歴史教育の問題点はごまかし現実逃避のネトウヨ隠蔽学校教育
〜社会問題と教育問題の口封じ言いくるめ〜まやかし社会教育でデタラメもみ消し言い逃れゴリ押し〜
歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会学研究家, 2025.9.3
学校で必ず教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件を覚えているでしょうか。
しかし実際には高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、歴史書における楽浪郡は中国でその後も存続しています。
即ち、これは歴史学的な根拠など全くないデタラメ歴史です。
「こうだったら説明がつくからいいなぁ」という程度の歴史隠蔽主義です。
「歴史学の研究成果は史料批判に基くから信頼できる」などと信じている者達は騙されています。
実際には史料批判どころか、
何の史料にも記述されていないような「お気持ち歴史」をでっち上げ、
それを「史実」として確定してきたのが日本の歴史学です。
では日本の歴史学者達は何故そのようなフェイク歴史で学校教育をする必要が有るのでしょうか?
それは「楽浪郡が平壌に存在した」という妄想歴史に決して疑問を持つ事がないように口封じして言い包めるためです。
STAP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学のパンドラの箱、
「100年に渡る組織的な研究不正」に対して決して疑問を抱く事が無いように隠蔽して言い逃れるために。
だから「大好きな邪馬台国は日本のどこかにあった」などという愛国童話で子供達を洗脳し、
日本人を都合の良い歴史仮説に疑問を持つ事がないようにネトウヨ化し、
韓国を「中国の万年属国」などと罵倒させてきたのです。
ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに、
子供達を洗脳歴史教育で騙し続け、国民を愛国ポルノで言いくるめてきたというのが「歴史学者の正体」です。
そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、
日本のマスコミと社会学者達なのです。
「歴史学の権威」を疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、
歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、
歴史学者達には、もはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで袋叩きにして骨抜きにして口封じし、
子供たちを騙し続けて思考停止させる以外に選択肢がなくなったのです。
何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、
マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。
しかし「歴史学の権威」を用いてマスコミに都合の悪い主張をした途端、
学者達のカードは最弱にされてしまい粛清(キャンセル)されてしまうからです。
そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、
「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。
彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、
もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。
「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるためにマスコミの御用学者となって「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「社会学者の正体」です。
「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、
それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、
歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、
歴史問題が解決されないように奔走してきた、
日本のマスコミと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。
「擬似問題」という言葉をご存知だろうか?
問いを立てる際の暗黙の仮定や前提が誤っていたり、
検証できないものに依拠していたりするため答えがそもそも存在しない問いのことだ。
問いに含まれている誤った前提に気づくことなく、そのまま推論を進めていくと、
矛盾やパラドックスと呼ばれる状況に直面する。
一般にはそうした状況になって初めて、
「これは擬似問題なのではないか」つまり「議論の前提に何か誤りが含まれているのではないか?」と気が付くことになる。
擬似問題はある真性の問題について、その片鱗を掴んだだけの直観から記述されていることが多く、多くのばあい擬似問題は無意味ではなく真性の問題が含まれている。
こうした理由があるため、学術関係者は必ずしも矛盾やパラドックスを忌み嫌いはしない。
むしろ誤った仮定や前提の存在を教えてくれる重要なサインとして、矛盾やパラドックスについて深く考え、何とか「誤った前提」を見出そうと努力するのが「普通」である。
多くの擬似問題は論理的に適切な操作によって「擬似解決」を与えることができるが、
このばあい矛盾やパラドックスは「独断論」という擬似解決に先送りされている。
しかしどれだけ深刻な矛盾やパラドックスに突き当たっても問題点を考察する事もなく、
「誤った前提」を見出そうと努力する事を絶対にしない、
「普通」ではない思考停止した人達がこの世界には現実に数多く存在する。
それは日本の歴史学者達であり、
日本のマスコミであり、
そしてほぼ全ての日本人だ。
そもそも中国の正史に誰にも分らないような記述がされるはずがない。
歴史書を記述した者は、邪馬台国への行程を誰にでも分るように記述したはずだ。
邪馬台国が誰にも見つからない時点で何かおかしいと考えるのが「普通」だ。
