マスコミ社会問題は歴史問題の現実逃避と改竄歪曲の社会教育
〜言い逃れマス・メディアと社会学のもみ消し歴史教育問題〜思考停止の吊し上げ血祭り見せしめ口封じゴリ押し〜

歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会科学研究家, 2023.2.4

 学校で必ず教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件を覚えているでしょうか。 しかし実際には高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、歴史書における楽浪郡はその後も存続しています。 即ち、これは歴史学的な根拠など全く存在しないでっち上げの歴史修正主義です。 「こうだったら説明がつくからいいなぁ」という程度の現実逃避の歴史仮説です。 「歴史学は史料批判に基くから信頼できる」などと信じている者達は騙されています。 実際には史料批判どころか、 何の史料にも記述されていないような改竄歴史を「史実」として確定してきたのが日本の歴史学です。 では歴史学者達は何故そのような歪曲歴史を学校で洗脳教育する必要があるのでしょうか? それは歴史学的に確定してしまった「楽浪郡が平壌に存在した」という改ざん歴史に子供達が決して疑問を持つ事がないように歴史隠蔽して言い包めるためです。 STAP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学のパンドラの箱、「100年に渡る組織的な研究不正」に対し、 決して疑問を持たぬようにして言い逃れるために。 だから「邪馬台国は日本のどこかにあった」などという妄想歴史を学校教育を通して子供達に刷り込み、 都合の良い改変歴史仮説に疑問を持つ事がないようにネトウヨ化し、 疑問を持つ者達への口封じをしてきたのです。 ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに情報統制と隠蔽工作を行い、 国民を愛国ポルノで愚民化してきたというのが「歴史学者の正体」です。

マスメディアの社会問題は歴史問題の現実逃避と改竄歪曲の社会教育

 そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、 現代社会の日本のマスメディアと社会学者達なのです。 「歴史学の権威」を疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、 歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、 歴史学者達には、もはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで吊し上げ、袋叩き、血祭り、見せしめにし、 子供たちを騙し続けて現実逃避させる以外に選択肢がなくなったのです。 何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、 マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。 しかし「歴史学の権威」を用いてマスコミに都合の悪い主張をした途端、 学者達のカードは最弱にされてしまいキャンセルされてしまうからです。 そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、 「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。 彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、 もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。 「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるために社会学者達を御用学者として祭り上げ、 「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「マスコミの正体」です。 「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、 それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、 歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、 歴史問題が解決されないように奔走してきた、 マスコミと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。

ポリコレ歴史修正主義の問題点(さらに詳しく!)

 本来であれば歴史学の通説とは、 史料批判に基いた実証主義的客観主義的な「学術的な議論」の結果により決定されるべきです。 しかし日本の歴史学者達は、通説を議論の結果により決めてきたのではありません。 決定してきたのは何と「場の空気」だったのです。 それに先行研究の蓄積を崇拝するので「場の空気」を支配するような学界の大御所達には逆らえず、 先学達の間違いを修正する事ができません。 また外部からの意見に耳を傾ける必要もありませんので、 非公開の場所で学界の内部の論理で政治的、社会的に決定されてきたのです。 日本の歴史学とは、 不都合な歴史資料を情報統制し、 社会的に望ましい歴史仮説「ポリコレ歴史」を史実だと「歴史学的に確定」し、 歴史の真実の隠蔽工作を行ってきた「ポリコレ歴史創作集団」です。

 本来であればこのような日本の歴史学の組織的な不正行為を暴くのはマスメディアの責任です。 しかし日本のマスメディアには社会的責任を果たす能力が無いだけでなく、 その意思もありません。 それどころかマスメディアは、 この「歴史学の権威」を守るために都合の悪い事実を隠蔽してきました。 「邪馬台国が日本列島には存在しなかった理由」などいくらでもありますが、 誰もそれを知らないのがその証拠です。 日本のマスメディアは歴史学が「場の空気」で通説を決定する「ポリコレ歴史学」である事を利用し、 社会的影響力を行使してその「場の空気」を作り出してきたのです。 自分達に都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」だとするために。 それだけでなくこの「歴史学の権威」を崇拝する事を「絶対正義のポリコレ」とするように愚民化政策をし、 崇拝しない者達には「ネトウヨ」という「逸脱者」のレッテルを貼って大衆が嫌悪感を持つように印象操作をしてきました。 そして異論に対しては「ポリコレ無罪」の罵詈雑言で吊し上げて血祭りにし、 見せしめにして言論弾圧してきた「ポリコレ歴史洗脳集団」です。

