歴史教育の問題点はごまかし現実逃避のネトウヨ隠蔽学校教育
〜社会問題と教育問題の口封じ言いくるめ〜まやかし社会教育でデタラメもみ消し言い逃れゴリ押し〜

歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会学研究家, 2022.12.15

 学校で必ず教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件を覚えているでしょうか。 しかし実際には高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、歴史書における楽浪郡は中国でその後も存続しています。 即ち、これは歴史学的な根拠など全くないデタラメ歴史です。 「こうだったら説明がつくからいいなぁ」という程度の歴史隠蔽主義です。 「歴史学の研究成果は史料批判に基くから信頼できる」などと信じている者達は騙されています。 実際には史料批判どころか、 何の史料にも記述されていないような「お気持ち歴史」をでっち上げ、 それを「史実」として確定してきたのが日本の歴史学です。 では日本の歴史学者達は何故そのようなフェイク歴史で学校教育をする必要が有るのでしょうか? それは「楽浪郡が平壌に存在した」という妄想歴史に決して疑問を持つ事がないように口封じして言い包めるためです。 STAP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学のパンドラの箱、 「100年に渡る組織的な研究不正」に対して決して疑問を抱く事が無いように隠蔽して言い逃れるために。 だから「大好きな邪馬台国は日本のどこかにあった」などという愛国童話で子供達を洗脳し、 日本人を都合の良い歴史仮説に疑問を持つ事がないようにネトウヨ化し、 韓国を「中国の万年属国」などと罵倒させてきたのです。 ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに、 子供達を洗脳歴史教育で騙し続け、国民を愛国ポルノで言いくるめてきたというのが「歴史学者の正体」です。

歴史教育の問題点はごまかし現実逃避のネトウヨ隠蔽学校教育

 そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、 日本のマスコミと社会学者達なのです。 「歴史学の権威」を疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、 歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、 歴史学者達には、もはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで袋叩きにして骨抜きにして口封じし、 子供たちを騙し続けて思考停止させる以外に選択肢がなくなったのです。 何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、 マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。 しかし「歴史学の権威」を用いてマスコミに都合の悪い主張をした途端、 学者達のカードは最弱にされてしまい粛清(キャンセル)されてしまうからです。 そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、 「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。 彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、 もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。 「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるためにマスコミの御用学者となって「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「社会学者の正体」です。 「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、 それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、 歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、 歴史問題が解決されないように奔走してきた、 日本のマスコミと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。

ポリコレ歴史修正主義の問題点(さらに詳しく!)

 本来であれば歴史学の通説とは、 史料批判に基いた実証主義的客観主義的な「学術的な議論」の結果により決定されるべきです。 しかし日本の歴史学者達は、通説を議論の結果により決めてきたのではありません。 決定してきたのは何と「場の空気」だったのです。 それに先行研究の蓄積を崇拝するので「場の空気」を支配するような学界の大御所達には逆らえず、 先学達の間違いを修正する事ができません。 また外部からの意見に耳を傾ける必要もありませんので、 非公開の場所で学界の内部の論理で政治的、社会的に決定されてきたのです。 日本の歴史学とは、 不都合な歴史資料を情報統制し、 社会的に望ましい歴史仮説「ポリコレ歴史」を史実だと「歴史学的に確定」し、 歴史の真実の隠蔽工作を行ってきた「ポリコレ歴史創作集団」です。

 本来であればこのような日本の歴史学の組織的な不正行為を暴くのはマスメディアの責任です。 しかし日本のマスメディアには社会的責任を果たす能力が無いだけでなく、 その意思もありません。 それどころかマスメディアは、 この「歴史学の権威」を守るために都合の悪い事実を隠蔽してきました。 「邪馬台国が日本列島には存在しなかった理由」などいくらでもありますが、 誰もそれを知らないのがその証拠です。 日本のマスメディアは歴史学が「場の空気」で通説を決定する「ポリコレ歴史学」である事を利用し、 社会的影響力を行使してその「場の空気」を作り出してきたのです。 自分達に都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」だとするために。 それだけでなくこの「歴史学の権威」を崇拝する事を「絶対正義のポリコレ」とするように愚民化政策をし、 崇拝しない者達には「ネトウヨ」という「逸脱者」のレッテルを貼って大衆が嫌悪感を持つように印象操作をしてきました。 そして異論に対しては「ポリコレ無罪」の罵詈雑言で吊し上げて血祭りにし、 見せしめにして言論弾圧してきた「ポリコレ歴史洗脳集団」です。

