マスコミが言い逃れ口封じする歴史問題と社会問題のパンドラの箱
〜マス・メディアのポリコレとネトウヨ教育問題〜祭り上げ歴史学はゴリ押し社会学の言いなり〜

歴史学なめ子(人気上昇中!) 社会学研究家, 2023.2.4

 学校で必ず教育される「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件を覚えているでしょうか。 しかし実際には高句麗は楽浪郡を攻撃しただけで、歴史書における楽浪郡はその後も存続しています。 即ち、これは歴史資料の根拠など全くないデマカセ歴史です。 「こうだったら説明がつくからいいなぁ」という程度のお気持ち歴史仮説です。 「歴史学は史料批判に基くから信頼できる」などと信じている者達は騙されています。 実際には史料批判どころか、 何の史料にも記述されていないような作り話を「史実」として確定してきたのが日本の歴史学です。 では日本の歴史学者達は何故そのような、でっち上げの歴史教科書で学校教育するのでしょうか? それは歴史学的に確定してしまった「楽浪郡が平壌に存在した」というイカサマ歴史に対し、 決して疑問を持つ事がないように言い包めるためです。 STAP細胞騒動など足元にも及ばないような日本の歴史学の「100年に渡る組織的な研究不正」に対して決して疑問を持たぬようにして言い逃れるために。 だから「邪馬台国」という愛国ファンタジーを構築して子供達を歴史修正主義者化し、 都合の良い歴史仮説に疑問を持つ事がないようなネトウヨを育成してきたのです。 ただ「歴史学の権威」とやらを守りたいためだけに、 子供達を騙し続けて国民を愛国ポルノで愚民化してきたというのが「歴史学者の正体」です。

マスコミが言い逃れ口封じする歴史問題と社会問題のパンドラの箱

 そしてその「歴史学の権威」が絶対であると印象操作してそれを崇拝する事を社会規範として社会教育してきたのが、 日本のマスコミと社会学者達なのです。 「歴史学の権威」を疑う事が絶対にないように国民を洗脳し、 歴史学者達に同調圧力をかけて都合の良いように歴史を構築してしまったために、 歴史学者達には、もはや歴史の真実に近付こうとする者達をキャンセル・カルチャーで吊し上げて血祭りにして見せしめにして口封じし、 子供たちを騙し続けて思考停止させる以外に選択肢がなくなったのです。 何故ならば何が社会的に望ましいか(ポリコレ)を決めるのはマスコミですので、 マスコミの言いなりになる歴史学者達はポリコレ・カード・バトルで最強です。 しかし「歴史学の権威」を用いてマスコミに都合の悪い主張をした途端、 学者達のカードは最弱にされてしまい粛清(キャンセル)されてしまうからです。 そしてマスコミと社会学者達にとって重要なのは「国民の知る権利の代行」ではなく、 「歴史学の権威を死守して国民を言いくるめる事」なのです。 彼等も歴史学者達と同様にとっくの昔に戻れない一線を越えてしまっており、 もはやウソの世界を守り続ける外に選択肢はないのですから。 「歴史学の権威」を死守して国民を騙し続けるために社会学者達を御用学者として祭り上げ、「歴史学の成果を鵜呑みにしない者達(ネトウヨの正体)」を黙らせてきたというのが「マスコミの正体」です。 「歴史学の権威」の欺瞞が暴かれる日、 それはネトウヨ達を自ら育成しておいた上に都合が悪くなるとゴキブリ扱いし、 歴史学の成果を鵜呑みにしない日本人への憎しみを外国人に植え付け、 歴史問題が解決されないように奔走してきた、 マスコミと社会学者達の偽善と歴史犯罪も同時に暴かれる運命の日となるでしょう。

ポリコレ歴史修正主義の問題点(さらに詳しく!)

