部、鮮卑宇文部と同盟を組むと、慕容カイは棘(きょく)城(朝陽市の近く)を本拠地として立てこもります。
高句麗は同盟軍と遼西地域にあった棘城に侵攻しますが、失敗します(319年)。
その後、何度も高句麗は遼東郡を攻めますが、鮮卑慕容部から奪う事はできず、
逆に前燕という国家を建国した鮮卑慕容部の慕容コウに攻め込まれ、
集安付近にあったとされる高句麗王都は342年に陥落し、
美川王の墓は暴かれます。
高句麗の故国原王は遼東郡支配を諦め、「前燕」に服属して「楽浪公高句麗王」の称号をもらいました。
以上が歴史学者達が説明する楽浪郡滅亡後の情勢です。
しかし、この話も「玄菟郡は遼東、遼東郡は遼東半島、楽浪郡は朝鮮半島、帯方郡はソウル」という仮定で読むと、何か不可解です。
平壌から抜け出すのは難しいはずなのに、張統と王遵はそろって慕容カイに保護されたのは何故だろうか。
長白山脈を基盤とする高句麗は、どうして平原が基盤の鮮卑慕容部から隣接する千山山脈を奪う事ができなかったのか。
はるか遠方の楽浪郡(北朝鮮)、帯方郡(ソウル)、玄菟郡(遼東)を短期間で全て攻略し、
遼西さえも攻撃したというのに。
朝鮮半島に存在したはずの「楽浪郡」を、慕容カイはなぜ遼西地域に再建したのだろうか。
「楽浪郡」を支配し、342年に高句麗に勝利した前燕の慕容コウが高句麗と講和する時、
楽浪郡を平壌に復活させなかった理由は何故なのか。
資治通鑑晋紀の313年の記事を根拠とするのであれば、
日本の子供達が必ず覚えなければならないような大事件の記録がないのは何故か。
歴史学者達は「313年に高句麗によって朝鮮半島の楽浪郡が滅亡した」と教えていますが、最初から遼西にあった「楽浪郡」は滅亡などしていない可能性があります。
永嘉の乱で事実上滅亡した西晋の各地の刺史達は独立の道を選ぶか、或いはそれぞれの地方の有力者に支援を要請しました。
当時の華北は前趙の劉聡、
前趙将軍で後に後趙を建国する石勒、
西晋の并州刺史劉琨、
帝位を狙う幽州刺史王浚、
鮮卑拓跋部で後に代を建国する拓跋猗盧、
鮮卑段部の段疾陸眷などの群雄が割拠する騒乱状態でした。
そして問題の313年とは、
石勒の側につくか、
王浚の側につくかの選択を迫られる時期でした。
高句麗と長年困難な戦い続けてきた遼東郡太守の張統と楽浪郡太守の王遵にとっては、
独立は不可能であり、前趙や高句麗に保護を求める選択肢もなかったはずです。
幽州刺史の王浚に見切りをつけ、
その地方の有力者であった鮮卑慕容部の慕容カイへの帰順を表明したのではないでしょうか。
楽浪郡が朝鮮半島にあったとすれば、このような華北の情勢など全く気にする必要は無かったでしょう。
中学高校の世界史で教えられている「313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼした」という歴史は、
一体全体何が根拠なのでしょうか。
遼東郡、玄菟郡なども支配者が変わっただけで高句麗の故国壌王の時代まで存続しています。
それに北魏の太武帝が遼西地域の肥如において「朝鮮県」を再び置いたのは、
高句麗が平壌城に遷都した五年後の432年の事です。
即ちこの時代の「朝鮮」とは、遼西地域における名称だったのです。
さらに北魏は正光年間(520-525)に営州において「楽良郡」を置き、そこには「帯方県」まで含まれていたのでした。
魏書:樂良郡前漢武帝置,二漢、晉曰樂浪,後改,罷。正光末復...(中略)...永洛正光末置。有鳥山。帶方
「楽良」郡は前漢の武帝が置いた。二漢、晉は「楽浪」と呼んだ。その後改め、廃止されたが、正光の末、復活した。
「罷」とは「廃止する」とかの意味であり、「楽浪郡が高句麗に滅ぼされた」などという記述があるようには判断できません。
それに魏書の説明では、北魏が置いた「楽良郡」は前漢の武帝が置いた楽浪郡とあまり変わらない場所に置いたとしか判断できません。
それは果たして私が「歴史学の手法」や「中国史書の読み方」を正しく学んでいないからなのでしょうか。
20世紀の日本の歴史学者達が調査した平壌での考古学的知識とは、本当に絶対的な確証なのでしょうか。
6世紀の中国で歴史を研究していた魏書の編集者達が楽浪郡に関して持っていた知識よりも、それは本当に確実な証拠と言えるのでしょうか。
「魏書」のような同時代の史料は信頼できる「一級史料」ではないのでしょうか。
中国の正史である晋書の帯方郡の項目には楽浪郡を含む平州の歴史が記されており、
楽浪郡が高句麗に滅ぼされたなどという記述は存在しません。
永嘉の乱の後、
平州は鮮卑慕容部に支配されたと記述されています。
それに資治通鑑晋紀には313年の楽浪郡滅亡後にも、
338年に楽浪太守鞠彭の遼西地域での活躍
(慕容コウと石虎の棘城決戦)
が記述されています。
資治通鑑晋紀に記されている313年の楽浪郡太守の記述は、たったの2行だけです。
晋紀には313年に楽浪郡が滅亡したという記述も無ければ、
楽浪郡が移動した記述さえありません。
「楽浪郡が移動した」という根拠さえ、歴史書には存在しないのです。
歴史書の記述を見る限り、楽浪郡は最初から一貫して遼西地域にあったと考える方が妥当です。
そもそも313年の事件が正史である晋書には記述がありません。
このような瑣末な事件が、
日本の子供たちが必ず覚えないといけないような歴史的大事件であるはずがありません。
それにもしこの歴史事件を教えるのであれば、「313年に楽浪郡が滅ぼされた」でも「楽浪郡が移動された」でもなく、
「313年に高句麗と戦っていた遼東郡太守張統と楽浪郡太守王遵が謀って鮮卑慕容部に帰順し、
慕容カイが張統を楽浪郡の太守、王遵をその参軍事とした」と正確に教えるべきです。
