歴史認識問題のマスコミのごまかしは歴史学の捏造歪曲もみ消し
〜嘘の温床マス・メディアの口封じ社会問題〜吊し上げ血祭り見せしめ言いくるめ教育問題〜

歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会科学研究家, 2022.11.10

 学校で必ず教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件を覚えているでしょうか。 しかし実際には高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、歴史書における楽浪郡はその後も存続しています。 即ち、これは歴史学的な根拠など全くない嘘歴史です。 「こうだったら説明がつくからいいなぁ」という程度の歪曲歴史仮説です。 「歴史学の成果は実証主義の史料批判に基いているから信頼できる」などと信じている者達は騙されています。 実際には史料批判どころか何の史料にも記述されていないようなトンデモ歴史をでっち上げ、 それを「史実」として確定してきたというのが、 日本の歴史学者達が長年隱し続けてきた秘密です。 では日本の歴史学者達は何故そのような捏造歴史を学校で子供達に教育する必要があるでしょうか? それは歴史学的に確定してしまった「楽浪郡が平壌に存在した」という改竄歴史に決して疑問を持つ事がないように言いくるめるためです。 STAP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学のパンドラの箱、「100年に渡る組織的な研究不正」に対して決して疑問を持たぬようにして言い逃れるために。 だから「邪馬台国」などという愛国ファンタジーで子供達を洗脳して歴史の真実を言論統制し、 日本人を歴史の真実と向き合う事のできないように歴史修正主義者化、ネトウヨ化してきたのです。 ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに、 子供達を騙し続けて国民を愛国ポルノで愚民化して歴史の真実を口封じしてきたというのが「歴史学者の正体」です。

歴史認識問題のマスコミのごまかしは歴史学の捏造歪曲もみ消し

 そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、 日本のマスコミと社会学者達なのです。 「歴史学の権威」を疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、 歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、 歴史学者達には、もはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで吊し上げて血祭りにして見せしめにして口封じし、 子供たちを騙し続けて思考停止させる以外に選択肢がなくなったのです。 何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、 マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。 しかし「歴史学の権威」を用いてマスコミに都合の悪い主張をした途端、 学者達のカードは最弱にされてしまい粛清(キャンセル)されてしまうからです。 そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、 「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。 彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、 もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。 「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるために社会学者達を御用学者として祭り上げ、「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「マスコミの正体」です。 「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、 それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、 歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、 歴史問題が解決されないように奔走してきた、 日本のマスメディアと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。

ポリコレ歴史修正主義の問題点(さらに詳しく!)

 本来であれば歴史学の通説とは、 史料批判に基いた実証主義的客観主義的な「学術的な議論」の結果により決定されるべきです。 しかし日本の歴史学者達は、通説を議論の結果により決めてきたのではありません。 決定してきたのは何と「場の空気」だったのです。 それに先行研究の蓄積を崇拝するので「場の空気」を支配するような学界の大御所達には逆らえず、 先学達の間違いを修正する事ができません。 また外部からの意見に耳を傾ける必要もありませんので、 非公開の場所で学界の内部の論理で政治的、社会的に決定されてきたのです。 日本の歴史学とは、 不都合な歴史資料を情報統制し、 社会的に望ましい歴史仮説「ポリコレ歴史」を史実だと「歴史学的に確定」し、 歴史の真実の隠蔽工作を行ってきた「ポリコレ歴史創作集団」です。