 本来であれば歴史学の通説とは、 史料批判に基いた実証主義的客観主義的な「学術的な議論」の結果により決定されるべきです。 しかし日本の歴史学者達は、通説を議論の結果により決めてきたのではありません。 決定してきたのは何と「場の空気」だったのです。 それに先行研究の蓄積を崇拝するので「場の空気」を支配するような学界の大御所達には逆らえず、 先学達の間違いを修正する事ができません。 また外部からの意見に耳を傾ける必要もありませんので、 非公開の場所で学界の内部の論理で政治的、社会的に決定されてきたのです。 日本の歴史学とは、 不都合な歴史資料を情報統制し、 社会的に望ましい歴史仮説「ポリコレ歴史」を史実だと「歴史学的に確定」し、 歴史の真実の隠蔽工作を行ってきた「ポリコレ歴史創作集団」です。

 本来であればこのような日本の歴史学の組織的な不正行為を暴くのはマスメディアの責任です。 しかし日本のマスメディアには社会的責任を果たす能力が無いだけでなく、 その意思もありません。 それどころかマスメディアは、 この「歴史学の権威」を守るために都合の悪い事実を隠蔽してきました。 「邪馬台国が日本列島には存在しなかった理由」などいくらでもありますが、 誰もそれを知らないのがその証拠です。 日本のマスメディアは歴史学が「場の空気」で通説を決定する「ポリコレ歴史学」である事を利用し、 社会的影響力を行使してその「場の空気」を作り出してきたのです。 自分達に都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」だとするために。 それだけでなくこの「歴史学の権威」を崇拝する事を「絶対正義のポリコレ」とするように愚民化政策をし、 崇拝しない者達には「ネトウヨ」という「逸脱者」のレッテルを貼って大衆が嫌悪感を持つように印象操作をしてきました。 そして異論に対しては「ポリコレ無罪」の罵詈雑言で吊し上げて血祭りにし、 見せしめにして言論弾圧してきた「ポリコレ歴史洗脳集団」です。

 本来であればこのような日本の歴史学やマスコミの組織的な欺瞞を告発すべき社会的責任がある者達とは、 社会現象の本質を暴くはずの社会学にあります。 しかし日本の社会学者達にとっての存在理由とは、 「社会現象の解明」という研究活動ではありません。 社会学会の研究指針が定める研究目的とは何と「社会正義の追求」なのです。 社会学者達自体が、 「真実よりもポリコレ」を追求する「ポリコレ原理主義者」であり、 都合の悪い人達を「学問の権威」を振りかざしてレッテルを貼って叩き潰すためにマスメディアから「免状」を授けられた「道徳事業家」です。 それに歴史学と同様に先行研究の蓄積を崇拝するので、 「場の空気」を支配するような大御所達には逆らう事はできません。 また外部の意見に耳を傾ける必要もありませんので、 マスメディアの影響下にある「場の空気」に支配された内輪の論理で「社会正義」を追求し、 まるで「風紀委員」であるかのように実社会にそれをゴリ押ししようとします。 だから社会学者達はマスメディアに出て来て走狗のようにボロクソに批判するだけで、 研究成果がなくても批判される事はないのです。 それだけでなく社会学者達は「実証主義」や「客観主義」を批判し、 日本の歴史学に「構築主義」を導入させました。 日本の歴史学が「ポリコレ歴史学」である事を利用し、 マスメディアと結託して罵詈雑言のポリコレ棒で吊し上げて同調しない歴史学者を全て粛清(キャンセル)し、 見せしめにしたのです。 そして歴史学界に「物言えぬ空気」を作り出して歴史学者達を骨抜きにして言いなりにし、 自分達の追求する社会正義を実現するために都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定」させました。 異論を主張するような「ネトウヨ」達には「そのような恥ずべき主張をする歴史学者は一人もいない」と糾弾して大衆が軽蔑するように言いくるめ、 「社会的権威のあるネトウヨ」を全て魔女狩りしてきた「ポリコレ歴史構築集団」です。