 本来であればこのような日本の歴史学やマスコミの組織的な欺瞞を告発すべき社会的責任がある者達とは、 社会現象の本質を暴くはずの社会学にあります。 しかし日本の社会学者達にとっての存在理由とは、 「社会現象の解明」という研究活動ではありません。 社会学会の研究指針が定める研究目的とは何と「社会正義の追求」なのです。 社会学者達自体が、 「真実よりもポリコレ」を追求する「ポリコレ原理主義者」であり、 都合の悪い人達を「学問の権威」を振りかざしてレッテルを貼って叩き潰すためにマスメディアから「免状」を授けられた「道徳事業家」です。 それに歴史学と同様に先行研究の蓄積を崇拝するので、 「場の空気」を支配するような大御所達には逆らう事はできません。 また外部の意見に耳を傾ける必要もありませんので、 マスメディアの影響下にある「場の空気」に支配された内輪の論理で「社会正義」を追求し、 まるで「風紀委員」であるかのように実社会にそれをゴリ押ししようとします。 だから社会学者達はマスメディアに出て来て走狗のようにボロクソに批判するだけで、 研究成果がなくても批判される事はないのです。 それだけでなく社会学者達は「実証主義」や「客観主義」を批判し、 日本の歴史学に「構築主義」を導入させました。 日本の歴史学が「ポリコレ歴史学」である事を利用し、 マスメディアと結託して罵詈雑言のポリコレ棒で吊し上げて同調しない歴史学者を全て粛清(キャンセル)し、 見せしめにしたのです。 そして歴史学界に「物言えぬ空気」を作り出して歴史学者達を骨抜きにして言いなりにし、 自分達の追求する社会正義を実現するために都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定」させました。 異論を主張するような「ネトウヨ」達には「そのような恥ずべき主張をする歴史学者は一人もいない」と糾弾して大衆が軽蔑するように言いくるめ、 「社会的権威のあるネトウヨ」を全て魔女狩りしてきた「ポリコレ歴史構築集団」です。

 本来であればこのように「学問の権威」を振りかざして「場の空気」を支配し、 「組織的な研究不正」をしてきた「頭ポリコレ」のエセ学者達を告発すべき社会的責任がある者達とは、 科学の向上発達を図るべき学術会議にあります。 しかしポリコレ決めてお気持だけで発狂する「ポリコレ信者」達の「モラル・ハラスメント」の同調圧力の前に、 学術会議も骨抜きにされて言いなりの存在です。 何故ならば信者達にはマスメディアから「免状」が与えられているので、 集団心理によって激しい活動を行うからです(自薦の用心棒)。 まともな科学者であればこのような問題に口を出して学者生命を危険に晒すよりも、 自分達の研究に専念したいのです。 学術会議のメンバー達とは学術界における「異端審問」による吊し上げ、袋叩き、血祭り、見せしめ、口封じによる言論統制を黙認してきた、 「キャンセル・カルチャー奨励集団」です。 これが総合的・俯瞰的な視点を導入して「学術的な議論」を取り戻し、 「構築主義」というポリコレ学問を脅かそうとするような学術会議の本質的な改革に対しては、 構築主義を死守することで国民を思考停止させ、もみ消して言い逃れを目論む「ポリコレ布教集団」が常人には理解できない程に猛反発して菅総理を敵視し、 オリンピックが失敗であると印象操作され、 その関係者が次々と粛清(キャンセル)された理由です。

 こうして日本人は「歴史学の権威」を利用してポリコレ歴史が史実となるような「場の空気」を「構築」する事に夢中な「ポリコレ歴史修正主義者」の集団となり、 学術的な議論によって歴史の真実に辿り着く事ができなくなりました。 社会的に望ましくない「不都合な真実(アンチポリコレ歴史)」に近付こうとする者達には、 社会全体からモラハラ誹謗中傷が行われ、 全て叩き潰されてきたのです(血祭り文化)。 これが日本人には100年かけても邪馬台国が見つけられなかった本当の理由です。 日本では歴史問題が不毛論争にしかならないのは当然の結果です。 愚民化された「ポリコレ馬鹿」にとっては「真実かどうか」には興味が無く、 「安全かどうか(safetyism)」が重要なのですから。 これがポリコレは社会に沈黙を強制し、人々を面従腹背にさせて分断すると言われる理由なのです。 「物言えぬ空気」は「不正の温床」とも言われており、 キング牧師はかつて次のように述べました。 「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める」と。 「ネトウヨ」や「パヨク」と呼ばれる分断された人達はどちらも「社会的な望ましさ(ポリコレ)」を追求するように現実逃避の教育をされた「ポリコレの変異種」であり、議論を通じて社会的に望ましくない「客観的な真実」に辿り着く事はありません。

ウソごまかしの偽歴史学(さらに詳しく!)