 本来であればこのような日本の歴史学の組織的な不正行為を暴くのはマスメディアの責任です。 しかし日本のマスメディアには社会的責任を果たす能力が無いだけでなく、 その意思もありません。 それどころかマスメディアは、 この「歴史学の権威」を守るために都合の悪い事実を隠蔽してきました。 「邪馬台国が日本列島には存在しなかった理由」などいくらでもありますが、 誰もそれを知らないのがその証拠です。 日本のマスメディアは歴史学が「場の空気」で通説を決定する「ポリコレ歴史学」である事を利用し、 社会的影響力を行使してその「場の空気」を作り出してきたのです。 自分達に都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」だとするために。 それだけでなくこの「歴史学の権威」を崇拝する事を「絶対正義のポリコレ」とするように愚民化政策をし、 崇拝しない者達には「ネトウヨ」という「逸脱者」のレッテルを貼って大衆が嫌悪感を持つように印象操作をしてきました。 そして異論に対しては「ポリコレ無罪」の罵詈雑言で吊し上げて血祭りにし、 見せしめにして言論弾圧してきた「ポリコレ歴史洗脳集団」です。

 本来であればこのような日本の歴史学やマスコミの組織的な欺瞞を告発すべき社会的責任がある者達とは、 社会現象の本質を暴くはずの社会学にあります。 しかし日本の社会学者達にとっての存在理由とは、 「社会現象の解明」という研究活動ではありません。 社会学会の研究指針が定める研究目的とは何と「社会正義の追求」なのです。 社会学者達自体が、 「真実よりもポリコレ」を追求する「ポリコレ原理主義者」であり、 都合の悪い人達を「学問の権威」を振りかざしてレッテルを貼って叩き潰すためにマスメディアから「免状」を授けられた「道徳事業家」です。 それに歴史学と同様に先行研究の蓄積を崇拝するので、 「場の空気」を支配するような大御所達には逆らう事はできません。 また外部の意見に耳を傾ける必要もありませんので、 マスメディアの影響下にある「場の空気」に支配された内輪の論理で「社会正義」を追求し、 まるで「風紀委員」であるかのように実社会にそれをゴリ押ししようとします。 だから社会学者達はマスメディアに出て来て走狗のようにボロクソに批判するだけで、 研究成果がなくても批判される事はないのです。 それだけでなく社会学者達は「実証主義」や「客観主義」を批判し、 日本の歴史学に「構築主義」を導入させました。 日本の歴史学が「ポリコレ歴史学」である事を利用し、 マスメディアと結託して罵詈雑言のポリコレ棒で吊し上げて同調しない歴史学者を全て粛清(キャンセル)し、 見せしめにしたのです。 そして歴史学界に「物言えぬ空気」を作り出して歴史学者達を骨抜きにして言いなりにし、 自分達の追求する社会正義を実現するために都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定」させました。 異論を主張するような「ネトウヨ」達には「そのような恥ずべき主張をする歴史学者は一人もいない」と糾弾して大衆が軽蔑するように言いくるめ、 「社会的権威のあるネトウヨ」を全て魔女狩りしてきた「ポリコレ歴史構築集団」です。

 本来であればこのように「学問の権威」を振りかざして「場の空気」を支配し、 「組織的な研究不正」をしてきた「頭ポリコレ」のエセ学者達を告発すべき社会的責任がある者達とは、 科学の向上発達を図るべき学術会議にあります。 しかしポリコレ決めてお気持だけで発狂する「ポリコレ信者」達の「モラル・ハラスメント」の同調圧力の前に、 学術会議も骨抜きにされて言いなりの存在です。 何故ならば信者達にはマスメディアから「免状」が与えられているので、 集団心理によって激しい活動を行うからです(自薦の用心棒)。 まともな科学者であればこのような問題に口を出して学者生命を危険に晒すよりも、 自分達の研究に専念したいのです。 学術会議のメンバー達とは学術界における「異端審問」による吊し上げ、袋叩き、血祭り、見せしめ、口封じによる言論統制を黙認してきた、 「キャンセル・カルチャー奨励集団」です。 これが総合的・俯瞰的な視点を導入して「学術的な議論」を取り戻し、 「構築主義」というポリコレ学問を脅かそうとするような学術会議の本質的な改革に対しては、 構築主義を死守することで国民を思考停止させ、もみ消して言い逃れを目論む「ポリコレ布教集団」が常人には理解できない程に猛反発して菅総理を敵視し、 オリンピックが失敗であると印象操作され、 その関係者が次々と粛清(キャンセル)された理由です。