 本来であればこのような日本の歴史学やマスコミの組織的な欺瞞を告発すべき社会的責任がある者達とは、 社会現象の本質を暴くはずの社会学にあります。 しかし日本の社会学者達にとっての存在理由とは、 「社会現象の解明」という研究活動ではありません。 社会学会の研究指針が定める研究目的とは何と「社会正義の追求」なのです。 社会学者達自体が、 「真実よりもポリコレ」を追求する「ポリコレ原理主義者」であり、 都合の悪い人達を「学問の権威」を振りかざしてレッテルを貼って叩き潰すためにマスメディアから「免状」を授けられた「道徳事業家」です。 それに歴史学と同様に先行研究の蓄積を崇拝するので、 「場の空気」を支配するような大御所達には逆らう事はできません。 また外部の意見に耳を傾ける必要もありませんので、 マスメディアの影響下にある「場の空気」に支配された内輪の論理で「社会正義」を追求し、 まるで「風紀委員」であるかのように実社会にそれをゴリ押ししようとします。 だから社会学者達はマスメディアに出て来て走狗のようにボロクソに批判するだけで、 研究成果がなくても批判される事はないのです。 それだけでなく社会学者達は「実証主義」や「客観主義」を批判し、 日本の歴史学に「構築主義」を導入させました。 日本の歴史学が「ポリコレ歴史学」である事を利用し、 マスメディアと結託して罵詈雑言のポリコレ棒で吊し上げて同調しない歴史学者を全て粛清(キャンセル)し、 見せしめにしたのです。 そして歴史学界に「物言えぬ空気」を作り出して歴史学者達を骨抜きにして言いなりにし、 自分達の追求する社会正義を実現するために都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定」させました。 異論を主張するような「ネトウヨ」達には「そのような恥ずべき主張をする歴史学者は一人もいない」と糾弾して大衆が軽蔑するように言いくるめ、 「社会的権威のあるネトウヨ」を全て魔女狩りしてきた「ポリコレ歴史構築集団」です。

 本来であればこのように「学問の権威」を振りかざして「場の空気」を支配し、 「組織的な研究不正」をしてきた「頭ポリコレ」のエセ学者達を告発すべき社会的責任がある者達とは、 科学の向上発達を図るべき学術会議にあります。 しかしポリコレ決めてお気持だけで発狂する「ポリコレ信者」達の「モラル・ハラスメント」の同調圧力の前に、 学術会議も骨抜きにされて言いなりの存在です。 何故ならば信者達にはマスメディアから「免状」が与えられているので、 集団心理によって激しい活動を行うからです(自薦の用心棒)。 まともな科学者であればこのような問題に口を出して学者生命を危険に晒すよりも、 自分達の研究に専念したいのです。 学術会議のメンバー達とは学術界における「異端審問」による吊し上げ、袋叩き、血祭り、見せしめ、口封じによる言論統制を黙認してきた、 「キャンセル・カルチャー奨励集団」です。 これが総合的・俯瞰的な視点を導入して「学術的な議論」を取り戻し、 「構築主義」というポリコレ学問を脅かそうとするような学術会議の本質的な改革に対しては、 構築主義を死守することで国民を思考停止させ、もみ消して言い逃れを目論む「ポリコレ布教集団」が常人には理解できない程に猛反発して菅総理を敵視し、 オリンピックが失敗であると印象操作され、 その関係者が次々と粛清(キャンセル)された理由です。

 こうして日本人は「歴史学の権威」を利用してポリコレ歴史が史実となるような「場の空気」を「構築」する事に夢中な「ポリコレ歴史修正主義者」の集団となり、 学術的な議論によって歴史の真実に辿り着く事ができなくなりました。 社会的に望ましくない「不都合な真実(アンチポリコレ歴史)」に近付こうとする者達には、 社会全体からモラハラ誹謗中傷が行われ、 全て叩き潰されてきたのです(血祭り文化)。 これが日本人には100年かけても邪馬台国が見つけられなかった本当の理由です。 日本では歴史問題が不毛論争にしかならないのは当然の結果です。 愚民化された「ポリコレ馬鹿」にとっては「真実かどうか」には興味が無く、 「安全かどうか(safetyism)」が重要なのですから。 これがポリコレは社会に沈黙を強制し、人々を面従腹背にさせて分断すると言われる理由なのです。 「物言えぬ空気」は「不正の温床」とも言われており、 キング牧師はかつて次のように述べました。 「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める」と。 「ネトウヨ」や「パヨク」と呼ばれる分断された人達はどちらも「社会的な望ましさ(ポリコレ)」を追求するように現実逃避の教育をされた「ポリコレの変異種」であり、議論を通じて社会的に望ましくない「客観的な真実」に辿り着く事はありません。

ウソごまかしの偽歴史学(さらに詳しく!)