人気上昇中!応援メッセージが続々!
歴史学者ってポリコレに配慮してこれまでずっと国民を騙してきたんですね。そしてこれからも騙し続けるんですね。
ポリコレに配慮したこの国の歴史学や社会学は「嘘の温床」ですね。この国の大学は「嘘の製造工場」ですね。
ポリコレに配慮して研究不正を見て見ぬフリする学術会議の存在意義って何ですか?「税金の無駄」ですね。
ポリコレよりも「正直であれ」、「人の嫌がる事はしない」、「失礼な事は言わない」等の方が重要な社会規範じゃないでしょうか。
トンデモ歴史を幼少から叩き込まれ、それが常識となっているポリコレの社会って怖いですね。


 マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
  1. 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
  2. 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
  3. 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、 モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、 例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、 モラルに違反する話題をする事ができないため、 疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。 何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。 そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、 国民に以下の原則を守らせる事です。
  1. 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
  2. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
  3. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。 これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。 この3原則を社会規範として徹底させる事で、 歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。 そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、 歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。 このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。 即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、 それは正義を実現するために正当化される上に、 批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。 このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、 マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。

 この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、 マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。 例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、 それを隠し通す事ができるのです。 話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。 後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。 そしてマスメディアの保護がなければ、 国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。 歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。 そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。 社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、 その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。 「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、 社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、 彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。

 「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、 イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。 マスメディアはこの基本3原則を守る事により、 ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。 そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」 と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。 マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、 人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、 日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。

 「大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。 なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ。」 これはアドルフ・ヒトラーが残した名言だが、 日本社会は歴史学者が信奉する「楽浪郡が平壌にあった」という大きな嘘に完全に騙されてしまいました。 「邪馬台国は日本にあった」という固定観念が深く刷り込まれ、 もはや楽浪郡平壌説は社会的にも否定する事が許されなくなったのです。 古代史へのロマンを打ち砕くだけではありません。 日本語と韓国語の言語類型論的類似性を考えればむしろ説得力がある話なのですが、祖先がそのような場所にいた事は現代の民族感情として受け入れられないからです。 天孫降臨や神武東征の日本神話が受け入れたくない事柄を想像させるためでもあります。 教科書も書き換えないといけません。 このような結論は誰も望んでいないのです。 日本人も韓国人も存在しない頃の話であると言うのに、現代人の民族感情が原因でパンドラの箱の中に邪馬台国は封印されてしまったのです。 これも倭人伝が解けない謎になってしまった理由です。

 日本社会は歴史学者に敬意を払い、歴史学者は有能であり間違いは無いと信じ、歴史学者がこの問題を解決してくれる日を心待ちにしています。 しかしそのような日が来る事は永遠にありません。 袋小路に陥った時には、何か大きな間違いをしている擬似問題である事を根本から疑ってブレイクスルーの方法を探すのが学問だけでなくビジネスや人生においても基本的な戦略です。 社会全体が事態打開の戦略を練って真実を追求する事よりも、100年の思考停止状態に安住し、永遠に卑弥呼を夢想しながら人身攻撃やネガティブキャンペーンに溢れた不毛な論争を続けたいのでしょうか。 日本人の創造性がこのような無意味な論争に浪費されてきた事は悲しむべき事ではないでしょうか。

 知識(Knowledge)とは、「正当化(Justify)」された真(Truth)なる信念(Belief)であるというのがプラトンに由来する伝統的な概念です。 「日本人は論理的思考が苦手だ」とも「日本人は社会的影響を受けやすい」とも言われています。 その根本的な原因は日本社会では、プラトン以来の欧米社会の伝統であり、「知識獲得のサイクル」における仮説の検証作業のために必要なこの「正当化の論証」という概念が存在しないためでしょう。 邪馬台国論争が解けないのは単に学者達の無能だけが原因なのではなく、日本社会の深層に潜む病が原因なのです。 その病の正体とは、「主張」が「真理」である事を保証して「知識」として確定するためには「正当化の論証」によって確定されるではなく、「全会一致の精神論」によって確定されるという考え方です。 簡単に言えば「みんながそう考えるようになればそれが真理であり、真理の達成のためには非論理的思考を積極的に使うべきだ」という思考です。

