歴史認識問題を歪曲隠蔽するマスコミのゴリ押し社会問題
〜言論弾圧と愚民化政策で思考停止のネトウヨ歴史教育問題〜学校教育の歴史教科書で言論統制〜
歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会科学研究家, 2023.1.18
学校で必ず教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件を覚えているでしょうか。
しかし実際には高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、歴史書における楽浪郡はその後も存続しています。
即ち、これは歴史資料に基く根拠など何もない口から出任せの捏造歴史です。
「こうだったら説明がつくからいいなぁ」というお気持ち歴史です。
「日本の歴史学の研究方法は実証主義の史料批判に基いているから信頼できる」などと信じている者達は騙されています。
実際には、史料批判どころか何の史料にも全く記述されていないような歴史事件をでっち上げ、
社会的影響力を駆使して真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで袋叩きにして骨抜きにして思考停止させ、
情報統制と隠蔽工作によって歴史認識問題を決着させてきたというのが日本の歴史学会の専門家集団の実態です。
では歴史学者達は何故そのような愚民化政策の洗脳学校教育をする必要があるのでしょうか?
それは歴史学的に確定してしまった「楽浪郡が平壌に存在した」という先行研究に対して決して疑問を持つ事がないように、
歴史の真実を隠蔽して言い包めるためです。
STAP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学のパンドラの箱、「100年に渡る組織的な研究不正」に対し、
決して疑問を持たないようにして言い逃れるために。
だから「邪馬台国は日本列島に存在した」などという愛国妄想を子供たちに植え付けて、
都合の良い歴史仮説に疑問を持つ事がないようなネトウヨを育成してきたのです。
ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに、
子供達を騙し続けて国民を愛国ポルノで愚民化してきたというのが「歴史学者の正体」です。
そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、
日本のマスコミと社会学者達なのです。
「歴史学の権威」を疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、
歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、
歴史学者達には、もはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで叩き潰し、
子供たちを騙し続けてネトウヨにさせる以外に選択肢がなくなったのです。
何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、
マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。
しかし「歴史学の権威」を用いてマスコミに都合の悪い主張をした途端、
学者達のカードは最弱にされてしまい粛清(キャンセル)されてしまうからです。
そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、
「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。
彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、
もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。
「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるために社会学者達を御用学者として祭り上げ、「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「マスコミの正体」です。
「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、
それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、
歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、
歴史問題が解決されないように奔走してきた、
日本のマスメディアと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。
本来であれば歴史学の通説とは、
史料批判に基いた実証主義的、客観主義的な「学術的な議論」の結果により決定されるべきです。
しかし日本の歴史学者達は、通説を議論の結果により決めてきたのではありません。
決定してきたのは何と「場の空気」だったのです。
それに先行研究の蓄積を崇拝するので「場の空気」を支配するような学界の大御所達には逆らえず、
先学達の間違いを修正する事ができません。
また外部からの意見に耳を傾ける必要もありませんので、
非公開の場所で学界の内部の論理で政治的、社会的に決定されてきたのです。
日本の歴史学とは、
不都合な歴史資料を情報統制し、
社会的に望ましい歴史仮説「ポリコレ歴史」を史実だと「歴史学的に確定」し、
歴史の真実の隠蔽工作を行ってきた「ポリコレ歴史創作集団」です。
本来であればこのような日本の歴史学の組織的な不正行為を暴くのはマスメディアの責任です。