「五胡十六国時代や南北朝時代には楽浪郡や朝鮮県、帯方県は遼西地域に存在した地名であった」という歴史的事実に対して疑問を持たないようにするためには楽浪郡を朝鮮半島から消去する必要があった。
そして少なくとも楽浪郡は338年より前に朝鮮半島から遼西地域に移動させておく必要があった。
もし313年に楽浪郡を朝鮮半島から消去しておかないと、
歴史書には楽浪郡を朝鮮半島から消去できるような口実となる歴史事件が存在しない。
すると「楽浪郡はいつの間に朝鮮半島から遼西に移動したのだろうか?」という答の用意できない疑問が出されてしまう。
そうなると「楽浪郡が朝鮮半島に設置された」という説明自体にも疑問が出されてしまう。
それを防ぐために歴史学者達が学校教育を利用して子供の頃から刷り込んだドグマが「313年に高句麗が平壌に存在した楽浪郡を滅ぼした」という教育項目なのかもしれません。
「平壌の楽浪郡を一旦滅亡させて遼西地域に楽浪郡を再度作り直す」事により、「楽浪郡滅亡後に何故か楽浪郡が遼西地域に存在した」というこの「楽浪郡の遼西移動の怪」に対して、歴史学の素人達が疑問を抱く事がないようにするために。
もちろん、「正確には楽浪郡は滅亡ではなく、遼西に移動しました」などというような余計な知識を子供たちに教えてはなりません。
「玄菟郡の遼東移動の怪」や「消えた万里の長城の怪」も無茶苦茶な改竄ですが、
この「楽浪郡の遼西移動の怪」はそれらをも遥かに越える程の組織的で文字通りの「子供騙しの改竄」です。
日本の歴史学者達とは、歴史書の記述を解釈して歴史を構築しているのではありません。
偉大なる先人達の先行研究の蓄積に沿うように歴史書の記述を適当に解釈し、
社会的影響力を用いてそれを史実としているとしか思えません。
このような改竄歴史を信じて時間を浪費している者達は、哀れとしか言いようがありません。
歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?
「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。
従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。
このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?
歴史学における不正行為(歴史の捏造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、
倫理的にも法律的にも何の問題もありません。
むしろ倫理的に問題がある行為とは、
歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。
新型コロナウィルス
菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、
日本が世界に誇るべき偉業でしょう。
単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、
飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。
それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、
クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。
安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。
安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、
飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、
「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、
惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。
ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。
話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。
何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。
フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。
マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。
マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。
おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録」
満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。
現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。
歴史認識問題のマスコミのごまかしは歴史学の嘘の温床の口封じ
マスコミ社会問題は歴史問題の現実逃避と思考停止の社会教育
歴史学の蓄積で言論統制するネトウヨ妄想のマスコミ学校教育
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