 本来であればこのように「学問の権威」を振りかざして「場の空気」を支配し、 「組織的な研究不正」をしてきた「頭ポリコレ」のエセ学者達を告発すべき社会的責任がある者達とは、 科学の向上発達を図るべき学術会議にあります。 しかしポリコレ決めてお気持だけで発狂する「ポリコレ信者」達の「モラル・ハラスメント」の同調圧力の前に、 学術会議も骨抜きにされて言いなりの存在です。 何故ならば信者達にはマスメディアから「免状」が与えられているので、 集団心理によって激しい活動を行うからです(自薦の用心棒)。 まともな科学者であればこのような問題に口を出して学者生命を危険に晒すよりも、 自分達の研究に専念したいのです。 学術会議のメンバー達とは学術界における「異端審問」による吊し上げ、袋叩き、血祭り、見せしめ、口封じによる言論統制を黙認してきた、 「キャンセル・カルチャー奨励集団」です。 これが総合的・俯瞰的な視点を導入して「学術的な議論」を取り戻し、 「構築主義」というポリコレ学問を脅かそうとするような学術会議の本質的な改革に対しては、 構築主義を死守することで国民を思考停止させ、もみ消して言い逃れを目論む「ポリコレ布教集団」が常人には理解できない程に猛反発して菅総理を敵視し、 オリンピックが失敗であると印象操作され、 その関係者が次々と粛清(キャンセル)された理由です。

 こうして日本人は「歴史学の権威」を利用してポリコレ歴史が史実となるような「場の空気」を「構築」する事に夢中な「ポリコレ歴史修正主義者」の集団となり、 学術的な議論によって歴史の真実に辿り着く事ができなくなりました。 社会的に望ましくない「不都合な真実(アンチポリコレ歴史)」に近付こうとする者達には、 社会全体からモラハラ誹謗中傷が行われ、 全て叩き潰されてきたのです(血祭り文化)。 これが日本人には100年かけても邪馬台国が見つけられなかった本当の理由です。 日本では歴史問題が不毛論争にしかならないのは当然の結果です。 愚民化された「ポリコレ馬鹿」にとっては「真実かどうか」には興味が無く、 「安全かどうか(safetyism)」が重要なのですから。 これがポリコレは社会に沈黙を強制し、人々を面従腹背にさせて分断すると言われる理由なのです。 「物言えぬ空気」は「不正の温床」とも言われており、 キング牧師はかつて次のように述べました。 「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める」と。 「ネトウヨ」や「パヨク」と呼ばれる分断された人達はどちらも「社会的な望ましさ(ポリコレ)」を追求するように現実逃避の教育をされた「ポリコレの変異種」であり、議論を通じて社会的に望ましくない「客観的な真実」に辿り着く事はありません。

ウソごまかしの偽歴史学(さらに詳しく!)

人気上昇中!応援メッセージが続々!
歴史学者ってポリコレに配慮してこれまでずっと国民を騙してきたんですね。そしてこれからも騙し続けるんですね。
ポリコレに配慮したこの国の歴史学や社会学は「嘘の温床」ですね。この国の大学は「嘘の製造工場」ですね。
ポリコレに配慮して研究不正を見て見ぬフリする学術会議の存在意義って何ですか?「税金の無駄」ですね。
ポリコレよりも「正直であれ」、「人の嫌がる事はしない」、「失礼な事は言わない」等の方が重要な社会規範じゃないでしょうか。
トンデモ歴史を幼少から叩き込まれ、それが常識となっているポリコレの社会って怖いですね。


 マスメディアが日本人を歴史洗脳するための基本方針とは以下の通りです。
  1. 歴史学者達のコンセンサスを信じる事が人間としてあるべき社会規範である事を信じさせる
  2. 歴史学者達のコンセンサスに敵対する主張をする事が、モラルに反する行為である事を信じさせる
  3. 歴史学者達のコンセンサスを信じないようなモラルの低い者達に対しては、 モラルを全面に押し出した「モラルハラスメント」をするように指導する
このような社会的方法を用いる事により、 例え人々が歴史学者達のコンセンサスの間違いに気付いた時でも、 モラルに違反する話題をする事ができないため、 疑問を口に出したりしないように言論統制する事ができます。 何故ならばその話題は社会規範に基いた「論議の窓」の外側に追い出されているからです。 そしてこの基本方針を実践するためにマスメディアが行ってきた愚民化社会実現のための戦略とは、 国民に以下の原則を守らせる事です。
  1. 歴史学者達のコンセンサスに疑問を持たせない
  2. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は提案させない
  3. 歴史学者達のコンセンサスと敵対する仮説は検証しない
これを「歴史洗脳基本3原則」と呼ぶ事にします。 これは異端者を排除するための伝統的な「村八分」の方法を応用した古典的な方法です。 この3原則を社会規範として徹底させる事で、 歴史学者達のコンセンサスと敵対しても社会において決して相手にされる事はない事を理解させます。 そして歴史学者達のコンセンサスを信じる事により「モラルの高い位置」に立つ事ができると同時に、 歴史学者達のコンセンサスと敵対する主張を考える事自体が「モラルに反する行為」である事を人々に信じさせる事ができます。 このようにしてマスメディアは愚民達に正義感を植え付ける事により「免状」を与える事ができます。 即ち、「悪」の主張をする者に対して例え問題のある方法を使用したとしても、 それは正義を実現するために正当化される上に、 批判される事は決してないのだと自信を与える事ができるのです(自薦の用心棒)。 このようにして愚民達を凶暴化させて問題のある主張をする者達を袋叩きにして骨抜きにする事で、 マスメディアは自らの手を汚す事なく国民を愚民化して異論を抑圧してきたのです(キャンセル・カルチャー)。