しかし日本のマスメディアには社会的責任を果たす能力が無いだけでなく、
その意思もありません。
それどころかマスメディアは、
この「歴史学の権威」を守るために都合の悪い事実を隠蔽してきました。
「邪馬台国が日本列島には存在しなかった理由」などいくらでもありますが、
誰もそれを知らないのがその証拠です。
日本のマスメディアは歴史学が「場の空気」で通説を決定する「ポリコレ歴史学」である事を利用し、
社会的影響力を行使してその「場の空気」を作り出してきたのです。
自分達に都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」だとするために。
それだけでなくこの「歴史学の権威」を崇拝する事を「絶対正義のポリコレ」とするように愚民化政策をし、
崇拝しない者達には「ネトウヨ」という「逸脱者」のレッテルを貼って大衆が嫌悪感を持つように印象操作をしてきました。
そして異論に対しては「ポリコレ無罪」の罵詈雑言で吊し上げて血祭りにし、
見せしめにして言論弾圧してきた「ポリコレ歴史洗脳集団」です。
本来であればこのような日本の歴史学やマスコミの組織的な欺瞞を告発すべき社会的責任がある者達とは、
社会現象の本質を暴くはずの社会学にあります。
しかし日本の社会学者達にとっての存在理由とは、
「社会現象の解明」という研究活動ではありません。
社会学会の研究指針が定める研究目的とは何と「社会正義の追求」なのです。
社会学者達自体が、
「真実よりもポリコレ」を追求する「ポリコレ原理主義者」であり、
都合の悪い人達を「学問の権威」を振りかざしてレッテルを貼って叩き潰すためにマスメディアから「免状」を授けられた「道徳事業家」です。
それに歴史学と同様に先行研究の蓄積を崇拝するので、
「場の空気」を支配するような大御所達には逆らう事はできません。
また外部の意見に耳を傾ける必要もありませんので、
マスメディアの影響下にある「場の空気」に支配された内輪の論理で「社会正義」を追求し、
まるで「風紀委員」であるかのように実社会にそれをゴリ押ししようとします。
だから社会学者達はマスメディアに出て来て走狗のようにボロクソに批判するだけで、
研究成果がなくても批判される事はないのです。
それだけでなく社会学者達は「実証主義」や「客観主義」を批判し、
日本の歴史学に「構築主義」を導入させました。
日本の歴史学が「ポリコレ歴史学」である事を利用し、
マスメディアと結託して罵詈雑言のポリコレ棒で吊し上げて同調しない歴史学者を全て粛清(キャンセル)し、
見せしめにしたのです。
そして歴史学界に「物言えぬ空気」を作り出して歴史学者達を骨抜きにして言いなりにし、
自分達の追求する社会正義を実現するために都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定」させました。
異論を主張するような「ネトウヨ」達には「そのような恥ずべき主張をする歴史学者は一人もいない」と糾弾して大衆が軽蔑するように言いくるめ、
「社会的権威のあるネトウヨ」を全て魔女狩りしてきた「ポリコレ歴史構築集団」です。
本来であればこのように「学問の権威」を振りかざして「場の空気」を支配し、
「組織的な研究不正」をしてきた「頭ポリコレ」のエセ学者達を告発すべき社会的責任がある者達とは、
科学の向上発達を図るべき学術会議にあります。
しかしポリコレ決めてお気持だけで発狂する「ポリコレ信者」達の「モラル・ハラスメント」の同調圧力の前に、
学術会議も骨抜きにされて言いなりの存在です。
何故ならば信者達にはマスメディアから「免状」が与えられているので、
集団心理によって激しい活動を行うからです(自薦の用心棒)。
まともな科学者であればこのような問題に口を出して学者生命を危険に晒すよりも、
自分達の研究に専念したいのです。
学術会議のメンバー達とは学術界における「異端審問」による吊し上げ、袋叩き、血祭り、見せしめ、口封じによる言論統制を黙認してきた、
「キャンセル・カルチャー奨励集団」です。
これが総合的・俯瞰的な視点を導入して「学術的な議論」を取り戻し、
「構築主義」というポリコレ学問を脅かそうとするような学術会議の本質的な改革に対しては、
構築主義を死守することで国民を思考停止させ、もみ消して言い逃れを目論む「ポリコレ布教集団」が常人には理解できない程に猛反発して菅総理を敵視し、
オリンピックが失敗であると印象操作され、
その関係者が次々と粛清(キャンセル)された理由です。
こうして日本人は「歴史学の権威」を利用してポリコレ歴史が史実となるような「場の空気」を「構築」する事に夢中な「ポリコレ歴史修正主義者」の集団となり、
学術的な議論によって歴史の真実に辿り着く事ができなくなりました。
社会的に望ましくない「不都合な真実(アンチポリコレ歴史)」に近付こうとする者達には、
社会全体からモラハラの誹謗中傷が行われ、
全て叩き潰されてきたのです(血祭り文化)。
これが日本人には100年かけても邪馬台国が見つけられなかった本当の理由です。
日本では歴史問題が不毛論争にしかならないのは当然の結果です。
愚民化された「ポリコレ馬鹿」にとっては「真実かどうか」には興味が無く、
「安全かどうか(safetyism)」が重要なのですから。
これがポリコレは社会に沈黙を強制し、人々を面従腹背にさせて分断すると言われる理由なのです。
「物言えぬ空気」は「不正の温床」とも言われており、
キング牧師はかつて次のように述べました。
「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める」と。
「ネトウヨ」や「パヨク」と呼ばれる分断された人達はどちらも「社会的な望ましさ(ポリコレ)」を追求するように現実逃避の教育をされた「ポリコレの変異種」であり、議論を通じて社会的に望ましくない「客観的な真実」に辿り着く事はありません。
人気上昇中!応援メッセージが続々!
