マスコミが愚民化政策する歴史問題捏造と言論弾圧の社会問題
〜言い逃れマス・メディアと言いくるめ社会学者の歪曲隠蔽学校教育〜言論統制と歴史修正主義の歴史教育問題〜
歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会科学研究家, 2022.12.27
学校で必ず歴史教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件を覚えているでしょうか。
しかし実際には高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、歴史書における楽浪郡はその後も存続しています。
即ち、これは歴史学的な根拠など全く存在しない捏造歴史です。
「こうだったら説明がつくからいいなぁ」という程度の歴史修正主義です。
「歴史学の研究成果は歴史学的手法に基いた史料批判によって信頼が確保されている」などと信じている者達は騙されています。
実際には史料批判どころか、
何の史料にも記述されていないような作り話をでっち上げ、
「史実」として確定してきたのが日本の歴史学です。
では歴史学者達は何故そのようなデタラメなウソ歴史を重点項目とした学校教育をする必要があるのでしょうか?
それは歴史学的に確定してしまった「楽浪郡が平壌に存在した」というニセ歴史に決して疑問を持つ事がないように言いくるめるためです。
STAP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学のパンドラの箱、
「100年に渡る組織的な研究不正」に対して決して疑問を持たぬように言論統制して言い逃れるために。
だから邪馬台国の女王卑弥呼などという愛国ファンタジーで子供達を洗脳し、
日本人を都合の良い歴史仮説に疑問を持つ事がないように歴史修正主義者化、ネトウヨ化してきたのです。
ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに情報統制と隠蔽工作を行い、
子供達を騙し続けて国民を愛国ポルノで愚民化して來たというのが「歴史学者の正体」です。
そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、
日本社会のマスコミと社会学者達なのです。
「歴史学の権威」を疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、
歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、
歴史学者達にはもはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで吊し上げて血祭りにして見せしめにして口封じし、
子供たちを騙し続けて思考停止させる以外に選択肢がなくなったのです。
何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、
マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。
しかし「歴史学の権威」を用いてマスコミに都合の悪い主張をした途端、
学者達のカードは最弱にされてしまい粛清(キャンセル)されてしまうからです。
そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、
「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。
彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、
もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。
「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるために社会学者達を御用学者として祭り上げ、「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「マスコミの正体」です。
「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、
それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、
歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、
歴史問題が解決されないように奔走してきた、
日本のマスメディアと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。
本来であれば歴史学の通説とは、
史料批判に基いた実証主義的、客観主義的な「学術的な議論」の結果により決定されるべきです。
しかし日本の歴史学者達は、通説を議論の結果により決めてきたのではありません。
決定してきたのは何と「場の空気」だったのです。
それに先行研究の蓄積を崇拝するので「場の空気」を支配するような学界の大御所達には逆らえず、
先学達の間違いを修正する事ができません。
また外部からの意見に耳を傾ける必要もありませんので、
非公開の場所で学界の内部の論理で政治的、社会的に決定されてきたのです。
日本の歴史学とは、
不都合な歴史資料を情報統制し、
社会的に望ましい歴史仮説「ポリコレ歴史」を史実だと「歴史学的に確定」し、
歴史の真実の隠蔽工作を行ってきた「ポリコレ歴史創作集団」です。
本来であればこのような日本の歴史学の組織的な不正行為を暴くのはマスメディアの責任です。
しかし日本のマスメディアには社会的責任を果たす能力が無いだけでなく、
その意思もありません。