 この歴史洗脳基本3原則を厳守する事により、 マスメディアは単に愚民社会が実現できるだけではありません。 例え歴史学者達のコンセンサスに間違いがあったとしても、 それを隠し通す事ができるのです。 話題にされず、検証もされなければ、誰もそれが間違いだとは考えないのですから。 後は歴史学者達に同調圧力をかけてコンセンサスを作り出せば良いだけです。 そしてマスメディアの保護がなければ、 国民を騙し続けてきたニセ歴史学者達が生きて行く事などできるはずがありません。 歴史学者達がマスメディアの言いなりになるのは当然の成行です。 そしてマスメディアがこの筋書きの戦略を実現するための戦術として利用してきたのが社会学者達です。 社会的影響力を行使して社会学者達を御用学者として祭り上げて彼等の主張を後押しする事により、 その「学問の権威」と「影響力」を共に利用して都合の良い歴史仮説を「歴史学的に確定した史実」とするように働かせてきたのです。 「人は安全な時だけ居丈高になる」と言われていますが、 社会学者達に与えられた「免状」をマスメディアに取り消させない限り、 彼等のキャンセル活動が終わる事はないでしょう。

 「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。」と述べたのは、 イングランドの詩人ジョン・ミルトンでした。 マスメディアはこの基本3原則を守る事により、 ミルトンの言うところの「最も重要な自由」を日本社会から奪ってしまいました。 そして「個人の自由は人間の品性と幸福にとって永久的な本質である。」 と述べたのはイギリスの小説家ブルワー・リットンでした。 マスメディアは日本人が社会学的な素養が全くない事を利用してプロパガンダ技術を駆使する事により、 人間の品性と幸福にとって永久的な本質である「自由な精神」を奪う事に成功し、 日本人が歴史学者達の主張を鵜呑みにするように愚民化してしまったのです。

1. 社会科学における検証方法の核心は認識論

 世界における社会科学の進歩から取り残されないようにするために、 日本社会でも「自然科学と社会科学の融合」が叫ばれ続けている。 しかし残念ながらまるで水と油のように融合する事はなく、 日本の社会科学のレベルは世界水準から程遠いのが現状である。 その理由とは一体何故だろうか? 社会科学とは本来、 科学的思考に由来する客観的視点によって社会の真実を探求する学問である。 確かに政治学、宗教学、倫理学などの社会科学では自然科学と異なり、 「客観的真理」よりも「政治的真理」、「道徳的真理」、「実用的真理」などを追求し、 「正当化」の論証ではなく「真理の合意説」や「真理の実用説」などによって真理を追求する事がある。 しかし歴史学という学問は実証主義に基づいて「ただ事実を記すべき」の学問である。 歴史学が探求すべき「真理」とは、「政治的真理」でも「道徳的真理」でも「実用的真理」でもなく、 自然科学と同じ「客観的真理」だからだ。 歴史学においては自然科学と同様に認知バイアスや誤謬を排除し、 科学的方法に基いた検証作業が必須である。 「真理の合意説」や「真理の実用説」は排除されねばらない。 それ故に歴史学は科学の一種として考えられているのだ。