 この思考の下では「客観的な真実」が追求される事はありません。 「好都合の真実」を実現するためには多数派意見、 専門家の信念、 チェリーピッキング、 早まった一般化などの多種多様の誤謬が総動員されます。 そして「不都合な主張」は当然の如く道徳主義の誤謬によって排除されます。 それ故に論証など無視しても考古学的確証だけで邪馬台国畿内説が歴史の真実になると考えるのです。 そして、それが非論理的思考である事は問題にされません。 問題にされないのはマスコミ自体に論理的思考能力や知識人の公正さの概念が欠けているばかりでなく、 マスコミ自体が論証よりも確証を追求するニセ歴史学の信奉者であり、 ウーズル効果を利用してファクトイドを生成する不正行為の共犯者であるからです。 「不都合な主張」を検証しようとする動機を生み出すこの「正当化の論証」の概念自体が日本社会には存在しない。 これが楽浪郡平壌説が疑われる事のない理由であり、 即ちこれが邪馬台国論争が解けない根本的な理由です。

 マスコミは戦前と同じように集団心理に同調して集団行動するだけの傍観者集団で、 王様が裸である事に気付く事はありません。 マスコミは文献史学や考古学の学芸員や教育委員会と同様に、 不都合な可能性を疑う事の無い大政翼賛会の重要な一員です。 マスコミが考古学者の考古学的確証の調査結果の提灯記事を発表報道する姿はまるで大本営発表を楽しみに待っているかのようです。 集団心理に同調して不都合な可能性の報道を自粛する、 多くの人々を悲劇へと導いたこの恥ずべき無責任な傍観者根性は戦後70年が過ぎた現在においても全く改善される事はありません。

 社会科学とは本来、科学的思考に由来する客観的視点によって社会の真実を探求する学問です。 社会科学の専門家達は、科学的思考を身に付けて社会が組織的強化や集団思考に陥って危険な方向に進んで行かないように警告する義務があります。 社会科学では政治学、宗教学、倫理学、哲学などでは自然科学と異なり、「客観的真理」よりも「政治的真理」、「道徳的真理」、「実用的真理」などを追求し、「正当化」の論証ではなく「真理の合意説」や「真理の実用説」などによって真理を追求する事があります。 だが歴史学という学問は実証主義に基づいて「ただ事実を記すべき」の学問です。 歴史学が探求すべき「真理」とは、「道徳的真理」でも「実用的真理」でもなく、自然科学と同じ「客観的真理」なのです。 歴史学には「正当化による論証」と「認知バイアスや誤謬の排除」に基づいた科学的思考が必須で、「真理の合意説」は排除されねばなりません。

 しかし、残念ながら歴史学も含めた日本の社会科学の世界では科学的思考を受け入れてはいません。 「自然科学と社会科学は役割分担すべきだ」とも言われています。 これは「科学的思考の勢力は実験結果を整理して自然科学の真理だけを追求していれば良い。 社会科学の成果に対し、正当化などという検証概念を覚えて科学的思考を適用させてはいけない」というのが実態でしょう。 これまで社会科学において科学的思考がされて来なかったとなりますと、「真理の合意説」に基づいて「道徳的真理」が追求され、「客観的真理」が排除されてきた可能性があります。 その場合、社会的啓蒙に不都合な仮説を組織的に排除する事でニセ科学に陥っている危険性が有ります。 これまでの社会科学、特に客観的真理を追求すべき歴史学の成果は学問の水準を満たしていない危険性が有り、科学的思考の勢力によって全て根本から再検証されなければならないでしょう。

 日本の学術界には「自己の専門研究が及ぶ範囲を自覚」というルールがありますが、これこそが日本社会の禁忌を守り続けている強固な要塞なのでしょう。 間違った研究成果を尊重する必要などないのに、他分野は口を出してはいけないのですから。 学問とは決して独自の体系に閉じこもっていてはいけません。 他分野からの検証を積極的に受け入れてこそ、学問は発展するのです。 社会科学や人文科学が「実験ができないから科学ではない」という理由で認知バイアスや誤謬を許容しても良いはずがありません。 日本の学術界自体が、ニセ歴史学を保護する強固な体制を作り上げ、学問の発展を阻害しているのです。 このような愚かなルールは今すぐ撤廃すべきです。 歴史学者達は、他分野からの批判に積極的に答えなくてはいけません。

 社会の禁忌を破った逸話として有名な「裸の王様」の童話の本来の伝承では、 パンドラの箱を開けるのは子供ではなく黒人であり、即ち外国人でした。 外国人が問題にしていない以上、日本の歴史学者の主張が正しいのではないかと考えるかもしれません。 しかし、この問題は実は日本人だけの問題ではありません。 邪馬台国が韓国起源であれば、韓国人は喜ぶだろうと考えるかもしれませんが、 それはとんでもない勘違いです。 この問題は韓国人にとってはさらに深刻なパンドラの箱なのです。