 こうして日本人は「歴史学の権威」を利用してポリコレ歴史が史実となるような「場の空気」を「構築」する事に夢中な「ポリコレ歴史修正主義者」の集団となり、 学術的な議論によって歴史の真実に辿り着く事ができなくなりました。 社会的に望ましくない「不都合な真実(アンチポリコレ歴史)」に近付こうとする者達には、 社会全体からモラハラ誹謗中傷が行われ、 全て叩き潰されてきたのです(血祭り文化)。 これが日本人には100年かけても邪馬台国が見つけられなかった本当の理由です。 日本では歴史問題が不毛論争にしかならないのは当然の結果です。 愚民化された「ポリコレ馬鹿」にとっては「真実かどうか」には興味が無く、 「安全かどうか(safetyism)」が重要なのですから。 これがポリコレは社会に沈黙を強制し、人々を面従腹背にさせて分断すると言われる理由なのです。 「物言えぬ空気」は「不正の温床」とも言われており、 キング牧師はかつて次のように述べました。 「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める」と。 「ネトウヨ」や「パヨク」と呼ばれる分断された人達はどちらも「社会的な望ましさ(ポリコレ)」を追求するように現実逃避の教育をされた「ポリコレの変異種」であり、議論を通じて社会的に望ましくない「客観的な真実」に辿り着く事はありません。

ウソごまかしの偽歴史学(さらに詳しく!)

人気上昇中!応援メッセージが続々!
歴史学者ってポリコレに配慮してこれまでずっと国民を騙してきたんですね。そしてこれからも騙し続けるんですね。
ポリコレに配慮したこの国の歴史学や社会学は「嘘の温床」ですね。この国の大学は「嘘の製造工場」ですね。
ポリコレに配慮して研究不正を見て見ぬフリする学術会議の存在意義って何ですか?「税金の無駄」ですね。
ポリコレよりも「正直であれ」、「人の嫌がる事はしない」、「失礼な事は言わない」等の方が重要な社会規範じゃないでしょうか。
トンデモ歴史を幼少から叩き込まれ、それが常識となっているポリコレの社会って怖いですね。


 マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
  1. 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
  2. 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
  3. 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、 モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、 例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、 モラルに違反する話題をする事ができないため、 疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。 何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。 そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、 国民に以下の原則を守らせる事です。
  1. 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
  2. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
  3. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。 これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。 この3原則を社会規範として徹底させる事で、 歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。 そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、 歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。 このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。 即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、 それは正義を実現するために正当化される上に、 批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。 このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、 マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。

 この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、 マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。 例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、 それを隠し通す事ができるのです。 話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。 後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。 そしてマスメディアの保護がなければ、 国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。 歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。 そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。 社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、 その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。 「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、 社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、 彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。

 「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、 イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。 マスメディアはこの基本3原則を守る事により、 ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。 そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」 と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。 マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、 人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、 日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。

 マスメディアの本来の社会的役割とは、「国民の知る権利の代行」です。 即ち、マスメディアには社会的役割を果して国民に真実を伝える責任があります。 それこそがマスメディアが国民に対して果すべき責任です。 従って歴史学者達のコンセンサスが間違いであれば、マスメディアは真実を伝えるべきです。 マスメディアは真実を伝え、その社会的役割を果すべきです。 マスメディアの報道倫理として最も重要とされている項目とは、 「真実の報道」なのですから。

