ポリコレ社会学者の言論弾圧で思考停止する歴史認識問題の言論統制
〜歴史教科書のネトウヨ歴史教育問題〜社会学の社会問題は歴史学者を血祭り言いなりゴリ押し〜

歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会科学研究家, 2022.12.15

 中学校や高校で必ず教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件を覚えているでしょうか。 しかし歴史資料が示す記録においては高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、 歴史書における楽浪郡はその後も中国で存続しています。 即ち、これは歴史学的な根拠など全くない歪曲歴史です。 「こうだったら説明がつくからいいなぁ」という程度のお気持ち歴史仮説です。 「歴史学は史料批判に基くから信頼できる」などと信じている者達は騙されています。 実際には史料批判どころか、 何の史料にも記述されていないような歪曲歴史を「史実」として確定してきたのが日本の歴史学です。 では何故そのような偽造歴史を歴史教科書で学校教育する必要があるのでしょうか? それは歴史学的に確定してしまった「楽浪郡が平壌に存在した」という改竄歴史に対し、 決して疑問を持つ事がないように言い包めるためです。 STAP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学のパンドラの箱、「100年に渡る組織的な研究不正」に対し、 日本人が決して疑問を持たぬようにして言い逃れるために。 だから「邪馬台国は日本のどこかに存在した」などというインチキの愛国ファンタジーで子供達を洗脳し、 都合の良い歴史仮説に疑問を持つ事がないようなネトウヨ偽史カルトを育成してきたのです。 ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに言論弾圧と隠蔽工作を行い、 子供達を騙し続けて国民を愛国ポルノで愚民化してきたというのが「歴史学者の正体」です。

ポリコレ社会学者の言論弾圧で思考停止する歴史認識問題の言論統制

 そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、 日本のマスコミと社会学者達なのです。 「歴史学の権威」を疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、 歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、 歴史学者達には、もはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで袋叩きで骨抜きにして言いなりし、 子供たちを騙し続けて思考停止させる以外に選択肢がなくなったのです。 何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、 マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。 しかし「歴史学の権威」を用いてマスコミに都合の悪い主張をした途端、 学者達のカードは最弱にされてしまい粛清(キャンセル)されてしまうからです。 そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、 「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。 彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、 もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。 「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるためにマスコミの御用学者となって「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「社会学者の正体」です。 「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、 それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、 歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、 歴史問題が解決されないように奔走してきた、 マスコミと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。

ポリコレ歴史修正主義の問題点(さらに詳しく!)

 本来であれば歴史学の通説とは、 史料批判に基いた実証主義的客観主義的な「学術的な議論」の結果により決定されるべきです。 しかし日本の歴史学者達は、通説を議論の結果により決めてきたのではありません。 決定してきたのは何と「場の空気」だったのです。 それに先行研究の蓄積を崇拝するので「場の空気」を支配するような学界の大御所達には逆らえず、 先学達の間違いを修正する事ができません。 また外部からの意見に耳を傾ける必要もありませんので、 非公開の場所で学界の内部の論理で政治的、社会的に決定されてきたのです。 日本の歴史学とは、 不都合な歴史資料を情報統制し、 社会的に望ましい歴史仮説「ポリコレ歴史」を史実だと「歴史学的に確定」し、 歴史の真実の隠蔽工作を行ってきた「ポリコレ歴史創作集団」です。

 本来であればこのような日本の歴史学の組織的な不正行為を暴くのはマスメディアの責任です。 しかし日本のマスメディアには社会的責任を果たす能力が無いだけでなく、 その意思もありません。 それどころかマスメディアは、 この「歴史学の権威」を守るために都合の悪い事実を隠蔽してきました。 「邪馬台国が日本列島には存在しなかった理由」などいくらでもありますが、 誰もそれを知らないのがその証拠です。 日本のマスメディアは歴史学が「場の空気」で通説を決定する「ポリコレ歴史学」である事を利用し、 社会的影響力を行使してその「場の空気」を作り出してきたのです。 自分達に都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」だとするために。 それだけでなくこの「歴史学の権威」を崇拝する事を「絶対正義のポリコレ」とするように愚民化政策をし、 崇拝しない者達には「ネトウヨ」という「逸脱者」のレッテルを貼って大衆が嫌悪感を持つように印象操作をしてきました。 そして異論に対しては「ポリコレ無罪」の罵詈雑言で吊し上げて血祭りにし、 見せしめにして言論弾圧してきた「ポリコレ歴史洗脳集団」です。