 世界の社会科学において「客観的真理」を追求するための仮説の検証作業に使用されている学問とは、 「認識論」である。 この認識論こそが真実を追求してきた人類が思考錯誤して積み上げてきた英知であり、 仮説が真実である事を確信するためにはどのような検証が必要かを説明する学問だ。 しかし日本社会ではその「認識論」自体が実はパンドラの箱に封印され、 仮説が現実世界と対応している事を確信するための「正当化」の論証がされてはいない。 残念ながら歴史学を含めた日本の社会科学の世界では科学的思考を受け入れてなどいないのだ。 それどころか「自然科学と社会科学は役割分担すべきだ」とさえも言われている。 これは「科学的思考の勢力は実験結果を整理して自然科学の真理だけを追求していれば良い。 社会科学の成果に対し、正当化などという検証概念を覚えて科学的思考を適用させてはいけない」というのが実態であろう。 だから「歴史学研究法」の日本語のページには、 そもそも認識論についての記述がほとんどされていないのだ。

2. 認識論を排除してきた日本の歴史学

 社会科学において「認識論」が封印されて科学的検証がされて来なかったとすれば、 日本社会において「自然科学と社会科学の融合」が実現できない理由も説明できよう。 日本の社会科学においては「真理の合意説」や「真理の実用説」に基づいて「客観的真理」が排除され、 「政治的真理」、「道徳的真理」、「実用的真理」などを追求してきた可能性がある。 その場合、社会的啓蒙に不都合な仮説を社会的影響を用いて組織的に排除する事で、 歴史修正主義に陥っている危険性が有るのだ。 社会科学の成果、中でも客観的真理を追求すべき歴史学の成果は学問の水準を満たしていない危険性が高い。

 日本の学術界には「自己の専門研究が及ぶ範囲を自覚」というルールがあるが、 これこそが日本社会の禁忌を守り続けている強固な要塞なのだろう。 間違った研究成果を尊重する必要など全くないのに、他分野の専門家は口を出してはいけないのだから。 「進歩が生まれるのは、多様性の中の選択からであって、画一性を保持するからではない」とは、 イギリスの評論家ジョン・ラスキンが述べた言葉である。 学問とは決して独自の体系に閉じこもっていてはいけない。 他分野からの検証を積極的に受け入れて様々な視点から検証してこそ、学問は進歩するのである。 社会科学や人文科学が「実験ができないから科学ではない」というような理由で認知バイアスや誤謬を許容しても良いはずがない。 日本の学術界自体が、歴史修正主義を保護する強固な体制を作り上げ、学問の発展を阻害しているのだ。 「自然科学と社会科学の融合」が実現しないのは当然の結果であり、 このような愚かなルールは今すぐ撤廃すべきである。 歴史学者達は、他分野からの検証結果に積極的に回答しなくてはならないはずだ。 それなのに、現実の日本社会においては歴史学者達は他分野から批判に対して回答する必要が全くないのである。 それだけでなく、誰もそれを問題としないのだ。
 例えば上に列記したような疑問が、認識論に基いた他分野からの疑問の例である。 しかしこのような疑問を出したところで、日本の歴史学者達が検討する必要は無い。 それだけでなく、このような疑問を歴史学者達に出す事自体が禁止されているのだ。 「自己の専門研究が及ぶ範囲を自覚」という社会のルールに抵触するのだから。 これこそが日本人から思考能力を奪い、愚民化を実行してきた日本社会のルールである。 しかしもし日本人が認識論に基いて議論など始めたとしたら、 邪馬台国が日本列島に存在したはずがない事が誰の目にも一目瞭然となってしまうだろう。 長い間封印されて來たパンドラの箱を守り続けるためには、 日本社会はこのルールを機能させたままにしておく必要があるのだ。 愚民は愚民のままでいれば良いのだろうか。