歴史学者ってポリコレに配慮してこれまでずっと国民を騙してきたんですね。そしてこれからも騙し続けるんですね。
ポリコレに配慮したこの国の歴史学や社会学は「嘘の温床」ですね。この国の大学は「嘘の製造工場」ですね。
ポリコレに配慮して研究不正を見て見ぬフリする学術会議の存在意義って何ですか?「税金の無駄」ですね。
ポリコレよりも「正直であれ」、「人の嫌がる事はしない」、「失礼な事は言わない」等の方が重要な社会規範じゃないでしょうか。
トンデモ歴史を幼少から叩き込まれ、それが常識となっているポリコレの社会って怖いですね。
マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
- 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、
モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、
例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、
モラルに違反する話題をする事ができないため、
疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。
何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。
そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、
国民に以下の原則を守らせる事です。
- 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。
これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。
この3原則を社会規範として徹底させる事で、
歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。
そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、
歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。
このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。
即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、
それは正義を実現するために正当化される上に、
批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。
このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、
マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。
この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、
マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。
例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、
それを隠し通す事ができるのです。
話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。
後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。
そしてマスメディアの保護がなければ、
国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。
歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。
そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。
社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、
その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。
「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、
社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、
彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。
「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、
イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。
マスメディアはこの基本3原則を守る事により、
ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。
そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」
と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。
マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、
人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、
日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。
楽浪郡は古朝鮮の王都である王険城に置かれ、
中国史書の記す王険城の位置が高句麗との平壌城同じである事から「楽浪郡の場所は平壌である」という説が歴史学者達の間で優勢となりました。
「衛氏朝鮮の王険城の場所に楽浪郡が置かれ、王険城の場所は平壌城の場所と同じであり、平壌城は平壌にあった。」
これが楽浪郡平壌説の理論的支柱です。
しかし、この推論には「歴史書に記された平壌城」と「朝鮮半島の平壌」が同じ都市である、
という暗黙の前提に基いています。
実際には「平壌城」と「平壌」は別の都市だったのです。
歴史学において「理にかなった歴史学の手法」の特性、可能性などについての疑問は、
歴史哲学から出され、
それは「認識論の疑問」として出されるとされています。
実際に「史料批判の英語版」においては、
史料の評価における最も一般的な方法とは、認識論である事が明記されています。
(Epistemological theories are the basic theories about how knowledge is obtained and thus the most general theories about how to evaluate information sources.)