それどころかマスメディアは、
この「歴史学の権威」を守るために都合の悪い事実を隠蔽してきました。
「邪馬台国が日本列島には存在しなかった理由」などいくらでもありますが、
誰もそれを知らないのがその証拠です。
日本のマスメディアは歴史学が「場の空気」で通説を決定する「ポリコレ歴史学」である事を利用し、
社会的影響力を行使してその「場の空気」を作り出してきたのです。
自分達に都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」だとするために。
それだけでなくこの「歴史学の権威」を崇拝する事を「絶対正義のポリコレ」とするように愚民化政策をし、
崇拝しない者達には「ネトウヨ」という「逸脱者」のレッテルを貼って大衆が嫌悪感を持つように印象操作をしてきました。
そして異論に対しては「ポリコレ無罪」の罵詈雑言で吊し上げて血祭りにし、
見せしめにして言論弾圧してきた「ポリコレ歴史洗脳集団」です。
本来であればこのような日本の歴史学やマスコミの組織的な欺瞞を告発すべき社会的責任がある者達とは、
社会現象の本質を暴くはずの社会学にあります。
しかし日本の社会学者達にとっての存在理由とは、
「社会現象の解明」という研究活動ではありません。
社会学会の研究指針が定める研究目的とは何と「社会正義の追求」なのです。
社会学者達自体が、
「真実よりもポリコレ」を追求する「ポリコレ原理主義者」であり、
都合の悪い人達を「学問の権威」を振りかざしてレッテルを貼って叩き潰すためにマスメディアから「免状」を授けられた「道徳事業家」です。
それに歴史学と同様に先行研究の蓄積を崇拝するので、
「場の空気」を支配するような大御所達には逆らう事はできません。
また外部の意見に耳を傾ける必要もありませんので、
マスメディアの影響下にある「場の空気」に支配された内輪の論理で「社会正義」を追求し、
まるで「風紀委員」であるかのように実社会にそれをゴリ押ししようとします。
だから社会学者達はマスメディアに出て来て走狗のようにボロクソに批判するだけで、
研究成果がなくても批判される事はないのです。
それだけでなく社会学者達は「実証主義」や「客観主義」を批判し、
日本の歴史学に「構築主義」を導入させました。
日本の歴史学が「ポリコレ歴史学」である事を利用し、
マスメディアと結託して罵詈雑言のポリコレ棒で吊し上げて同調しない歴史学者を全て粛清(キャンセル)し、
見せしめにしたのです。
そして歴史学界に「物言えぬ空気」を作り出して歴史学者達を骨抜きにして言いなりにし、
自分達の追求する社会正義を実現するために都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定」させました。
異論を主張するような「ネトウヨ」達には「そのような恥ずべき主張をする歴史学者は一人もいない」と糾弾して大衆が軽蔑するように言いくるめ、
「社会的権威のあるネトウヨ」を全て魔女狩りしてきた「ポリコレ歴史構築集団」です。
本来であればこのように「学問の権威」を振りかざして「場の空気」を支配し、
「組織的な研究不正」をしてきた「頭ポリコレ」のエセ学者達を告発すべき社会的責任がある者達とは、
科学の向上発達を図るべき学術会議にあります。
しかしポリコレ決めてお気持だけで発狂する「ポリコレ信者」達の「モラル・ハラスメント」の同調圧力の前に、
学術会議も骨抜きにされて言いなりの存在です。
何故ならば信者達にはマスメディアから「免状」が与えられているので、
集団心理によって激しい活動を行うからです(自薦の用心棒)。
まともな科学者であればこのような問題に口を出して学者生命を危険に晒すよりも、
自分達の研究に専念したいのです。
学術会議のメンバー達とは学術界における「異端審問」による吊し上げ、袋叩き、血祭り、見せしめ、口封じによる言論統制を黙認してきた、
「キャンセル・カルチャー奨励集団」です。
これが総合的・俯瞰的な視点を導入して「学術的な議論」を取り戻し、
「構築主義」というポリコレ学問を脅かそうとするような学術会議の本質的な改革に対しては、
構築主義を死守することで国民を思考停止させ、もみ消して言い逃れを目論む「ポリコレ布教集団」が常人には理解できない程に猛反発して菅総理を敵視し、
オリンピックが失敗であると印象操作され、
その関係者が次々と粛清(キャンセル)された理由です。
こうして日本人は「歴史学の権威」を利用してポリコレ歴史が史実となるような「場の空気」を「構築」する事に夢中な「ポリコレ歴史修正主義者」の集団となり、
学術的な議論によって歴史の真実に辿り着く事ができなくなりました。
社会的に望ましくない「不都合な真実(アンチポリコレ歴史)」に近付こうとする者達には、
社会全体からモラハラの誹謗中傷が行われ、
全て叩き潰されてきたのです(血祭り文化)。
これが日本人には100年かけても邪馬台国が見つけられなかった本当の理由です。
日本では歴史問題が不毛論争にしかならないのは当然の結果です。
愚民化された「ポリコレ馬鹿」にとっては「真実かどうか」には興味が無く、
「安全かどうか(safetyism)」が重要なのですから。
これがポリコレは社会に沈黙を強制し、人々を面従腹背にさせて分断すると言われる理由なのです。
「物言えぬ空気」は「不正の温床」とも言われており、
キング牧師はかつて次のように述べました。
「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める」と。
「ネトウヨ」や「パヨク」と呼ばれる分断された人達はどちらも「社会的な望ましさ(ポリコレ)」を追求するように現実逃避の教育をされた「ポリコレの変異種」であり、議論を通じて社会的に望ましくない「客観的な真実」に辿り着く事はありません。
人気上昇中!応援メッセージが続々!