3. 認識論ではなく先行研究に基いた日本の歴史学

 「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」。 学校で重点項目として必ず記憶させられるこの歴史事件には、実は根拠などない。 正史である晋書には記述がなく、 三国史記に「313年に美川王は楽浪郡を攻めて捕虜2000人余りを捕獲した」との記述が、 そして「313年に高句麗と戦っていた遼東郡太守張統と楽浪郡太守王遵が謀って鮮卑慕容部に帰順し、慕容カイが張統を楽浪郡の太守、王遵をその参軍事とした」という記述が資治通鑑晋紀にあるだけでる。 歴史書には、楽浪郡が滅ぼされたとか、楽浪郡の場所が移動したとかという記録がないばかりでなく、楽浪郡が313年の後も存続している事が記されている。 これは永嘉の乱で事実上滅亡した西晋の楽浪郡と遼東郡の刺史達が、鮮卑慕容部に帰順する事を選択したという記録である。 そもそも正史に載っていない時点で、これが日本の子供達が必ず覚えないといけないような重大な事件でない事は明らかである。

 しかし、日本の歴史学者達はこの事件を自分達のイデオロギーに沿うような物語に編集し、 学校教育で子供たちに「313年に高句麗は朝鮮半島北部へ進出し、楽浪郡を滅ぼした」と最重要項目として教え、楽浪郡平壌説に疑問を持たないように洗脳している。 その真相は歴史学者達が単に「楽浪郡を朝鮮半島から消滅させるタイミング」を歴史書で探しても、 この事件以外に見つからなかったために「313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼした」という歴史事件をでっち上げただけであるにも関わらず。 そして「楽浪郡が朝鮮半島を420年間支配した」などという「大きなウソ」を子供達に教育しているのである。 日本の歴史学者達とは、歴史書の記述を解釈して歴史を構築しているのではない。 偉大なる先人達の先行研究の蓄積に沿うように歴史書の記述を適当に解釈し、 社会的影響力を駆使してそれを史実としているとしか考えられない。 だから偉大なる先行研究の成果である「楽浪郡平壌説」に沿って歴史書を適当に解釈し、 壮大な虚構の古代史を構築してしまったのである。

 楽浪郡平壌説に疑問を持ってはならず、 楽浪郡平壌説以外の仮説を提案してはならず、 楽浪郡平壌説以外の仮説を検証してはならない。 「可能性がある」程度の確証に過ぎない「楽浪漢墓」や「楽浪太守封泥」をもってして楽浪郡平壌説の「絶対的な確証」だと強弁し、 社会的影響を最大限に利用して楽浪郡平壌説以外の異論を排除している。 「疑問生成、仮説提案、検証」という、科学的思考のサイクルによる探究が存在しない。 それどころか楽浪郡平壌説を守り続けるために、 学校教育において子供たちに何の根拠もない作り話を固定観念として刷り込んで洗脳しても恥じる事はない。 問題意識など存在せず、 100年経っても邪馬台国論争が疑似問題である事に気付くことは無い。 いや本当は歴史学者達はとっくの昔から間違いに気付いている。 しかし真実に到達してしまった歴史学者達は恐しさの余り、皆ダチョウになってしまったのだ。 だから歴史学者達は邪馬台国の研究には全く興味が無いのである。 このようなニセ学者達の主張を信じて人生を棒に振った数多くの者達は、 哀れとしか言い様がない。

4. 歴史修正主義を見抜く事ができない日本の社会学

 歴史学には客観的な根拠を示し、 論理的な考察を行うことで、他者を納得させられる研究方法が求められる。 「正常性バイアス」、 「感情バイアス」、 「センメルヴェイス反射」、 などの各種認知バイアスを排除し、実証主義に基づいて科学的、客観的に歴史を把握せねばならない。 現在の日本の歴史学における歴史学の手法文献資料史料批判や、考古史料などの歴史資料の分析に囚われすぎているだろう。 ある手法を学んでそれを絶対視した場合、「専門偏向」や「知識の呪い」という認知バイアスに囚われてしまう。 「専門偏向」とは、自分の得意な分野の視点でのみ観察し他の視点では見ない傾向、「知識の呪い」とは知識を持たない人達の考えを想像する事ができない傾向である。 歴史学には幅広い観点からの検証が必要で、理性主義経験主義実証主義科学的方法などに基づいた、実現可能性合理性の論証が必要である。 世界レベルにおける歴史学の史料批判の方法には、確かに科学的な検証が含まれている。 しかし残念ながら日本の歴史学の史料批判のチェック項目には、科学的な検証が含まれていない。 自分達とは異なる手法による検証は、歴史修正主義の手法を用いて拒否しているのだ。