「楽浪郡平壌説」は単なる仮説であり、仮説は認識論の観点から、
即ち実証的、
客観的(意識から独立した存在)、
論理的、
科学的な観点から検証されねばなりません。
しかし、日本の歴史学にはその歴史学の手法の基本である「認識論の疑問」による検証の概念が存在しませんので、最初から間違っていました。
歴史学者達は朝鮮半島や遼東半島の地理的条件も考慮せず、その後の歴史や経済的、技術的、戦術的条件その他も全く考慮していない上に歴史書の記述も完全に無視し、
不十分な確証だけで楽浪郡平壌説を「ドグマ」(絶対的な明証性をもつとされる基本的原理)としてしまったのです。
だから「平壌城」と「平壌」が異る都市だった事に気付かなかったのです。
日本の歴史学者達が「史料批判」する時のチェック項目とは、主に以下のような項目です。
- 史料の作成時期、作成場所、作成目的、作成者、作成方法などの把握
- 史料に整合性が有るか、内部矛盾が存在するか
- 真であると評価された史料と明らかに矛盾するかどうか
- 二つ以上の独立した史料に同一の記述が有るかどうか
- 科学的に証明された他の資料(考古資料など)と矛盾するかどうか
日本の歴史学の問題点とは、「史料批判のチェック項目に科学的な検証が含まれていない」事です。
整合性の存在する複数の中国史料に「平壌城は楽浪郡のあった場所にある」と記述されており、
平壌においてそれらしき考古資料が発見された事から、
何の疑いもなく楽浪郡を朝鮮半島に持っていってしまったのです。
認識論が提唱するところの実現可能性のチェック即ち、
「Potentiality」と「Actuality」に関する科学的な検証など誰もしていないのです。
日本の歴史学は「現実吟味」の能力の必要性を認識していないのです。
これが「楽浪郡が朝鮮半島にあるはずが無い」事が歴史学者達には理解できなかった理由です。
学問の父とされるアリストテレスは「ある事を確信している場合、その前提となっている理由はその都度問われても良い」としました。
前提となっている理由は、問題が発見される度に疑うべきだというのは、古代ギリシアから既に学問の基本中の基本なのです。
しかし、日本の歴史学においては一旦「コンセンサスによる真実」によって定説が決定してしまうと、
もはやそれを修正する事は社会的に許されません。
評価が定着した学説を変更しようとする者は異端者として排除されてきたのです。
日本の歴史学者にとって、通説とは「議論」を通して決めるものではなく、
「場の空気」で決めるものだからです。
それ故に先行研究を崇拝し、歴史書の記述を先行研究に合うように曲解してきたのです。
日本の歴史学には、単に歴史学の基本が存在しないばかりでなく、
学問の基本がそもそも存在しない。
これが歴史学者達が間違いに気付かず、「楽浪郡平壌説」がドグマと化してしまった理由です。
こうして「楽浪郡平壌説」という誤った先行研究の上に膨大な量の誤った研究の蓄積を積み重ねてしまったのです。
歴史学に必要なのは「史実」と「歴史物語」を切り分けて考える事ですが、
日本の歴史学とは「定説」というドグマに沿って「歴史物語」を創作し続けてきた偽歴史創作集団なのです。
最良の歴史記述の説明に至る議論の7つの条件を示したC. Behan McCullagh氏はその著書「歴史記述の正当化」において、
「歴史記述を最終的に証明する方法は存在しない。できるのは正当化する事だけである。」と述べています。
自然科学と違って歴史学とは、このように完全に証明する方法など存在せず、
その結果として異論が存在するのが普通です。
楽浪郡平壌説のような怪しい説に対して異論を述べる学者が存在しないというのは、
それが正しいからなどではありません。
歴史学者達が「斉一性の原理」に支配されているためです。
正しいから異論が出ないのではなく、同調圧力によって異論を出す自由が存在しないからです。
楽浪郡平壌説の間違いに気付いている学者は多数存在しているはずですが、
誰もそれを口に出せないのです。
歴史学において異論が出ないのは、同調圧力の存在を疑うべきです。
歴史学者は全員がダチョウなのです。
ウソ物語を守るための歴史学者達の戦略とは次の基本3原則を守る事です。
- 楽浪郡平壌説に疑問を持たせない
- 楽浪郡平壌説以外の仮説を提案させない
- 楽浪郡平壌説以外の仮説を検証しない
この戦略を実現するために、各方面に対して社会的影響力を用いて様々な戦術が使用されています。
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歴史学の研究者に疑問を持たせない
歴史哲学の根幹である「認識論」を教育せず、「科学的思考」をさせない。
また、先学の研究成果を尊重するように教育し、楽浪郡平壌説に疑問を持つ事を許さない。
子供だましのアドホックな仮説で学生達を愚民化する。
研究者がウソに気付いた頃には、既にウソを吐き続けるしかない立場となる。
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他分野の研究者に疑問を持たせない
各専門分野の研究を尊重するのが社会人としてあるべき姿であるという規範を規則として明文化し、
その規則で縛り付けて疑問を持つ事を許さない。
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在野の研究者に疑問を持たせない
「歴史学の手法を学んでいない」とか、「中国史料の読み方が間違っている」とか、
論点と関係の無い理由で人身攻撃し叩き潰す。
また、その論証は全て徹底的に無視する。
本当は楽浪郡平壌説が間違いである事など既に知っているので、そもそも反論するつもりなど最初からない。
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マスメディアに疑問を持たせない
マスメディアには科学的思考や調査能力が存在せず、権威のある者の意見を聞くだけの存在である事を利用する。
マスメディアは歴史学者達を崇拝して疑問を一切持たず、大本営発表を楽しみに待っている。
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右翼に疑問を持たせない
ウィキペディアを支配して「楽浪郡平壌説に疑問を持つのは、韓国人や北朝鮮人が中国に支配された歴史を直視できないからだ」という右翼の喜ぶ主張を浸透させる。
また「古代日本が朝鮮半島を支配していた」という右翼の喜ぶ幻想を信じさせ、
楽浪郡平壌説を守るための「自薦の用心棒」として育成する。
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左翼に疑問を持たせない