人気上昇中!応援メッセージが続々!
歴史学者ってポリコレに配慮してこれまでずっと国民を騙してきたんですね。そしてこれからも騙し続けるんですね。
ポリコレに配慮したこの国の歴史学や社会学は「嘘の温床」ですね。この国の大学は「嘘の製造工場」ですね。
ポリコレに配慮して研究不正を見て見ぬフリする学術会議の存在意義って何ですか?「税金の無駄」ですね。
ポリコレよりも「正直であれ」、「人の嫌がる事はしない」、「失礼な事は言わない」等の方が重要な社会規範じゃないでしょうか。
トンデモ歴史を幼少から叩き込まれ、それが常識となっているポリコレの社会って怖いですね。


 マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
  1. 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
  2. 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
  3. 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、 モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、 例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、 モラルに違反する話題をする事ができないため、 疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。 何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。 そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、 国民に以下の原則を守らせる事です。
  1. 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
  2. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
  3. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。 これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。 この3原則を社会規範として徹底させる事で、 歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。 そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、 歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。 このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。 即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、 それは正義を実現するために正当化される上に、 批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。 このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、 マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。

 この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、 マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。 例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、 それを隠し通す事ができるのです。 話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。 後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。 そしてマスメディアの保護がなければ、 国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。 歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。 そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。 社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、 その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。 「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、 社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、 彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。

 「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、 イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。 マスメディアはこの基本3原則を守る事により、 ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。 そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」 と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。 マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、 人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、 日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。

 「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」。 学校で重点項目として必ず記憶させられるこの歴史事件には、実は根拠などない。 正史である晋書には記述がなく、 三国史記に「313年に美川王は楽浪郡を攻めて捕虜2000人余りを捕獲した」との記述が、 そして「313年に高句麗と戦っていた遼東郡太守張統と楽浪郡太守王遵が謀って鮮卑慕容部に帰順し、慕容カイが張統を楽浪郡の太守、王遵をその参軍事とした」という記述が資治通鑑晋紀にあるだけでる。 歴史書には、楽浪郡が滅ぼされたとか、楽浪郡の場所が移動したとかという記録がないばかりでなく、楽浪郡が313年の後も存続している事が記されている。 これは永嘉の乱で事実上滅亡した西晋の楽浪郡と遼東郡の刺史達が、鮮卑慕容部に帰順する事を選択したという記録である。 そもそも正史に載っていない時点で、これが日本の子供達が必ず覚えないといけないような重大な事件でない事は明らかである。

 しかし、日本の歴史学者達はこの事件を自分達のイデオロギーに沿うような物語に編集し、 学校教育で子供たちに「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」と最重要項目として教え、楽浪郡平壌説に疑問を持たないように洗脳している。 その真相は歴史学者達が単に「楽浪郡を朝鮮半島から消滅させるタイミング」を歴史書で探しても、 この事件以外に見つからなかったために「313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件をでっち上げただけであるにも関わらず。 そして「楽浪郡が朝鮮半島を420年間支配した」などという「大きなウソ」を子供達に教育しているのである。 日本の歴史学者達とは、歴史書の記述を解釈して歴史を構築しているのではない。 偉大なる先人達の先行研究の蓄積に沿うように歴史書の記述を適当に解釈し、 社会的影響力を駆使してそれを史実としているとしか考えられない。 だから偉大なる先行研究の成果である「楽浪郡平壌説」に沿って歴史書を適当に解釈し、 壮大な虚構の古代史を構築してしまったのである。

 楽浪郡平壌説に疑問を持ってはならず、 楽浪郡平壌説以外の仮説を提案してはならず、 楽浪郡平壌説以外の仮説を検証してはならない。 「可能性がある」程度の確証に過ぎない「楽浪漢墓」や「楽浪太守封泥」をもってして楽浪郡平壌説の「絶対的な確証」だと強弁し、 社会的影響を最大限に利用して楽浪郡平壌説以外の異論を排除している。 「疑問生成、仮説提案、検証」という、科学的思考のサイクルによる探究が存在しない。 それどころか楽浪郡平壌説を守り続けるために、 学校教育において子供たちに何の根拠もない作り話を固定観念として刷り込んで洗脳しても恥じる事はない。 問題意識など存在せず、 100年経っても邪馬台国論争が疑似問題である事に気付くことは無い。 いや本当は歴史学者達はとっくの昔から間違いに気付いている。 しかし真実に到達してしまった歴史学者達は恐しさの余り、皆ダチョウになってしまったのだ。 だから歴史学者達は邪馬台国の研究には全く興味が無いのである。 このようなニセ学者達の主張を信じて人生を棒に振った数多くの者達は、 哀れとしか言い様がない。