 「歴史学の手法(英語版)」 には、「理にかなった歴史学の手法」は認識論の疑問として出される(The question of the nature, and even the possibility, of a sound historical method is raised in the philosophy of history as a question of epistemology)とあり、 「認識論の疑問」とは即ち、 実証的、 客観的(意識から独立した存在)、 論理的科学的な疑問である。 実際に「歴史学の基準において最も良い仮説」の基準を示した「C. Behan McCullagh」氏は、 「歴史記述の正当化」という著書の中でそれを示している。 このように、世界の歴史学では「歴史記述が正当化できるかどうかのチェック」は、 歴史学の基本中の基本である。 しかし日本の歴史学には実証的、客観的、論理的科学的、というような認識論の疑問に答えるべき「正当化」の概念が存在しない。 認識論の疑問に答えるべき歴史学のモデルから逸脱して「楽浪郡平壌説」というイデオロギーに沿って独断主義に陥っているのだ。 即ち、日本の歴史学とは通俗的な意味における「歴史修正主義」である。 日本の歴史学の手法とは科学的方法ではなく歴史修正主義の手法であり、その成果はウソ物語である。 これが日本の歴史学が邪馬台国を見つけられない理由なのだ。

 日本の歴史学が歴史修正主義である事を見抜くべき責任者は、本来ならば日本の社会学者達であろう。 「学問の父」とされるアリストテレスは「ある事を確信している場合、その前提となっている理由はその都度問われても良い」とした。 前提となっている理由は、矛盾が出る度に疑うべきだというのは、学問の基本中の基本なのだ。 その前提となっている理由である「楽浪郡平壌説」が疑われる事のないドグマと化している事は、 例え歴史学の知識がなくても社会学者であればわかるはずである。 しかし、日本の社会学もまた、歴史学と同様に日本社会のルールに安住し、歴史修正主義を見抜く能力などない。 歴史学と同様に学問の基本である「正当化」の概念が存在しない。 社会が誤謬やプロパガンダで蔓延していても、気にする事もない。 自薦の用心棒たちの活発な活動によって社会が思考停止に陥っているにも関わらず、社会学者達がそれに対して警告する事もない。 この社会が守り続けている禁忌を暴こうとする意思が無いのだ。 彼らの中に「常識」や「自明性」を疑って「ウーズル狩り」をする研究者がいないのが残念である。

 社会科学の専門家達は社会において「ウーズル」が組織的強化され、 集団思考に陥って危険な方向に進まないように警告する「知的なノブレス・オブリージュ」があろう。 しかし日本の社会学者達にとって、そもそも「ウーズル狩り」をする事など社会的に許されないのだ。 何故ならば「ウーズル狩り」をするという行為はマスコミ報道を疑う事を意味し、 そしてそのマスコミ報道は歴史学者達の主張に基いているからだ。 即ち、「ウーズル狩り」をするとは「歴史学者達の主張を疑う」という事を意味するのであるが、 それは社会学者達の崇拝している「他分野の研究成果には敬意を払うべきだ」という社会規範に抵触するからである。 「常識」や「自明性」を疑うというのは社会学の基本である。 しかし「ウーズル狩り」をしようとしない社会学者達とは、 まさに「常識」や「自明性」を疑わない人達である。 そのような疑問を持たない者達に社会現象の本質に辿り着く事など、永遠にできるはずがないのだ。

 日本の学術界は、他分野の専門家から批判される事はなく、 マスメディアからも崇拝され、政府は干渉しない。 即ち、批判する者が日本社会のどこにも存在せず、 「パラダイス鎖国」と呼ばれるぬるま湯につかって世界水準からほど遠いレベルにあるのだ。 歴史学も社会学も関与のエスカレーションによって自ら方針を変更する能力を既に失ってガラパゴス化しており、 外部の者たちによって改革されねばならないだろう。 このような者達に導かれた日本人が政治的、社会的に公正な「ポリコレ歴史」を社会的方法で史実にする事に夢中な「ポリコレ歴史修正主義者」の集団となってしまったのは当然の結果である。

トンデモ歴史を流布するマスコミ(さらに詳しく!)