 しかし日本のマスメディアには「国民に真実を伝える」という社会的役割を果すよりも、 もっと重要な基本方針があります。 それは「国民に歴史学者達のコンセンサスを疑わせない事」です。 戦前のマスコミが国民に真実を伝えず、軍部の発表を疑わせないようにしていたのと同じです。 マスメディアの報道の信憑性の根拠が軍部から歴史学者に変っただけなのですから。 日本のマスメディアには「情報を十分に提供する」という責任が存在せず、 「報道しない自由」があるのです。 「報道の自由」の概念が単なる政府の干渉からの自由ではなく、 社会への責任と義務を伴った自由であるという「社会的責任理論」を理解していません。 要するに「ノブレス・オブリージュ」の概念を理解していないのです。

 マスメディアは例え正当性が説明されていない歴史仮説であったとしても、 社会的影響力を利用して歴史学者達に「ポリコレ棒」を用いて圧力をかけ、 コンセンサスを作り出して「史実」を確定させてきました。 そしてそれを「歴史学的に証明された客観的な事実である」として、 それに対しての疑問を持つ行為を社会的規範からの「逸脱」であると認定してきたのです。 マスメディアは自分達に都合の良い「史実」を確定するために、 日本社会に都合の良い社会規範を作り出してモラルを全面に打ち出し、 国民には歴史学者達のコンセンサスに対して絶対に疑問を持たせないように指導してきました。 マスメディアが歴史学者達のコンセンサスを疑わせない理由とは、 マスメディアがこれまで国民を騙してきた事を隱し通すためです。

 歴史学者達は神ではありませんので、現実世界では間違いがあるのは当然です。 むしろ間違いがある方が正常であり、学問とは間違いを修正しながら発展していくものです。 学問の世界では間違った学説を主張しても別に恥しい行為でも何でもありません。 本来の歴史学とは歴史仮説を公の場で様々な観点から議論し、 どのような仮説が最適の説明を与えるかを客観的に判断し、 史実に一歩一歩近付いていくものです。 しかし日本の歴史学では「史実」をコンセンサスで確定してしまうと、 もう修正する事が許されないのです。 楽浪郡平壌説を前提とした先行研究の数が余りにも多過ぎ、 「歴史学の成果の蓄積は正しい」という前提が崩れる事を恐れているからです。

 日本のマスメディアと歴史学者達とは、 「歴史学の成果の蓄積は正しい」という前提にすがりついて生きている人達です。 「歴史学者達のコンセンサスには間違いは無い」という前提を「ドグマ」とし、 「無敵の権威に訴える論証」をしています。 彼らは築き上げた虚構の世界を守り抜くために、自らの間違いを認める事は決してありません。 都合の悪い現実から目を背け、空想の世界に生きています。 歴史の真実を追求するよりも、「歴史学の成果の蓄積」を崇拝する事の方が大切なのです。 日本の歴史学とは、妄想の世界を狂信する「妄想歴史学」であり、 日本のマスメディアとは、妄想の世界を現実だと報道する「妄想マスコミ」です。

 マスメディアはただ単に歴史学者達の妄想を垂れ流しているだけではありません。 社会的影響力を最大限に使い、歴史学者達の妄想の世界を維持する事に努力を惜しむ事はありません。 歴史学者達のコンセンサスに反するような事実がある場合には、 それが国民には知られないように報道規制しています。 「邪馬台国が日本国内にあったはずがない理由」や、 「楽浪郡が朝鮮半島にあったはずがない理由」などは、 実はいくらでも存在します。 しかしそれらが報道される事が全くないため、誰も知らないのがその証拠です。 歴史学者に都合の悪い情報には、「報道しない自由」があるのですから。

 マスメディアと歴史学者は運命共同体であり、 彼らが「国民に真実を伝える」という社会的責任を果すつもりなど全くありません。 マスメディアが国民に対して行っている行動とは、 日本人が歴史学者達のコンセンサスを疑わないように沈黙させる事です。 「沈黙は愚者たちの美徳である。」と述べたのは、 イギリスの哲学者フランシス・ベーコンでした。 即ち、マスメディアが行っているのは「沈黙を美徳とする」ような「日本人の愚民化」です。 マスメディアは歴史学者達と運命を共にする事を既に決意し、 共に破滅するまで妄想の世界を維持し続けるつもりです。 だからマスメディアは邪馬台国が朝鮮半島国家であった事は、隱し続けるつもりなのです。