しかし現実の日本社会では、邪馬台国を100年間探し続けて誰にも見つけられなくても、
その原因を追求しようとする動きは出て来ない。
誰もこれが擬似問題である事を疑う事はないのだ。
それだけでなく日本人は自分達の思考回路が「普通」ではない事には決して気付かないのだ。
「邪馬台国が日本列島に存在した」という仮説は絶対に正しいとされている。
しかしその根拠は実は前漢の武帝が前107年に衛氏朝鮮の跡地に置いたとされる「楽浪郡」が平壌にあったという「不動の定説」だけである。
平壌で発見された「楽浪漢墓」などの遺跡は中国系の住民が多数居住していた事の実証にしかならないし、
「楽浪太守封泥」などの遺物も楽浪郡との政治的交流が盛んだった事の実証にしかならない。
これらの考古学的確証では、例え朝鮮半島を支配したとしても「一時的に支配したかもしれない」程度の主張しかできないはずだ。
このような「可能性がある」程度の確証に過ぎない「楽浪漢墓」や「楽浪太守封泥」をもってして、
中国の歴代王朝がBC107年から313年までの江戸時代よりも長い420年もの間、
前漢、
新、
赤眉の乱、
後漢、
黄巾の乱、
三国時代、
西晋、
八王の乱などの激動と波乱の時代を通して、
一貫して朝鮮半島を支配した「絶対的な確証」だと強弁しているのが日本の歴史学者達である。
「楽浪漢墓」や「楽浪太守封泥」等の遺物を説明できる国家は、
わざわざ中国から楽浪郡を朝鮮半島に持って来なくても歴史書の中に存在する。
例えば「万里の長城」建設の苦役から逃亡した「秦人」逹が「馬韓」の東に建国したという「辰韓」等だ。
中国を統一した隋帝国の皇帝である煬帝は、
「隋の第二次高句麗遠征」において60万の大軍で平壌を攻撃した。
日本史上最大の合戦である「関ヶ原の戦い」は両軍併せても20万人に達しない。
元寇の弘安の役も、文禄・慶長の役の規模もそれぞれ15万人程度である事を考えれば、
中国史上最大規模の遠征軍である。
しかしその隋の大軍は中国と平壌の間にある朝鮮半島の清川江においてほとんどが殲滅されてしまったのだ。
この歴史を学びさえすれば乱世の歴代中国王朝が、
400年以上に渡って平壌の支配を維持する事などに関心があるはずがない事を、
「常識」として理解できるはずだ。
しかし「象牙の塔」の住人である歴史学者達は歴史書の世界に没頭し、現実の世界を見る事などない。
何しろこの人達は魏が満州において4万程度の軍隊を派遣して「遼隧の戦い」で勝利した事を理由に、
平壌を支配していた公孫氏は自動的に滅亡したと考えているのだからおめでたい思考の持主ばかりだ。
だから公孫氏の滅亡を機に「日本にいた卑弥呼が朝鮮半島に使者を送った」などという夢物語を本気で信じているのだ。
「中国歴代王朝が420年に渡って朝鮮半島を支配したという仮説には現実性(リアリティ)が無いのではないか」などという疑問を持つ歴史学者は、誰一人として存在しないのだ。
そしてこの机上の空論に過ぎない「楽浪郡平壌説」という現実性の無い仮説を社会的影響を最大限に利用して絶対的な明証性を持つドグマとし、
「独断論」という「擬似解決」に先送りしたままパラドックスを現在まで100年間も放置し続けてきたのである。
歴史学者達は単に現実の世界を見る能力が無いだけでなく、その本職であるべき「歴史書を解析する能力」においても無能である。
中国の歴史書では古代史書から14世紀に至るまで、
楽浪郡の場所は一貫して遼東(満州)に存在すると認識されていた。
三度目の遠征で遂に平壌を占領して高句麗を滅ぼした唐軍の中で、
「遂に楽浪の地を取り戻した」などと記した者は存在しない。
楽浪郡が平壌に存在したと思わせるような記述は中国の正史には存在しないのだ。
歴史書のどこをどう読んで楽浪郡が平壌にあったと結論したのか不思議だが、
ただ一つだけ考えられる理由があるとすればそれは「跡地に楽浪郡が設置されたという衛氏朝鮮は、朝鮮半島に存在した国家である」という、
検証されていない「論点先取」の誤謬だけである。
衛氏朝鮮が「朝鮮」という国名を持つため、それが「朝鮮半島」に存在したと思い込んだとしか考えられない。
「朝鮮」という国号が使われるようになったのは1392年に成立した李氏朝鮮からであり、
14世紀以前の中国人が「衛氏朝鮮」と「朝鮮半島」を混同する事は無かった。
それ故に中国の歴史書では14世紀に至るまで、
楽浪郡の場所は一貫して遼東(満州)に存在したと認識されていたのである。
ところが清の時代にもなると、
1739年に成立した明史において「楽浪の地であった朝鮮」と「李氏朝鮮」の説明が同じ項目にまとめて記されてしまう。
そして更に時代が下ると魏源が1842年に『聖武記』において「朝鮮は本より中国の地なり」と記したように、
もはや中国人自体が「衛氏朝鮮は朝鮮半島にあった」と完全に勘違いするようになってしまった。
この魏源の著作は幕末の日本の知識階級に多大な影響を与える。
そしてこれらの清代の歴史家達の誤った歴史認識は、
明治時代の日本の歴史学者達に何の疑念も生み出す事もなく受け継がれたのである。
日本の歴史学者達の「通説」は、最初から間違っていたのだ。
しかし日本の歴史学者達は現在に至るまで「歴史学の通説」や「偉大なる明治の先人達の先行研究」を崇拝し、
楽浪郡平壌説は変更不能な聖なる理論となってしまった。
こうして歴史学者達は「歴史学の成果」が間違っている事に気付かないまま、
「偉大なる先人達」の犯した過ちを大切に守り続け、
100年に渡って誤った研究成果を蓄積してきたのである。
現実世界においてはゴミの山にすぎないこれらの「歴史学の蓄積」を、
まるで神聖なる成果であるかのように崇拝している学者達の姿は哀れである。
日本の歴史学者達は単に歴史仮説の現実性を検証もせず、
歴史書を解析する能力がないだけではない。
日本の歴史学は「通説」を「客観的真理」を追求して議論を通して導いているのではない。
「通説」とは何と「場の空気」で決めるものなのだ。
社会的な圧力によって異端者を黙らせる事で「通説」を確定しているのである。
それだけでなく、歴史事件の因果関係を深く考察する事もなく単純に帰結する。
その上、歴史問題を公の場で透明な議論をする事もないので論理に誤謬がある事には気付かない。
もちろん、多面的な視点から議論を行う事もない。
最大の問題点は、学問としての基本である「歴史仮説の問題点の公開」をする事がない事だろう。
だから「楽浪郡平壌説」の深刻な矛盾点など山ほど存在するにも拘わらず、誰も知らないのだ。