 本来であればこのような日本の歴史学やマスコミの組織的な欺瞞を告発すべき社会的責任がある者達とは、 社会現象の本質を暴くはずの社会学にあります。 しかし日本の社会学者達にとっての存在理由とは、 「社会現象の解明」という研究活動ではありません。 社会学会の研究指針が定める研究目的とは何と「社会正義の追求」なのです。 社会学者達自体が、 「真実よりもポリコレ」を追求する「ポリコレ原理主義者」であり、 都合の悪い人達を「学問の権威」を振りかざしてレッテルを貼って叩き潰すためにマスメディアから「免状」を授けられた「道徳事業家」です。 それに歴史学と同様に先行研究の蓄積を崇拝するので、 「場の空気」を支配するような大御所達には逆らう事はできません。 また外部の意見に耳を傾ける必要もありませんので、 マスメディアの影響下にある「場の空気」に支配された内輪の論理で「社会正義」を追求し、 まるで「風紀委員」であるかのように実社会にそれをゴリ押ししようとします。 だから社会学者達はマスメディアに出て来て走狗のようにボロクソに批判するだけで、 研究成果がなくても批判される事はないのです。 それだけでなく社会学者達は「実証主義」や「客観主義」を批判し、 日本の歴史学に「構築主義」を導入させました。 日本の歴史学が「ポリコレ歴史学」である事を利用し、 マスメディアと結託して罵詈雑言のポリコレ棒で吊し上げて同調しない歴史学者を全て粛清(キャンセル)し、 見せしめにしたのです。 そして歴史学界に「物言えぬ空気」を作り出して歴史学者達を骨抜きにして言いなりにし、 自分達の追求する社会正義を実現するために都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定」させました。 異論を主張するような「ネトウヨ」達には「そのような恥ずべき主張をする歴史学者は一人もいない」と糾弾して大衆が軽蔑するように言いくるめ、 「社会的権威のあるネトウヨ」を全て魔女狩りしてきた「ポリコレ歴史構築集団」です。

 本来であればこのように「学問の権威」を振りかざして「場の空気」を支配し、 「組織的な研究不正」をしてきた「頭ポリコレ」のエセ学者達を告発すべき社会的責任がある者達とは、 科学の向上発達を図るべき学術会議にあります。 しかしポリコレ決めてお気持だけで発狂する「ポリコレ信者」達の「モラル・ハラスメント」の同調圧力の前に、 学術会議も骨抜きにされて言いなりの存在です。 何故ならば信者達にはマスメディアから「免状」が与えられているので、 集団心理によって激しい活動を行うからです(自薦の用心棒)。 まともな科学者であればこのような問題に口を出して学者生命を危険に晒すよりも、 自分達の研究に専念したいのです。 学術会議のメンバー達とは学術界における「異端審問」による吊し上げ、袋叩き、血祭り、見せしめ、口封じによる言論統制を黙認してきた、 「キャンセル・カルチャー奨励集団」です。 これが総合的・俯瞰的な視点を導入して「学術的な議論」を取り戻し、 「構築主義」というポリコレ学問を脅かそうとするような学術会議の本質的な改革に対しては、 構築主義を死守することで国民を思考停止させ、もみ消して言い逃れを目論む「ポリコレ布教集団」が常人には理解できない程に猛反発して菅総理を敵視し、 オリンピックが失敗であると印象操作され、 その関係者が次々と粛清(キャンセル)された理由です。