 邪馬台国論争を観察すればそれが理解できるはずです。 九州説も畿内説も語呂合せでルートを決めたり、 証拠にもならないような確証を示しているだけです。 仮説を正当化できるような根拠を示す者は誰もいません。 そして相手の説への非難合戦ばかりです。 根拠が無いにも関わらず社会的な方法で結論を導こうとしているのですから不毛論争になるのは当然です。 こんな方法で邪馬台国の場所を立証できるはずがない事をマスメディアは指摘すべきです。 しかし下手に知恵を授けると国民が九州説も畿内説も邪馬台国の位置への解答とは成り得ない事を理解してしまうかもしれません。 そうすると邪馬台国論争が「擬似問題」である事に気付いてしまうかもしれないのです。

 「邪馬台国がどこにあったか」などという問題は、 歴史学者にとってもマスコミにとっても全くどうでも良い問題です。 それどころか、それは絶対に解決してはいけない問題です。 だから歴史学者もマスメディアも邪馬台国論争を終結させる意思など全くありません。 そして日本社会では歴史学者とマスメディアが無視する仮説が社会で正当性を持つ事はありません。 だから邪馬台国論争が終結する事はないのです。 愚民は愚民のままでいるべきです。 歴史学者達もマスメディアも真実を伝えるつもりなど無く、 国民を騙してきた事を墓場まで持って行くつもりです。 彼らがこの擬似問題を放置しているのはこのためです。

 国民は歴史学者に対して決して疑問を持つことなく、 「卑弥呼は日本のどこかにいた」などという「古代史ポルノ」で興奮していれば良いのです。 だから邪馬台国に関するマスコミの記事は、考古学的確証の調査結果の提灯記事発表報道し、 読者が喜びそうな信憑性のないコメントを加えるだけです。 このような「子供だましのマスメディア」に導かれ、 日本人は論理的思考も疑問を持つ事もできなくなり、 邪馬台国を夢想して現実を直視する事ができなくなりました。 マスメディアが日本社会に育て上げたのは、 「歴史の真実に至る議論」をする事なく社会的方法で歴史を確定しようとする「誹謗中傷民族」です。 都合の悪い歴史仮説を主張する者達を社会から排除し、 都合の良い歴史仮説を社会的方法で「通説」にしてしまおうとする人達です。

 邪馬台国の女王卑弥呼など、歴史学者とマスコミによる国民の愚民化の道具の一つに過ぎません。 マスメディアの愚民化が日本社会に生み出したのは、 都合の悪い事実から目を背け、都合の良い仮説を史実する事に夢中な「歴史修正主義者」の集団です。 このように歴史修正主義者化された日本人が歴史問題を解決する日など、永遠に來る事はないでしょう。 マスメディアにとっては、歴史問題など別に解決しなくても構わないのですから。 日本人が歴史学者達のコンセンサスさえ疑わなければ。

トンデモ歴史を流布するマスコミ(さらに詳しく!)

歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?

 「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。 従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。

このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?

 歴史学における不正行為(歴史の捏造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、 倫理的にも法律的にも何の問題もありません。 むしろ倫理的に問題がある行為とは、 歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。

新型コロナウィルス

 菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、 日本が世界に誇るべき偉業でしょう。 単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、 飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。 それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、 クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。 安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。 安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、 飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、 「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、 惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。 ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。

 話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。 何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。 フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。 マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。 マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。

おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録

満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。

おまけ2:女性哲学者シモーヌ・ヴェイユの名言集

現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。

マスコミ社会問題は歴史問題の現実逃避と思考停止の社会教育
歴史教科書捏造の歴史教育問題と改竄歪曲のマスコミ社会問題
歴史学の蓄積で言論統制するネトウヨ妄想のマスコミ学校教育


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