そして正しいとされている前提を疑う事もなければ、柔軟な発想をする事もない。
問題点から目を背けて思考停止し、議論もせずに「史実」を場の空気で決めているのだ。
だから楽浪郡平壌説のような現実性のない似非歴史が「定説」になってしまったのである。
日本の歴史学者達が、歴史の真実に到達する日が來る可能性など、永遠に無い。
日本の歴史学とは、
政治的、社会的に公正な歴史仮説「ポリコレ歴史」を社会的圧力によって史実として確定してきたのであり、
それは学問とはほど遠い「キャンセル・カルチャー」の「似非歴史学」なのだから。
歴史学者達の無能ぶりは「古代史犯罪」と呼ぶべき悪質なレベルであるが、
それよりももっと悪質なのが日本のマスコミの無責任ぶりである。
民主主義政治にとっては自由な討論が不可欠であり、
自由な討論のためには国民が争点を判断する際に必要な意見や情報に自由に接しうることが当然の前提である。
そしてマスコミの社会的役割とは「国民の知る権利の代行」であり、即ちそれは国民に真実を伝える事だ。
しかし日本のマスコミにとっては「邪馬台国の場所が本当はどこにあったか」など、
全くどうでも良い話である。
国民に真実を伝えるためにマスコミが「歴史学者達の主張が正しいかどうかを検証する責任がある」と考える事は絶対にない。
日本のマスコミには「報道しない自由」が有り、
真実を伝えて社会的役割を果たす責任がないのだ。
何しろ日本のマスコミにとって一番重要な社会的使命とは「国民の知る権利の代行」ではなく、
情報操作と印象操作を駆使して「歴史学者の主張を鵜呑みにするように国民を世論誘導する事」なのだから。
マスコミは戦後その社会的影響力によって「場の空気」を支配し、
歴史学者達を飼い馴らして「正しい日本史」を作り上げてきた。
マスコミが作り上げた「正しい日本史」とは、歴史学者の権威によって守られているのである。
国民が歴史学者の主張を疑うようになると、
マスコミが作り上げた「正しい日本史」にも疑惑が持たれてしまう。
マスコミにとって「歴史の真実」など国民は知らなくても良いし、知ってはならないのだ。
だからマスコミは歴史学者の権威を傷付けるような報道は絶対にしない。
ひたすら無能な学者達のいい加減な研究結果を鵜呑みにし、
読者を喜ばせるような提灯記事を発表報道するだけなのだ。
邪馬台国が日本国内にあるはずなどないにもかかわらず。
彼らがよくレッテルを貼って非難する「歴史修正主義者」の意味とは、
彼らが主張するような「歴史の真実を都合の良いように改竄しようとする者」の意味などではない。
その本当の意味とは、
「歴史学者達のコンセンサスを鵜呑みにしようとしない者」を意味するのである。
歴史の真実を都合の良いように改竄してきた者達とは、歴史学者達とマスコミの方なのだから。
こうして日本人は無責任なマスコミによって愚民化され、
歴史学者達の説明を鵜呑みにするように飼い馴らされてきた。
気が付くと歴史学者とマスコミが共同で作り上げた強固なパンドラの箱を開ける事が絶対にできない仕組みが出来上がってしまったのである。
これが日本人の思考回路が「普通」ではない理由であり、
そして日本人が邪馬台国を100年かけても見つけられない本当の理由でもある。
邪馬台国論争とは「古代史ロマン」などではなく、
それは日本社会の闇が生み出した妖怪のようなものだ。
ここでは歴史学者の無能ぶりとマスコミの無責任ぶりについて具体的に詳しく説明すると共に、
彼らが団結して作り上げたパンドラの箱とは何かを説明する。
そして日本社会の問題点を明らかにする。
マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
- 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、
モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、
例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、
モラルに違反する話題をする事ができないため、
疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。
何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。
そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、
国民に以下の原則を守らせる事です。
- 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。
これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。
この3原則を社会規範として徹底させる事で、
歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。
そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、
歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。
このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。
即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、
それは正義を実現するために正当化される上に、
批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。
このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、
マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。
これはナチス・ドイツがドイツ国民を愚民化して偽歴史を信じさせ、ユダヤ人に対する憎しみを植付けてゴキブリ扱いし、迫害を正当化する時に利用した手口の応用です。
この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、
マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。