左翼の喜ぶ主張をした上に「歴史学の権威は絶対的に信用できる」という幻想を作り出し、
楽浪郡平壌説を守るための「自薦の用心棒」として育成する。
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歴史ファンに疑問を持たせない
邪馬台国や卑弥呼への愛着を利用し、
楽浪郡平壌説を守るための「自薦の用心棒」として育成する。
古代史を代償行為として学ぶ者にとっては、
古代史論争とは単なる歴史学の論争ではなく、
全人格をかけた意地のぶつかり合いである。
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一般人に疑問を持たせない
「可能性がある」程度の確証にすぎない楽浪漢墓や楽浪太守封泥などを「絶対的な明証性を持つ」確証であると強弁し、楽浪郡平壌説に疑問を持たせない。
また「専門家の意見は信頼すべきである」という規範を社会に作りだし、
疑問を持つこと自体が倫理的に間違いであると思わせる。
また、マスメディア、学校教育、ウィキペディアなどを通じて楽浪郡平壌説が疑問の余地のない説である事を繰り返し、ウーズル効果によって脳裏に刷り込む。
また、攻撃性の高い右翼、左翼、そして歴史ファンを揃って「自薦の用心棒」として利用する事で、
一般人に「この問題には関わるべきではない」という事を理解させる。
-
子供達に疑問を持たせない
「313年に楽浪郡は高句麗によって滅ぼされた」というウソ物語を学校教育で刷り込んで洗脳し、
楽浪郡平壌説に疑問を持たせない。
歴史学者達はこのように「疑問を持つ」という学問の基本を社会全体から徹底して排除し、
「疑問を持たない」日本人を育成してきたのです。
また、「朝鮮半島とは古代から中国の支配下にあり、自主性の無い民族である」という偏見を子供の頃から植え付け、
つまらない朝鮮半島の歴史などには決して興味を持たせないように教育してきたのです。
更に各方面に楽浪郡平壌説を守るための「自薦の用心棒」を育成し、
日本社会に強固なパンドラの箱を作り上げてしまったのです。
歴史学者達はこのような日本人愚民化教育が、
どれだけ社会に悪影響を与えてきたかを理解しているのでしょうか。
このような仮説を放置しておく事が東アジアの国際関係にどれほど悪影響を与えるかを理解しているのでしょうか。
どれだけ多くの人間が邪馬台国を探して無意味な時間を過ごしていても罪悪感は無いのでしょうか。
きっとバレなければいいだけの話なのでしょう。
これが山形明郷氏が指摘した「古代史犯罪」の実態です。
もし日本の歴史学者達の無能によって保護されている捏造歴史を根拠に「朝鮮は中国の一部だった」などと現代世界の外交関係が決定されるのであれば、実に罪深い犯罪行為です。
本来は山形氏が指摘した時点でこの論争は終わりにすべきでした。
膨大な数の人々の人生を破壊してきたこのニセ歴史は即刻ゴミ箱に捨て去るべきでしょう。
歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?
「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。
従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。
このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?
歴史学における不正行為(歴史の捏造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、
倫理的にも法律的にも何の問題もありません。
むしろ倫理的に問題がある行為とは、
歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。
新型コロナウィルス
菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、
日本が世界に誇るべき偉業でしょう。
単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、
飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。
それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、
クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。
安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。
安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、
飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、
「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、
惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。
ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。
話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。
何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。
フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。
マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。
マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。
おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録」
満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。
現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。
トンデモ歴史教科書でネトウヨ化するポリコレ歴史教育のまやかし
歴史認識捏造のネトウヨ歴史教育と社会学者のデタラメ社会問題
歪曲歴史教科書でポリコレ現実逃避するごまかし歴史教育問題
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