 こうして日本人は「歴史学の権威」を利用してポリコレ歴史が史実となるような「場の空気」を「構築」する事に夢中な「ポリコレ歴史修正主義者」の集団となり、 学術的な議論によって歴史の真実に辿り着く事ができなくなりました。 社会的に望ましくない「不都合な真実(アンチポリコレ歴史)」に近付こうとする者達には、 社会全体からモラハラ誹謗中傷が行われ、 全て叩き潰されてきたのです(血祭り文化)。 これが日本人には100年かけても邪馬台国が見つけられなかった本当の理由です。 日本では歴史問題が不毛論争にしかならないのは当然の結果です。 愚民化された「ポリコレ馬鹿」にとっては「真実かどうか」には興味が無く、 「安全かどうか(safetyism)」が重要なのですから。 これがポリコレは社会に沈黙を強制し、人々を面従腹背にさせて分断すると言われる理由なのです。 「物言えぬ空気」は「不正の温床」とも言われており、 キング牧師はかつて次のように述べました。 「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める」と。 「ネトウヨ」や「パヨク」と呼ばれる分断された人達はどちらも「社会的な望ましさ(ポリコレ)」を追求するように現実逃避の教育をされた「ポリコレの変異種」であり、議論を通じて社会的に望ましくない「客観的な真実」に辿り着く事はありません。

ウソごまかしの偽歴史学(さらに詳しく!)

人気上昇中!応援メッセージが続々!
歴史学者ってポリコレに配慮してこれまでずっと国民を騙してきたんですね。そしてこれからも騙し続けるんですね。
ポリコレに配慮したこの国の歴史学や社会学は「嘘の温床」ですね。この国の大学は「嘘の製造工場」ですね。
ポリコレに配慮して研究不正を見て見ぬフリする学術会議の存在意義って何ですか?「税金の無駄」ですね。
ポリコレよりも「正直であれ」、「人の嫌がる事はしない」、「失礼な事は言わない」等の方が重要な社会規範じゃないでしょうか。
トンデモ歴史を幼少から叩き込まれ、それが常識となっているポリコレの社会って怖いですね。


 マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
  1. 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
  2. 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
  3. 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、 モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、 例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、 モラルに違反する話題をする事ができないため、 疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。 何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。 そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、 国民に以下の原則を守らせる事です。
  1. 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
  2. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
  3. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。 これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。 この3原則を社会規範として徹底させる事で、 歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。 そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、 歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。 このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。 即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、 それは正義を実現するために正当化される上に、 批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。 このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、 マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。

 この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、 マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。 例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、 それを隠し通す事ができるのです。 話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。 後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。 そしてマスメディアの保護がなければ、 国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。 歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。 そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。 社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、 その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。 「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、 社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、 彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。

 「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、 イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。 マスメディアはこの基本3原則を守る事により、 ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。 そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」 と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。 マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、 人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、 日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。

 「邪馬台国が日本のどこかに存在した」という歴史仮説の歴史学における根拠とは、 「楽浪郡が平壌に存在した」という歴史仮説だけです。 そして「楽浪郡が平壌に存在した」という歴史仮説の歴史史料における根拠とは、 「楽浪郡治が置かれた王険城の場所は、高句麗の平壌城の場所と同じである」という歴史書の記述だけです。 当然のように教えられている「邪馬台国が日本のどこかに存在した」という歴史仮説の歴史史料における根拠とは、 「高句麗の平壌城は現在の朝鮮半島の平壌に存在した」という暗黙の前提の上に成立している「紙ペラ一枚歴史学」です。

 しかしながら歴史書が示す高句麗の平壌城とは、 それは朝鮮半島の平壌にではなく満州の地に存在した都市でした。 暗黙の前提が間違っていたのです。 それが意味する所は、 「楽浪郡が平壌に存在した」という歴史仮説には、 歴史史料に記された根拠が一切存在しないという事です。 楽浪郡が朝鮮半島に存在した根拠が無い以上、 楽浪郡の南にあった帯方郡が朝鮮半島に存在したという説にも根拠が有りません。 邪馬台国への行程の出発地である帯方郡が朝鮮半島に存在した根拠が存在しない以上、 倭人伝に記された邪馬台国への行程は、全て朝鮮半島内で説明できます。 対馬海峡を越えた記述が存在しないのです。 これが「邪馬台国が日本列島には存在しなかった」という説の歴史史料における根拠です。

 記紀においても、 卑弥呼も壱与も、 天皇家側としても敵側としても、何の記述もありません。 考古学的にも3世紀の日本列島のどこからも、 邪馬台国が存在した根拠を示すような遺跡は全く見つかりません。 歴史学的にも考古学的にも、「邪馬台国が日本列島に存在した」という仮説には根拠が一切ありません。 また現実の対馬海峡の海況を考慮すれば、 倭の30ケ国が中国と通じていたとか、 対馬住民が南北に穀物を買出しに行ったとか、 中国の郡使が対馬海峡を往来していたとかいう倭人伝の記述には、 現実性が全くありません。 科学的観点からも「邪馬台国が日本列島に存在した」という歴史仮説は成立しません。