例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、
それを隠し通す事ができるのです。
話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。
後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。
そしてマスメディアの保護がなければ、
国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。
歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。
そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。
社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、
その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。
「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、
社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、
彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。
「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、
イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。
マスメディアはこの基本3原則を守る事により、
ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。
そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」
と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。
マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、
人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、
日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。
「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」。
学校で重点項目として必ず記憶させられるこの歴史事件には、実は根拠などない。
正史である晋書には記述がなく、
三国史記に「313年に美川王は楽浪郡を攻めて捕虜2000人余りを捕獲した」との記述が、
そして「313年に高句麗と戦っていた遼東郡太守張統と楽浪郡太守王遵が謀って鮮卑慕容部に帰順し、慕容カイが張統を楽浪郡の太守、王遵をその参軍事とした」という記述が資治通鑑晋紀にあるだけでる。
歴史書には、楽浪郡が滅ぼされたとか、楽浪郡の場所が移動したとかという記録がないばかりでなく、楽浪郡が313年の後も存続している事が記されている。
これは永嘉の乱で事実上滅亡した西晋の楽浪郡と遼東郡の刺史達が、鮮卑慕容部に帰順する事を選択したという記録である。
そもそも正史に載っていない時点で、これが日本の子供達が必ず覚えないといけないような重大な事件でない事は明らかである。
しかし、日本の歴史学者達はこの事件を自分達のイデオロギーに沿うような物語に編集し、
学校教育で子供たちに「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」と最重要項目として教え、楽浪郡平壌説に疑問を持たないように洗脳している。
その真相は歴史学者達が単に「楽浪郡を朝鮮半島から消滅させるタイミング」を歴史書で探しても、
この事件以外に見つからなかったために「313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件をでっち上げただけであるにも関わらず。
そして「楽浪郡が朝鮮半島を420年間支配した」などという「大きなウソ」を子供達に教育しているのである。
日本の歴史学者達とは、歴史書の記述を解釈して歴史を構築しているのではない。
偉大なる先人達の先行研究の蓄積に沿うように歴史書の記述を適当に解釈し、
社会的影響力を駆使してそれを史実としているとしか考えられない。
だから偉大なる先行研究の成果である「楽浪郡平壌説」に沿って歴史書を適当に解釈し、
壮大な虚構の古代史を構築してしまったのである。
楽浪郡平壌説に疑問を持ってはならず、
楽浪郡平壌説以外の仮説を提案してはならず、
楽浪郡平壌説以外の仮説を検証してはならない。
「可能性がある」程度の確証に過ぎない「楽浪漢墓」や「楽浪太守封泥」をもってして楽浪郡平壌説の「絶対的な確証」だと強弁し、
社会的影響を最大限に利用して楽浪郡平壌説以外の異論を排除している。
「疑問生成、仮説提案、検証」という、科学的思考のサイクルによる探究が存在しない。
それどころか楽浪郡平壌説を守り続けるために、
学校教育において子供たちに何の根拠もない作り話を固定観念として刷り込んで洗脳しても恥じる事はない。
問題意識など存在せず、
100年経っても邪馬台国論争が疑似問題である事に気付くことは無い。
いや本当は歴史学者達はとっくの昔から間違いに気付いている。
しかし真実に到達してしまった歴史学者達は恐しさの余り、皆ダチョウになってしまったのだ。
だから歴史学者達は邪馬台国の研究には全く興味が無いのである。
このようなニセ学者達の主張を信じて人生を棒に振った数多くの者達は、
哀れとしか言い様がない。
ニセ歴史を普及させ、おびただしい数の人間の人生を破壊してきた歴史修正主義は、即刻解体せねばならない。
しかし歴史修正主義者達に史料をつきつけても、
「無敵の無知論証」に逃避するだけで無駄だ。
歴史修正主義者との建設的な議論など期待してはいけない。
また日本の歴史学は根底の部分から腐っており、もはや内部からの改革も期待できない。
歴史修正主義の解体は、外部からの強制的な圧力によってのみ実現可能である。
閉ざされた扉を開けて歴史の真実に向き合う事こそが、
現代日本人に課せられた使命となるだろう。