歴史学者ってポリコレに配慮してこれまでずっと国民を騙してきたんですね。そしてこれからも騙し続けるんですね。
ポリコレに配慮したこの国の歴史学や社会学は「嘘の温床」ですね。この国の大学は「嘘の製造工場」ですね。
ポリコレに配慮して研究不正を見て見ぬフリする学術会議の存在意義って何ですか?「税金の無駄」ですね。
ポリコレよりも「正直であれ」、「人の嫌がる事はしない」、「失礼な事は言わない」等の方が重要な社会規範じゃないでしょうか。
トンデモ歴史を幼少から叩き込まれ、それが常識となっているポリコレの社会って怖いですね。
マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
- 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
- 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、
モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、
例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、
モラルに違反する話題をする事ができないため、
疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。
何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。
そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、
国民に以下の原則を守らせる事です。
- 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
- 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。
これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。
この3原則を社会規範として徹底させる事で、
歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。
そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、
歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。
このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。
即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、
それは正義を実現するために正当化される上に、
批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。
このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、
マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。
この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、
マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。
例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、
それを隠し通す事ができるのです。
話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。
後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。
そしてマスメディアの保護がなければ、
国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。
歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。
そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。
社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、
その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。
「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、
社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、
彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。
「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、
イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。
マスメディアはこの基本3原則を守る事により、
ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。
そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」
と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。
マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、
人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、
日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。
歴史書に誰にもわからないような説明文を記すはずがない。
倭人伝を記した者は、邪馬台国への道程を誰にでも理解できるように記述したはずだ。
第一の過ちは学界までもが「大海中の山島」を読み間違えたことだが、
第二の過ちは学界が文献を完全に無視し、朝鮮半島や遼東半島の地理的条件も考慮せず、
その後の歴史や経済的、技術的、戦術的条件その他も全く考慮せず、
不十分な考古学的発見だけで楽浪郡平壌説を定説化してしまったことだろう。
間違った定説を前提にして倭人伝の記述を基に行程を辿っても、日本列島のどこにも辿り着くはずがない。
その時点で学界は真実を追求し、定説の過ちを疑うべきだったが、
さらに第三の過ちを犯してしまった。
定説を疑う代わりに真実の追求を放棄し、
倭人伝の記述を無視して文献だけで物を言わない風潮を作り上げてしまったのだ。
これにより怪しげな主張をする者は学界からいなくなったが、
同時に強い副作用を生み出した。
定説の間違いを証明するために文献を調べて主張しても無視されるようになってしまったのだ。
これがパンドラの箱の正体である。
北朝鮮人の考古学的報告が無視される以上、文献以外に頼る物がないのにも関わらず無視される。
即ち、歴史学の世界では楽浪郡平壌説を否定する方法が存在しないのだ。
定説とは「確かな事が科学的に検証された説」なのではなく、
「100年前の考古学的確証に基づき、論証が十分されておらず、
その根拠には反証可能性が存在しない説」なのだ。