 ニセ歴史を普及させ、おびただしい数の人間の人生を破壊してきた歴史修正主義は、即刻解体せねばならない。 しかし歴史修正主義者達に史料をつきつけても、 「無敵の無知論証」に逃避するだけで無駄だ。 歴史修正主義者との建設的な議論など期待してはいけない。 また日本の歴史学は根底の部分から腐っており、もはや内部からの改革も期待できない。 歴史修正主義の解体は、外部からの強制的な圧力によってのみ実現可能である。 閉ざされた扉を開けて歴史の真実に向き合う事こそが、 現代日本人に課せられた使命となるだろう。

 現状の日本社会においては、外部からの圧力によってニセ歴史学を解体する方法はない。 何故ならば外部からの圧力を妨げているルールが日本の学術界に存在するからだ。 それは「自己の専門研究が及ぶ範囲を自覚」というルールである。 これこそが邪馬台国をパンドラの箱に封印し、日本社会の禁忌を守り続けている強固な扉の正体だ。 何しろ間違った研究成果を尊重する必要などないのに、他分野の者たちは口を出してはいけないのだから。 「日本の学術界自体が歴史修正主義を保護する強固な体制を作り上げ、学問の発展を阻害している」という現状を打破する必要がある。

 他分野からの検証は、これまで考えた事もないアイデアが導入される。 他分野からの意見を積極的に受け入れてこそ、学問は発展する機会が生まれるのだ。 学問とは決して独自の体系に閉じこもっていてはいけない。 日本の社会科学や人文科学が国際レベルに到達する事ができないのは、 これらの学問が他分野からの検証を受け入れていないからだ。 学術界が現状を打破して歴史修正主義に対処するためには、 学術界、教育界、マスメディアが「認識論」を学習し、「正当化論証に基づく立証責任」という学問の基本的概念を受け入れる必要がある。

 文部科学省のガイドラインにおいては、 「まずは研究者自らの規律に基づく自浄作用としてなされるべき」と規定されている。 しかし学術界も教育界もマスメディアも皆、自浄する事など期待できない。 これらの集団はニセ歴史学と深く関わって既に戻れない一線を越えており、 「関与のエスカレーション」によってもはや方針を変更する事ができない。 閉ざされた扉を開けて日本の学術界の未来を切り開くためには、 文部科学省に「学術界、教育界、マスメディアに、自らの規律に基づく自浄作用など期待できない」事を理解させる必要がある。 そのためには学術界、教育界、マスメディアに属さない外部にいる者たちが声を上げる必要があるだろう。

 学術界、教育界、マスメディアの方々が「問題解決」ができない場合には「水平思考」をするように呼びかけることだ。 疑問生成、仮説提案、検証のサイクルという「科学的思考のサイクル」が学問の基本である事を彼らに理解させることだ。 楽浪郡平壌説に疑問を持ち、楽浪郡平壌説以外の仮説の提案を許し、楽浪郡平壌説以外の仮説を検証するように呼びかけることだ。 また、邪馬台国論争が「擬似問題」である事に早く気付くように呼びかけることだ。 そして彼らが「無敵の無知論証」という詭弁に逃避する事無く、 知識人の公正さを示すように呼びかけることだ。 一番大切な事は、彼らに「歴史修正主義は絶対に許してはいけない」という事を理解させる事である。

トンデモ歴史を流布するマスコミ(さらに詳しく!)

歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?

 「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。 従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。

このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?

 歴史学における不正行為(歴史の偽造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、 倫理的にも法律的にも何の問題もありません。 むしろ倫理的に問題がある行為とは、 歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。

新型コロナウィルス

 菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、 日本が世界に誇るべき偉業でしょう。 単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、 飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。 それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、 クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。 安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。 安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、 飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、 「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、 惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。 ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。

 話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。 何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。 フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。 マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。 マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。

おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録

満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。

おまけ2:女性哲学者シモーヌ・ヴェイユの名言集

現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。

トンデモ歴史教科書でネトウヨ化するポリコレ歴史教育のまやかし
歴史認識捏造のネトウヨ歴史教育と社会学者のデタラメ社会問題
歪曲歴史教科書でポリコレ現実逃避するごまかし歴史教育問題


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