 韓国人なら誰でも知っている偉大なる朝鮮民族の始祖であり、 箕子が封じられるまで朝鮮の地を1500年間支配したという檀君。 その即位を祝う開天節は韓国人にとっては光復節と並んで「国慶日」と呼ばれる重要な祝日に指定されています。 しかし、楽浪郡が遼東にあった事になると箕子朝鮮も遼東にあった事になる。 そうすると檀君朝鮮も遼東にあったという事になり、朝鮮半島の歴史とは関係が無くなってしまう。 すると檀君神話は後世の偽造が疑われ、 韓国人が作り上げた民族の物語が根本的に否定される危険があるのです。 そればかりではありません。 そもそも任那日本府の存在さえ認めていない韓国人にとって、 朝鮮半島の歴史が軽蔑する倭人の手によって始まり、半島全体が倭人の土地だったというようなコペルニクス的転回が受け入れられるはずがありません。 まだ中国の植民地だったという説の方がマシで、定説を否定する事によって韓国人が受ける衝撃は日本人とは比べ物にならないほど強大であり、その結果を受け入れられるはずがない。 それ故に韓国の歴史学者もマスコミも定説を守り続ける以外に道はありません。 韓国社会も日本社会と同様に真実と向き合う事ができない。 これは外交問題に発展する事が間違い無いほど恐ろしい問題なのです。

 楽浪郡平壌説とは歴史学者達が生み出した妄想であるにもかかわらず、歴史学者にとっても、日本社会にとっても、東アジア全体にとっても絶対に否定してはいけない説なのです。それ故に邪馬台国は朝鮮半島から追い出され、幾重にも重ねられた固いパンドラの箱の中に封印されて、永遠に見つけられないようになっています。 こうして真実に近づこうとする者達は異端として抹殺され、 歴史学者の改竄した偽歴史に騙された者達は、中国人が知らなかった土地の上で、行程が合わない事や記紀に記述が無い事に疑問を持ちながら、見つかるはずの無い邪馬台国を延々と探し続けてきたのです。

 立証責任を放棄した歴史学者達にそそのかされて偽歴史を完成しようとする者達と、歴史学者達に騙された上に「研究ごっこ」と馬鹿にされながらも偽歴史の完成を阻もうとする者達との間で繰り広げられる不毛な論争。 これが邪馬台国論争の真相です。 この論争から得られる事は、ニセ歴史学の手法を学ぶ事だけです。 卑弥呼は泣いているのでしょうか。 それとも笑っているのでしょうか。

 これからも日本人は貴重な時間を浪費してニセ歴史学の手法を学び、永遠に邪馬台国を探し続けるのでしょう。 パンドラの箱を開けてしまわない限り。 論争が始まってからもう100年。そろそろ夢から覚め、異端とされている山形説へのパラダイムシフトを図るべき時ではなかろうか。 嘘で塗り固められた歴史など、日本人には不要のはずだ。 もうこれ以上、偽歴史を子供たちに教えるべきではない。 子供たちに教えるべきは「全会一致の精神論」ではない。 教えるべきは、批判的思考に基づいた論理的推論の方法であるべきだ。 子供たちに教えるべきは「不都合な可能性からの逃避(駝鳥政策)」ではない。 教えるべきは、不都合な可能性を直視する「正当化の論証」であるべきだ。 子供たちの将来のためにも、日本の将来のためにも、子供たちに誤った道を歩ませてはいけない。 韓国や中国との歴史認識問題を解決するためにも。

トンデモ歴史を流布するマスコミ(さらに詳しく!)

歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?

 「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。 従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。

このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?

 歴史学における不正行為(歴史の偽造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、 倫理的にも法律的にも何の問題もありません。 むしろ倫理的に問題がある行為とは、 歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。

新型コロナウィルス

 菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、 日本が世界に誇るべき偉業でしょう。 単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、 飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。 それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、 クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。 安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。 安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、 飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、 「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、 惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。 ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。

 話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。 何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。 フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。 マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。 マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。

おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録

満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。

おまけ2:女性哲学者シモーヌ・ヴェイユの名言集

現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。

歴史認識問題のマスコミのごまかしは歴史学の嘘の温床の口封じ
歴史教科書捏造の歴史教育問題と改竄歪曲のマスコミ社会問題
歴史学の蓄積で言論統制するネトウヨ妄想のマスコミ学校教育


本ウェブページ内容の複製、引用、リンク、再配布は自由です。 画像はアイコンにどうぞ。