現状の日本社会においては、外部からの圧力によってニセ歴史学を解体する方法はない。
何故ならば外部からの圧力を妨げているルールが日本の学術界に存在するからだ。
それは「自己の専門研究が及ぶ範囲を自覚」というルールである。
これこそが邪馬台国をパンドラの箱に封印し、日本社会の禁忌を守り続けている強固な扉の正体だ。
何しろ間違った研究成果を尊重する必要などないのに、他分野の者たちは口を出してはいけないのだから。
「日本の学術界自体が歴史修正主義を保護する強固な体制を作り上げ、学問の発展を阻害している」という現状を打破する必要がある。
他分野からの検証は、これまで考えた事もないアイデアが導入される。
他分野からの意見を積極的に受け入れてこそ、学問は発展する機会が生まれるのだ。
学問とは決して独自の体系に閉じこもっていてはいけない。
日本の社会科学や人文科学が国際レベルに到達する事ができないのは、
これらの学問が他分野からの検証を受け入れていないからだ。
学術界が現状を打破して歴史修正主義に対処するためには、
学術界、教育界、マスメディアが「認識論」を学習し、「正当化論証に基づく立証責任」という学問の基本的概念を受け入れる必要がある。
文部科学省のガイドラインにおいては、
「まずは研究者自らの規律に基づく自浄作用としてなされるべき」と規定されている。
しかし学術界も教育界もマスメディアも皆、自浄する事など期待できない。
これらの集団はニセ歴史学と深く関わって既に戻れない一線を越えており、
「関与のエスカレーション」によってもはや方針を変更する事ができない。
閉ざされた扉を開けて日本の学術界の未来を切り開くためには、
文部科学省に「学術界、教育界、マスメディアに、自らの規律に基づく自浄作用など期待できない」事を理解させる必要がある。
そのためには学術界、教育界、マスメディアに属さない外部にいる者たちが声を上げる必要があるだろう。
学術界、教育界、マスメディアの方々が「問題解決」ができない場合には「水平思考」をするように呼びかけることだ。
疑問生成、仮説提案、検証のサイクルという「科学的思考のサイクル」が学問の基本である事を彼らに理解させることだ。
楽浪郡平壌説に疑問を持ち、楽浪郡平壌説以外の仮説の提案を許し、楽浪郡平壌説以外の仮説を検証するように呼びかけることだ。
また、邪馬台国論争が「擬似問題」である事に早く気付くように呼びかけることだ。
そして彼らが「無敵の無知論証」という詭弁に逃避する事無く、
知識人の公正さを示すように呼びかけることだ。
一番大切な事は、彼らに「歴史修正主義は絶対に許してはいけない」という事を理解させる事である。
歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?
「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。
従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。
このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?
歴史学における不正行為(歴史の偽造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、
倫理的にも法律的にも何の問題もありません。
むしろ倫理的に問題がある行為とは、
歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。
新型コロナウィルス
菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、
日本が世界に誇るべき偉業でしょう。
単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、
飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。
それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、
クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。
安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。
安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、
飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、
「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、
惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。
ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。
話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。
何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。
フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。
マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。
マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。
おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録」
満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。
現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。
トンデモ歴史教科書でネトウヨ化するポリコレ歴史教育のまやかし
歴史認識ゴリ押しのネトウヨ歴史教育と社会学者のデタラメ社会問題
歪曲歴史教科書でポリコレ現実逃避するごまかし歴史教育問題
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