「中国の歴史書は考古学の裏付けが無く、あくまでも一説とする事」という原則の導入は一見すると合理的に聞こえるが、
実際には「都合の悪い歴史書の記述は、どれだけ数多くあっても無視して良い」という、
定説を守るための詭弁だ。
こうして学界は自ら信奉するドグマを疑う方法が存在しない集団となってしまった。
ここで言う「ドグマ」とは専門用語で、
「議論の余地が無いとされている原理でパラダイムシフト無しに修正できないイデオロギーの基盤となる基本的原理」を意味する。
即ち、学界は定説というドグマを第一原理に置いた独断主義の集団となったのだ。
説明できない歴史書の記述を前に学界は、思考自体を停止することにした。
歴史学界は考古学界に立証責任を転嫁するようになり、
その考古学界はまるで否定する事が許されなかった天動説のように定説検証には消極的になった。
歴史学界からも考古学界からも真実に辿り着ける者は存在しなくなってしまった。
一つとして存在すべきでない以下の疑似科学の特徴を全て備えるニセ学者の集団なのだ。
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検証不能の説に基づく Use of vague, exaggerated or untestable claims 100年前の北朝鮮での遺跡調査に基づいた定説は再検証できない上、
北朝鮮学者の調査報告は無視して存在自体を葬る。
即ち、考古学的手法により定説を否定する事は不可能である。
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問題点を認識させない Refusal to acknowledge problems 定説に疑問を投げかけるような「夫余の楽浪郡攻撃の怪」や「長寿王の平壌城の場所は現在の平壌とは異り、遼東に存在したはずだ」などの問題点を公開して解決を呼びかけたりする事はなく、
存在自体を知られないようにして異端者を生み出さないように細心の配慮をする。
問題点の公開こそが学問発展の基本である事には気付かない。
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中国史料の史料批判 Use of misleading language 中国史料を根拠に定説を批判する異端者に対しては、「史料を読む技術が無いのに暴走している」とその翻訳内容や史料に対する認識を批判するのみで、
批判内容に反論する事なく無視する。
論点のすり替えを行って本来の議論から逸脱する行為であり、
詭弁の一種である。
数少ない異端者のほとんどはこの批判だけで挫折し、批判を続ける者は残りわずかとなる。
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他の分野の専門家には検証させない Lack of openness to testing by other experts 歴史学、考古学の成果を重視しない者による定説の検証は認めない。このため地理条件については一切考えなくて良く、地理条件を理由に疑問を述べる異端者の批判は無視する。野性号の実験結果も当然無視するだけである(無敵の無知論証)。
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論証よりも確証を追求 Over-reliance on confirmation rather than refutation 立証責任の回避(Reversed burden of proof)や、都合の悪い情報の無視(Refusing to consider data that conflict with its claims)など。
論証を回避し、考古学的確証を追求するのみである。
数々の手法により中国史料を読みこなす専門能力のある異端者は既にほぼ壊滅された。
しかしわずかに生き残った異端者に対しても反論する必要性が無く無視するだけで良いのである。
山形明郷氏が問題提起した時点で論争は終結すべきだったが、歴史学者の合意形成によって排除されたまま死を迎えた(センメルヴェイス反射)。
彼のように無責任に学界を批判すべきではないと思われるかもしれない。
しかし学問の世界では立証責任があるのはその説を主張する側にあり、その説を批判する側にはないため倫理的な問題はない。
それに不正行為(虚偽の科学メッセージ、研究過程を故意にゆがめる等)の告発は社会正義の一つであり、国民の知る権利を守るために法律上保護されているので、名誉毀損が成立しないため法律的な問題もない。
むしろ告発は道徳的義務であろう。
そして学界が不正行為を隠し続ける蒙昧主義の集団である以上、批判者を無視する以外に学界にできる事は何もない。
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批判者を個人攻撃 Personalization of issues 疑似科学の手法を総動員してほぼ壊滅状態となった異端者達に対し、仕上げとしてその動機を嫌韓感情に訴えて批判したり(民衆の悪魔)、個人的な人格問題として激しく人身攻撃して叩き潰す(Attacking the motives or character of anyone who questions the claims)。
学界の人間が公の場でこのような発言をする事はない。
学界が沈黙している間に非公式或いは匿名で批判するか、代理として学界支持者が批判する。
これらの自薦の用心棒達はまず最初に批判者の知識や能力を激しく攻撃し、次に批判者の動機を激しく攻撃する。
次にその人格や精神状態を激しく攻撃し、最後にはその社会的危険性を激しく攻撃する。
これを一致団結して行い、批判者を叩き潰す。
彼らは常識、道徳、前例、先入観、固定観念、嫌韓感情、愛国心などを理由にあらゆる種類の人格攻撃を批判者に対して行うが、論証の内容に対して反論する事は無い。
同調圧力をかける事を目的とした論点のすり替えの一種。
誤謬になりやすい権威に訴える論証のさらに逆であり、論理的根拠は何も無い。
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進捗の欠如 Absence of progress 定説を疑う事は決して無い(Lack of self-correction)。
100年間という長い期間、邪馬台国が探し出せない原因を究明する事も無く、自分達の責任だと考える事も無い。
定説に対しての疑問は「抱かせない」。
定説以外の仮説については「提案させない」。
定説の検証は「できない仕組みを作る」。
定説を検証しようとする者に対しては「論点をすり替える」。
定説の検証結果に対しては「無視する」。
定説を疑う者に対しては「激しく人身攻撃する」。
これを一致団結して行い、パンドラの箱を100年以上固く守ってきたのだ。
「知識獲得のサイクル」を組織的に完全停止させた上、
全会一致の幻想に安住した正真正銘の狂信的思考停止集団であり、邪馬台国が日本列島に存在しない以上、学界がこの問題を解決する日は永遠に来ないだろう。
歴史学には客観的な根拠を示し、論理的な考察を行うことで、他者を納得させられる研究方法が求められる。
「正常性バイアス」、
「感情バイアス」、
「センメルヴェイス反射」、
などの各種認知バイアスを排除し、実証主義に基づいて科学的、客観的に歴史を把握せねばならない。
しかし現在の日本の歴史学における歴史学の手法は文献資料の史料批判や、考古史料などの歴史資料の分析に囚われすぎているだろう。
ある手法を学んでそれを絶対視した場合、「専門偏向」や「知識の呪い」という認知バイアスに囚われてしまう。