歴史学者をバカにする行為は社会常識として間違っていませんか?

 「歴史修正主義者に対する正しい態度とは、侮蔑する事である」というのが社会常識です。 従って歴史学者をバカにする行為は社会常識として正しい態度です。

このように歴史学者達をネット上で匿名で批判する行為は倫理的、法律的に問題がありませんか?

 歴史学における不正行為(歴史の捏造、改竄)の告発は社会正義の一種であり、 倫理的にも法律的にも何の問題もありません。 むしろ倫理的に問題がある行為とは、 歴史の真実から目を背け、ニセ歴史を学校教育を通じて国民に刷り込む行為でしょう。

新型コロナウィルス

 菅総理が新型コロナ第三波の感染爆発を主に飲食店に対する時短営業の要請だけで収束させたのは、 日本が世界に誇るべき偉業でしょう。 単に国家の危機を最小限の規制で乗り切っただけでなく、 飲食の場こそが最大の感染源である事を実証したのですから。 それは即ち、ダイアモンドプリンセス号のパンデミックの主な原因は日本政府の検疫体制の不備にあったのではなく、 クルーズ船のビュッフェレストランにあった事をも証明したのです。 安倍政権が2020年2月末にビュッフェスタイルのレストランの危険性を通知したのは懸命な判断でした。 安倍政権を批判する事が「社会正義」だと考えて原因もロクに追求せずに日本政府を糾弾し、 飲食の場における感染爆発への備えを怠ってしまった者達は、 「真実よりもポリコレ」を追求して2020年2月を「失われた一ヶ月」としてしまい、 惨劇を防ぐ可能性を失った自らの過ちを反省すべきでしょう。 ポリコレに目を奪われて真実を見失うなど、愚の骨頂です。

 話は変りますが、誰か話題のテニスプレイヤーに教えてあげて下さい。 何がポリコレかを決めるのはマスコミなのだと。 フェミニズム、マイノリティ、LGBTなどの運動は支持者獲得のためにマスコミが方針転換した理念に過ぎないのだと。 マスコミは不満を持つ若者達を崇高な理念で扇動し、正義感を植付けて罵詈雑言で批判するように凶暴化させてきたこれまでの印象操作の愚行を繰り返しているだけなのだと。 マスコミに敵対する者こそが最悪の反ポリコレであり、問答無用でキャンセルされる運命にあるのだと。

おまけ1:ファシズムのバイブル「ヒトラー語録

満足している者は戦力にならない。不満を集めて彼等を扇動し、はけ口を一点に集中してこそ強力な戦力になる。
理念とは飽くまでも目的のための手段であり、理念の実現自体を目的とすると危険になる。
敵対する理念を抹殺するために戦うのではなく、自分達の理念を実現するために戦え。
理念がしっかりしていないと、卑怯と呼ばれる武器の使用をためらってしまう。
宣伝は学問ではない。知的水準が最低限の者が判る程度にするべきだ。できるだけ理屈を省いて分かり易くする事である。
宣伝とは、大衆を確信させるため、最も単純な概念を何千回と繰返し、覚えさせる事である。
責任は全て敵にある。重要なのは「我々の責任ではない」と突っぱねるのではなく、「あいつの責任だ」と突っ放す事だ。
マスコミは下衆である。口当りの良い言葉を用いるマスコミや人間は自己の利益のみに動くか、単なる馬鹿である。用心すべし。

おまけ2:女性哲学者シモーヌ・ヴェイユの名言集

現代社会の中には、犯罪よりもいまわしいものが一つだけあります。それは「抑圧的な正義」です。
自分の知識を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
我々が選ぶべきは「空想の楽園」ではなく「現実の地獄」です。
「過去の破壊」は、あらゆる罪の中でおそらく最大の罪です。
人は権力を手にした時、悪を悪として感じられないだけでなく、不可欠のものとして、さらには義務として感じるのです。

トンデモ歴史教科書でネトウヨ化するポリコレ歴史教育のまやかし
歴史認識捏造のネトウヨ歴史教育と社会学者のデタラメ社会問題
歪曲歴史教科書でポリコレ現実逃避するごまかし歴史教育問題


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