 要するに「邪馬台国が日本列島に存在した」という歴史仮説は、 根拠が一切存在しない「ウーズル」に過ぎません。 世間では「不都合な真実から目を背け、都合の良い物語を史実にしようとする人達」の事を「歴史修正主義者」と言うそうです。

 歴史とは自然科学と違って実験で再現する事ができず、 科学的方法で史実には辿り着けないと考える者がいる。 ドイツの歴史学者レオポルト・フォン・ランケは法則性の論証を優先して史実を乱雑に扱う進歩史観に反発し、その反動として徹底した実証主義的証明に基づく近代的な研究方法を確立し、歴史学を科学に高めました(実証史学)。 「ただ事実を記すのみ」としたランケの実証史学は欧州史学界に大きな影響を与え、今日の歴史学の基礎とされています。 このように歴史学が追求すべき「真理」とは政治的真理、道徳的真理、実用的真理などではなく、自然科学と同じ「客観的真理」です。 確かに歴史学は実験で再現ができませんが、だからと言って検証方法が無いわけではありません。 歴史資料の史料価値の検証、 歴史記述の実現可能性(PotentialityとActuality)の検証、 他の事件との整合性の検証、 仮説が予言(演繹)する現象が起きたかどうかの検証など、 様々な科学的な検証方法が存在します。 歴史問題はむしろナショナリズムや政治的立場、メディアなどの影響による認知バイアスに強く影響されやすい問題です。 それに仮説に対する執着が非合理的なまでに強化される現象が起こりやすく、 合理的な思考を妨げる認知バイアスや誤謬の種類は、自然科学の場合よりもはるかに多いのです。 歴史学こそが科学的思考と検証が最も必要な学問であり、間違いなく人文「科学」の一つです。

 歴史学では自然科学と違って実験で再現できず、 確かに歴史仮説が「正しい」事を学問的に完全に証明する方法は存在しません。 歴史学では「史実を確定」しているわけではなく、 「最適の説明」とは何かを議論しているだけです。 このように歴史学では史実を完全に証明できないのですが、多くの者達は少し勘違いしているようです。 歴史仮説が「間違い」である事を学問的に証明する事は可能なのです。 もちろん、実験など必要ありません。 例えば「蒙古軍は鎌倉幕府を滅ぼした」という歴史仮説が間違いである事は、 学問的に証明する事ができます。 鎌倉幕府が蒙古軍が来襲した後にも継続していた事を、 学問的に立証できるからです。 それと同じように「邪馬台国が日本列島に存在した国家だった」という歴史仮説が間違いである事は、 学問的に証明が可能です。

 「歴史家はその着眼点を第一にかれこれの時代において、人間が如何に考え、如何に生活したかというところに置かなければならない」と述べたのは、 ランケでした。 歴史家は、ランケの教えの通りに着眼点を置かなければなりません。 当時の中国人の地理認識や航海技術に着眼すれば、 3世紀の中国人が対馬海峡を越えて日本列島と交流したという仮説は現実的には有り得ない事が、 科学的に証明できるのです。

トンデモ歴史を流布するマスコミ(さらに詳しく!)

歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?

 「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。 従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。

このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?

 歴史学における不正行為(歴史の捏造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、 倫理的にも法律的にも何の問題もありません。 むしろ倫理的に問題がある行為とは、 歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。

新型コロナウィルス

 菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、 日本が世界に誇るべき偉業でしょう。 単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、 飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。 それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、 クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。 安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。 安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、 飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、 「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、 惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。 ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。

 話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。 何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。 フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。 マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。 マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。

おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録

満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。

おまけ2:女性哲学者シモーヌ・ヴェイユの名言集

現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。

トンデモ歴史教科書でネトウヨ化するポリコレ歴史教育のまやかし
歴史認識捏造のネトウヨ歴史教育と社会学者のデタラメ社会問題
歪曲歴史教科書でポリコレ現実逃避するごまかし歴史教育問題


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