「専門偏向」とは、自分の得意な分野の視点でのみ観察し他の視点では見ない傾向、「知識の呪い」とは知識を持たない人達の考えを想像する事ができない傾向である。
歴史学には幅広い観点からの検証が必要で、理性主義、経験主義、実証主義、科学的方法などに基づいた、実現可能性や合理性の論証が必要である。
しかし残念ながら、それは全くされていない。
自分達とは異なる手法による検証は、擬似科学の手法を用いて拒否しているのだ。
日本の歴史学の方法とは科学的方法ではなく疑似科学の手法であり、その成果は疑似科学なのである。
科学的思考を持たないシープル(Sheeple)達が歴史を100年かけて調査し続けたところで群盲象を評すだけである。
これが日本の歴史学が邪馬台国を見つけられない理由なのだ。
「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」。
学校で重点項目として必ず記憶させられるこの歴史事件には、実は根拠などない。
正史である晋書には記述がなく、
三国史記に「313年に美川王は楽浪郡を攻めて捕虜2000人余りを捕獲した」との記述が、
そして「313年に高句麗と戦っていた遼東郡太守張統と楽浪郡太守王遵が謀って鮮卑慕容部に帰順し、慕容カイが張統を楽浪郡の太守、王遵をその参軍事とした」という記述が資治通鑑晋紀にあるだけでる。
歴史書には、楽浪郡が滅ぼされたとか、楽浪郡の場所が移動したとかという記録がないばかりでなく、楽浪郡が313年の後も存続している事が記されている。
これは永嘉の乱で事実上滅亡した西晋の楽浪郡と遼東郡の刺史達が、鮮卑慕容部に帰順する事を選択したという記録である。
そもそも正史に載っていない時点で、これが日本の子供達が必ず覚えないといけないような重大な事件でない事は明らかである。
しかし、日本の歴史学者達はこの事件を自分達のイデオロギーに沿うような物語に編集し、
学校教育で子供たちに「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」と最重要項目として教え、楽浪郡平壌説に疑問を持たないように洗脳しているのだ。
その真相は歴史学者達が単に「楽浪郡を朝鮮半島から消滅させるタイミング」が、
この事件以外に見つからなかったために「313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件をでっち上げただけであるにも関わらず。
そして「楽浪郡が朝鮮半島を420年間支配した」などというウソ物語を子供達に刷り込んでいるのである。
日本の歴史学とは社会的に望ましい歴史仮説「ポリコレ歴史」を社会的圧力によって史実として確定してきた「ポリコレ歴史創作集団」なのだ。
楽浪郡平壌説に疑問を持ってはならず、楽浪郡平壌説以外の仮説を提案してはならず、楽浪郡平壌説以外の仮説を検証してはならない。
「可能性がある」程度の確証に過ぎない「楽浪漢墓」や「楽浪太守封泥」をもってして楽浪郡平壌説の「絶対的な確証」だと強弁し、
社会的影響を最大限に利用して楽浪郡平壌説以外の異論を排除しているだ。
「疑問生成、仮説提案、検証」という、科学的思考のサイクルによる探究が存在しない。
学校教育において子供たちに何の根拠もない作り話を固定観念として刷り込んで洗脳しても恥じる事はない。
問題意識など存在せず、
100年経っても邪馬台国論争が疑似問題である事に気付くことは無い。
いや本当は歴史学者達はとっくの昔から間違いに気付いている。
しかし真実に到達してしまった歴史学者達は恐しさの余り、皆ダチョウになってしまったのだ。
だから歴史学者達は邪馬台国の研究には全く興味が無いのである。
このような歴史修正主義のニセ学者達の主張を信じて人生を棒に振った数多くの者達は、
哀れとしか言い様がない。
歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?
「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。
従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。
このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?
歴史学における不正行為(歴史の捏造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、
倫理的にも法律的にも何の問題もありません。
むしろ倫理的に問題がある行為とは、
歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。
新型コロナウィルス
菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、
日本が世界に誇るべき偉業でしょう。
単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、
飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。
それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、
クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。
安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。
安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、
飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、
「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、
惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。
ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。
話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。
何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。
フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。
マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。
マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。
おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録」
満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。
現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。
トンデモ歴史教科書でネトウヨ化するポリコレ歴史教育のまやかし
歴史認識捏造のネトウヨ歴史教育と社会学者のデタラメ社会問題
歪曲歴史教科書でポリコレ現実逃避するごまかし歴史教育問題
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